今年も、年初めから、国立能楽堂主催の能・狂言公演に、通っており、先日、梅若玄祥師の「井筒」、観世清和宗家の「呉服」を、鑑賞する機会を得た。
今のところ、能楽協会主催の式能や納涼能、能楽祭などには行くが、それ以外は、特別な催しを除いて殆ど行かずに、もっぱら、国立能楽堂の公演だけに通っているのだが、それでも、都合、月に4回くらいは、能・狂言の舞台に接していることになる。
昨年4月から、国立能楽堂開場30周年記念公演で、大変意欲的で素晴らしい舞台が続いたので、期せずして、貴重な経験を得ることが出来て幸せであった。
「井筒」は、伊勢物語からテーマを借用した世阿弥の複式夢幻能の典型的な作品だと言うことで、幼い時に井筒を隔てて幼馴染であった男と女が恋をして結婚すると言う在原業平と紀有常の娘の恋の物語である。
伊勢物語に断片的に記されている男女の物語を世阿弥が、何篇かを統合して二人の恋物語としており、伊勢物語とは違った一種の創作なのだが、紀有常の娘がシテで、彼女の立場から、狂おしい程の業平への恋心を表現しているので、激しく切ない思いが胸を打つ。
先日、「世阿弥における「主題」の発見」と言う能楽あんないで、天野文雄教授は、「井筒」の主題は、「恋慕」と「懐旧」だと説明していた。
しかし、梅原猛氏は、「世阿弥の恋」の中で、有常の娘を「哀れな死を遂げた待つ女」と表現しており、世阿弥は、「卒塔婆小町」の深草少将が小町に突然乗り移ったとする観阿弥の乗り移りを継承して、懐かしい恨めしい男を忍び、男の冠・直衣をつけて舞うと言う「幽玄」と言ってよいか、「凄惨」と言ってよいか、真に見事な能を創造したとしており、業平を「恋慕」と「懐旧」だけでは見ていない。
私は、河内の高安の愛人宅に通う業平に対して、有常の娘が、夫の身を案じる歌を詠んで、それを隠れて盗み聞きしていた業平が感激して高安との縁を切ると言う意地らしい女心は本当だと思うが、
中入り後、最初のシテの、”あだなりと名にこそ立てれ桜花、年に稀なる人も待ちけり、かように詠みしも我なれば、人待つ女といわれしなり、・・・”では、京に上って3年も帰って来ず、二条后と逢引きしていたなど女遍歴を続けていた業平への恨み辛みが滲み出ており、荒れに荒れて廃墟と化した在原寺でのシテの思いは、「恋慕」や「懐旧」を越えて、哀れであり実に苦しい筈である。
梅原先生は、
”女はゆっくり序ノ舞を舞うが、この舞ほど静かで、しっかり女の複雑な情念を表す舞はない。この舞をどれだけ美しく、また哀れに舞うかによって演者の品位が問われると思われる。と言っている。
優雅に実に美しく舞い続ける玄祥師は、”筒井筒、井筒に・・・”作り物に近づいて、左袖を返して井筒を覗きこむのだが、激しくススキを叩き、一気に激情したような仕草を演じた。私は、思わず覗き込んだ井筒の水鏡に映った姿は、業平そのままの姿であったので、懐かしさと恨めしさが錯綜した思いが一気に迸り出たのであろうと思って観ていた。
室町末期には、シテの執心・狂乱の要素を強調する演出が主流であったと言う。
筒井筒の幼い頃の思いと成人してからの恋の目覚め、そして、高安の愛人との別れなどが、余りにも美しくて綺麗な情景描写なので、この最後の「哀れな死を遂げた待つ女」として井筒の水鏡を覗き込む業平姿の有常の娘の思いが、恨めしさであり執心・狂乱であれば、ある程、劇的効果が高いような気がするのだが、能は、そんな思いで鑑賞してはダメなのであろうか。
