鎌倉に転居して空いていたわが千葉の家も、人手に渡ったので、これで、住み慣れた千葉へのアクセスも殆どなくなり、感無量である。
関西から、大阪万博が終わって東京へ移ってからは、本格的に関東拠点での生活が見えて来ていたので、ブラジル赴任が終わって帰国した直後に、取りあえず、土地だけでも押さえておこう思って選んだのがこの千葉であった。
数年後に家を建てたのだが、3年ほど住んだだけで、ヨーロッパへ赴任した。
会社の後輩に住んで貰って、8年間留守をしたのだが、帰って来てからは、長く住んでいたので、この千葉が私の生活拠点であった。
色々な思い出があるのだが、私にとっては、かなり広い庭を利用してのガーデニングと言うか、庭を通じての自然とのふれあいが印象深く残っている。
残念だったのは、私が丹精込めて育てた花木など庭木や球根を、そのまま残して来たことである。
この口絵写真のピンクの枝垂れ梅は、まだ、1メートルの背丈にもならなかった鉢植えを買ってきて植えたもので、今では堂々たるもので、3月の中旬には、5メートルくらいの枝を横に広げて滝のように美しい花を咲かせる。
その後から、春の草花を下草に従えて、30種以上もある椿の花が、順繰りに咲き乱れて、牡丹や芍薬、バラやユリにバトンタッチして行く。
その間に、前の集会場の庭のソメイヨシノが咲き始めると、借景となって、わが庭も華やぐ。
庭の移り変わりについては、このブログの「わが庭の歳時記」や「花鳥風月・・・」に書き続けて来たので、思い出の片鱗は反芻できるし、それに、膨大な花の写真が残っている。


さて、わが住まいだが、西宮、宝塚、伊丹、茨木、高槻・・・と関西だけでも、随分、移転を重ねていて、関東に移ってからも、東京から数か所、それに、海外では、フィラデルフィア、サンパウロ、アムステルダム、ロンドンと都合7回以上も宿替えをしているので、私の人生は、正に、旅と宿替えの人生であったと言えよう。
尤も、この千葉の家だけは、サラリーマン人生で、私自身が自分で建てた唯一の自家であった。
娘たちにとっても思い出深い家なので、どうしようかと迷ったのだが、このまま何らかの形で保有していても、この9か月の間でも、留守宅のチェックや庭の雑草などの処理で結構大変であったし、維持管理の苦労を考えれば、手放す方が良いと考えたのである。
私たちが家を手配した頃には、住宅公庫でさえ5.5%、厚生年金では6.5%と言う高金利のローンを組まなければならず、最初は、毎月のローン返済は、金利ばかりで、元金の減少などスズメの涙ほどで、正に恐怖だったが、救いは、今とは違って、仕事さえ続けておれば、毎年、昇給があったと言うことである。
ところが、やっと、ローンを払い終えたところで、バブル崩壊。不動産価格の釣瓶落としの下落である。
その後の持家である中古の住宅価格の低落は、目も当てられない状態だが、今や少子高齢化および人口減で、政府の発表だと、25年度の空き家率は,13.5%と過去最高で、全国の空き家総数が820万戸だと言うから、最早、時代の流れ。
現状を甘受するほかなく、喜んで住んで貰える人がいると言うだけでも、有難いと思うべきであろう。
注文住宅で、かなりシッカリと建てた家であり、3.11の大震災で、震度6弱ないし5強にも耐えてビクともしていないので、そのまま家を維持して、リフォームして住んでくれると言うことであるから、私にとっては、御の字である。
ところで、家を手放すにあたって、どんな気持ちかと聞かれるのだが、私にとっては、大切なものをなくすのであるから寂しい気はするのだが、これだけ、移動の激しい人生を送っていると、ほかの宿替えと似たり寄ったりで、それほど強い寂寥感を感じないのが、自分でも不思議である。
これまでも、前に住んでいた家を見ることは殆どなかったので、この千葉の家も思い出の彼方に消えて行くのであろうが、
”月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也”を、肝に銘じて生きて来たようなものだから、後ろを振り向くこともなかろうと思っている。