愛と憎しみとは表裏一体、同じものだとするのなら、恋慕すればするほど、つれなさへの恨み辛みは、倍化するのかも知れないと思うこともあるのだが、経験がないので良く分からない。
尤も、「杜若」のように、業平は、歌舞の菩薩の化身であって、多くの女性遍歴、とりわけ、二条后との恋も、衆生済度のわざであったとするストーリーになると何をか況やであるが、世阿弥の思いが那辺にあったのか、面白いと思う。
「呉服」は、晩年の世阿弥が、1492年に、新将軍足利義教を祝福するために書き下ろした祝典曲だと言う。
しかし、皮肉なことに、義教は、世阿弥の甥(元養子)の観世三郎元重(音阿弥)を重用して、世阿弥に仙洞御所への出入りを禁止し(1429年)、その上、醍醐清滝宮の楽頭職を罷免する(1430年)などしたので、世阿弥・元雅親子は、どんどん、能楽界での地位と興行地盤を失って窮地に立たされて行く。
そして、梅原先生の能「世阿弥」で演じられているように、1432年に、長男の観世元雅が伊勢で殺害されてしまい、更に、失意のどん底の世阿弥にも、1434年に佐渡国に流刑と言う悲運が見舞う。
応神天皇の御代に、呉の国の勅使が機織りの女工を伴って来日し、天皇の御衣を織って献上し御代を祝福したのだが、後代の天皇の素晴らしい御代を祝福するために現世に再び(シテ/呉織 観世清和、ツレ/漢織 観世芳伸 として)姿を現わすという霊格出現の方法で当代の治世賛美し、義教新将軍を祝福した筈なのだが、その意図と思いは実らなかった。
しかし、そんなことは関係なく、世阿弥の素晴らしい芸術が残ったのであるから、世阿弥としては、本望かも知れない。
何故、義教は、これ程徹底的に、世阿弥父子を窮地に陥れて、音阿弥贔屓に没頭したのか。
これについては、諸説あるのだが、前に今泉淑夫教授の説を引いて、
理由のないところに理由を見出す義教の専断志向の特質であった不条理であり、総てのことを我意に従わせようと言う権力者の横暴が義教には突出していて、義教の内部に鬱積の因となる存在を排除する衝動が生まれて、その衝動が配流の動機にもなったのだ、としたのだが、歴史の皮肉と言えば皮肉である。
ところで、今回は、従来の観世流の演出ではなく、古演出復元の試みで、後場に作り物の織台が置かれ、呉織一人ではなく、呉織・漢織二女神が登場し、通常の「中ノ舞」ではなくて、宗家工夫による「天女ノ舞」が舞われた。
私など初歩鑑賞者にとっては、良く分からないのだが、清和宗家の優雅で素晴らしい舞姿を拝見できるだけで十二分であった。
この日、臨済宗相国寺派有馬頼底管長の「世阿弥の花と禅」と言う講演があって、非常に興味深く聞かせて貰った。
あのシェイクスピアが、教育も十分ではないのに、何故、あれ程までの戯曲を書くことが出来たのか疑問なので、誰が本当のシェイクスピアであったのか、随分議論されて来ているのだが、身分的には極めて卑賤であって正式には教育を受けたことがなかった世阿弥にも同じような疑問があってしかるべきかも知れないが、有馬管長は、室町将軍足利義満が、五山などを訪問する時には、必ず、世阿弥を伴って出かけており、世阿弥は、その高度な禅問答や法話を聞いており、十分に禅の知識を習得していて、熟知の上で、風姿花伝を書いていると語っていた。
それに、世阿弥は、摂政二条良基に連歌を習うなど、将軍のみならず貴族の保護をも受けて、十分に知識・教養を積んで研鑽する機会があって、かなり高度な文化人であったのである。
このあたりが、世阿弥の能が、格段に優れている秘密なのであろうが、世阿弥の能には、禅のドクトリンが色濃く息づいていると言うのは、興味深い指摘であった。
今のところ、能楽協会主催の式能や納涼能、能楽祭などには行くが、それ以外は、特別な催しを除いて殆ど行かずに、もっぱら、国立能楽堂の公演だけに通っているのだが、それでも、都合、月に4回くらいは、能・狂言の舞台に接していることになる。
昨年4月から、国立能楽堂開場30周年記念公演で、大変意欲的で素晴らしい舞台が続いたので、期せずして、貴重な経験を得ることが出来て幸せであった。
「井筒」は、伊勢物語からテーマを借用した世阿弥の複式夢幻能の典型的な作品だと言うことで、幼い時に井筒を隔てて幼馴染であった男と女が恋をして結婚すると言う在原業平と紀有常の娘の恋の物語である。
伊勢物語に断片的に記されている男女の物語を世阿弥が、何篇かを統合して二人の恋物語としており、伊勢物語とは違った一種の創作なのだが、紀有常の娘がシテで、彼女の立場から、狂おしい程の業平への恋心を表現しているので、激しく切ない思いが胸を打つ。
先日、「世阿弥における「主題」の発見」と言う能楽あんないで、天野文雄教授は、「井筒」の主題は、「恋慕」と「懐旧」だと説明していた。
しかし、梅原猛氏は、「世阿弥の恋」の中で、有常の娘を「哀れな死を遂げた待つ女」と表現しており、世阿弥は、「卒塔婆小町」の深草少将が小町に突然乗り移ったとする観阿弥の乗り移りを継承して、懐かしい恨めしい男を忍び、男の冠・直衣をつけて舞うと言う「幽玄」と言ってよいか、「凄惨」と言ってよいか、真に見事な能を創造したとしており、業平を「恋慕」と「懐旧」だけでは見ていない。
私は、河内の高安の愛人宅に通う業平に対して、有常の娘が、夫の身を案じる歌を詠んで、それを隠れて盗み聞きしていた業平が感激して高安との縁を切ると言う意地らしい女心は本当だと思うが、
中入り後、最初のシテの、”あだなりと名にこそ立てれ桜花、年に稀なる人も待ちけり、かように詠みしも我なれば、人待つ女といわれしなり、・・・”では、京に上って3年も帰って来ず、二条后と逢引きしていたなど女遍歴を続けていた業平への恨み辛みが滲み出ており、荒れに荒れて廃墟と化した在原寺でのシテの思いは、「恋慕」や「懐旧」を越えて、哀れであり実に苦しい筈である。
梅原先生は、
”女はゆっくり序ノ舞を舞うが、この舞ほど静かで、しっかり女の複雑な情念を表す舞はない。この舞をどれだけ美しく、また哀れに舞うかによって演者の品位が問われると思われる。と言っている。
優雅に実に美しく舞い続ける玄祥師は、”筒井筒、井筒に・・・”作り物に近づいて、左袖を返して井筒を覗きこむのだが、激しくススキを叩き、一気に激情したような仕草を演じた。私は、思わず覗き込んだ井筒の水鏡に映った姿は、業平そのままの姿であったので、懐かしさと恨めしさが錯綜した思いが一気に迸り出たのであろうと思って観ていた。
室町末期には、シテの執心・狂乱の要素を強調する演出が主流であったと言う。
筒井筒の幼い頃の思いと成人してからの恋の目覚め、そして、高安の愛人との別れなどが、余りにも美しくて綺麗な情景描写なので、この最後の「哀れな死を遂げた待つ女」として井筒の水鏡を覗き込む業平姿の有常の娘の思いが、恨めしさであり執心・狂乱であれば、ある程、劇的効果が高いような気がするのだが、能は、そんな思いで鑑賞してはダメなのであろうか。
愛と憎しみとは表裏一体、同じものだとするのなら、恋慕すればするほど、つれなさへの恨み辛みは、倍化するのかも知れないと思うこともあるのだが、経験がないので良く分からない。