関西から、大阪万博が終わって東京へ移ってからは、本格的に関東拠点での生活が見えて来ていたので、ブラジル赴任が終わって帰国した直後に、取りあえず、土地だけでも押さえておこう思って選んだのがこの千葉であった。
数年後に家を建てたのだが、3年ほど住んだだけで、ヨーロッパへ赴任した。
会社の後輩に住んで貰って、8年間留守をしたのだが、帰って来てからは、長く住んでいたので、この千葉が私の生活拠点であった。
色々な思い出があるのだが、私にとっては、かなり広い庭を利用してのガーデニングと言うか、庭を通じての自然とのふれあいが印象深く残っている。
残念だったのは、私が丹精込めて育てた花木など庭木や球根を、そのまま残して来たことである。
この口絵写真のピンクの枝垂れ梅は、まだ、1メートルの背丈にもならなかった鉢植えを買ってきて植えたもので、今では堂々たるもので、3月の中旬には、5メートルくらいの枝を横に広げて滝のように美しい花を咲かせる。
その後から、春の草花を下草に従えて、30種以上もある椿の花が、順繰りに咲き乱れて、牡丹や芍薬、バラやユリにバトンタッチして行く。
その間に、前の集会場の庭のソメイヨシノが咲き始めると、借景となって、わが庭も華やぐ。
庭の移り変わりについては、このブログの「わが庭の歳時記」や「花鳥風月・・・」に書き続けて来たので、思い出の片鱗は反芻できるし、それに、膨大な花の写真が残っている。


さて、わが住まいだが、西宮、宝塚、伊丹、茨木、高槻・・・と関西だけでも、随分、移転を重ねていて、関東に移ってからも、東京から数か所、それに、海外では、フィラデルフィア、サンパウロ、アムステルダム、ロンドンと都合7回以上も宿替えをしているので、私の人生は、正に、旅と宿替えの人生であったと言えよう。
尤も、この千葉の家だけは、サラリーマン人生で、私自身が自分で建てた唯一の自家であった。
娘たちにとっても思い出深い家なので、どうしようかと迷ったのだが、このまま何らかの形で保有していても、この9か月の間でも、留守宅のチェックや庭の雑草などの処理で結構大変であったし、維持管理の苦労を考えれば、手放す方が良いと考えたのである。
私たちが家を手配した頃には、住宅公庫でさえ5.5%、厚生年金では6.5%と言う高金利のローンを組まなければならず、最初は、毎月のローン返済は、金利ばかりで、元金の減少などスズメの涙ほどで、正に恐怖だったが、救いは、今とは違って、仕事さえ続けておれば、毎年、昇給があったと言うことである。
ところが、やっと、ローンを払い終えたところで、バブル崩壊。不動産価格の釣瓶落としの下落である。
その後の持家である中古の住宅価格の低落は、目も当てられない状態だが、今や少子高齢化および人口減で、政府の発表だと、25年度の空き家率は,13.5%と過去最高で、全国の空き家総数が820万戸だと言うから、最早、時代の流れ。
現状を甘受するほかなく、喜んで住んで貰える人がいると言うだけでも、有難いと思うべきであろう。
注文住宅で、かなりシッカリと建てた家であり、3.11の大震災で、震度6弱ないし5強にも耐えてビクともしていないので、そのまま家を維持して、リフォームして住んでくれると言うことであるから、私にとっては、御の字である。
ところで、家を手放すにあたって、どんな気持ちかと聞かれるのだが、私にとっては、大切なものをなくすのであるから寂しい気はするのだが、これだけ、移動の激しい人生を送っていると、ほかの宿替えと似たり寄ったりで、それほど強い寂寥感を感じないのが、自分でも不思議である。
これまでも、前に住んでいた家を見ることは殆どなかったので、この千葉の家も思い出の彼方に消えて行くのであろうが、
”月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也”を、肝に銘じて生きて来たようなものだから、後ろを振り向くこともなかろうと思っている。