尤も、「杜若」のように、業平は、歌舞の菩薩の化身であって、多くの女性遍歴、とりわけ、二条后との恋も、衆生済度のわざであったとするストーリーになると何をか況やであるが、世阿弥の思いが那辺にあったのか、面白いと思う。
「呉服」は、晩年の世阿弥が、1492年に、新将軍足利義教を祝福するために書き下ろした祝典曲だと言う。
しかし、皮肉なことに、義教は、世阿弥の甥(元養子)の観世三郎元重(音阿弥)を重用して、世阿弥に仙洞御所への出入りを禁止し(1429年)、その上、醍醐清滝宮の楽頭職を罷免する(1430年)などしたので、世阿弥・元雅親子は、どんどん、能楽界での地位と興行地盤を失って窮地に立たされて行く。
そして、梅原先生の能「世阿弥」で演じられているように、1432年に、長男の観世元雅が伊勢で殺害されてしまい、更に、失意のどん底の世阿弥にも、1434年に佐渡国に流刑と言う悲運が見舞う。
応神天皇の御代に、呉の国の勅使が機織りの女工を伴って来日し、天皇の御衣を織って献上し御代を祝福したのだが、後代の天皇の素晴らしい御代を祝福するために現世に再び(シテ/呉織 観世清和、ツレ/漢織 観世芳伸 として)姿を現わすという霊格出現の方法で当代の治世賛美し、義教新将軍を祝福した筈なのだが、その意図と思いは実らなかった。
しかし、そんなことは関係なく、世阿弥の素晴らしい芸術が残ったのであるから、世阿弥としては、本望かも知れない。
何故、義教は、これ程徹底的に、世阿弥父子を窮地に陥れて、音阿弥贔屓に没頭したのか。
これについては、諸説あるのだが、前に今泉淑夫教授の説を引いて、
理由のないところに理由を見出す義教の専断志向の特質であった不条理であり、総てのことを我意に従わせようと言う権力者の横暴が義教には突出していて、義教の内部に鬱積の因となる存在を排除する衝動が生まれて、その衝動が配流の動機にもなったのだ、としたのだが、歴史の皮肉と言えば皮肉である。
ところで、今回は、従来の観世流の演出ではなく、古演出復元の試みで、後場に作り物の織台が置かれ、呉織一人ではなく、呉織・漢織二女神が登場し、通常の「中ノ舞」ではなくて、宗家工夫による「天女ノ舞」が舞われた。
私など初歩鑑賞者にとっては、良く分からないのだが、清和宗家の優雅で素晴らしい舞姿を拝見できるだけで十二分であった。
この日、臨済宗相国寺派有馬頼底管長の「世阿弥の花と禅」と言う講演があって、非常に興味深く聞かせて貰った。
あのシェイクスピアが、教育も十分ではないのに、何故、あれ程までの戯曲を書くことが出来たのか疑問なので、誰が本当のシェイクスピアであったのか、随分議論されて来ているのだが、身分的には極めて卑賤であって正式には教育を受けたことがなかった世阿弥にも同じような疑問があってしかるべきかも知れないが、有馬管長は、室町将軍足利義満が、五山などを訪問する時には、必ず、世阿弥を伴って出かけており、世阿弥は、その高度な禅問答や法話を聞いており、十分に禅の知識を習得していて、熟知の上で、風姿花伝を書いていると語っていた。
それに、世阿弥は、摂政二条良基に連歌を習うなど、将軍のみならず貴族の保護をも受けて、十分に知識・教養を積んで研鑽する機会があって、かなり高度な文化人であったのである。
このあたりが、世阿弥の能が、格段に優れている秘密なのであろうが、世阿弥の能には、禅のドクトリンが色濃く息づいていると言うのは、興味深い指摘であった。