熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

大型書店の嫌中韓本の賑わい

2014年10月04日 | 生活随想・趣味
   何時ものように神保町に行くと三省堂書店に立ち寄って、3階の政治経済社会本のコーナーに行く。
   ビジネス街ではないので、書棚のディスプレィも、東京駅や大手町の大書店と違って、何となく核がないのだが、書棚の一角に、嫌中韓本とも言うべき一連の本が、平積みになって、積まれていた。
  

   尤も、このコーナーは、嫌中韓本と言うのではなく、日本の領土問題や防衛安全、政治外交などカレントトピックスをもテーマにしているのだが、圧倒的に、この種類の本が多いのである。
   この平台には、朝には、同じ高さに平積みされた筈だと思うのだが、口絵でも分かるように、次の二冊が、大きく買われている。
   宮崎正弘の「中国・韓国を本当に見捨て始めた世界」
   上念司・倉山満の「日本の敵を叩きのめす!」

   日本の国のことを、真剣に考えることは大切なことだとは思うし、これらの問題意識は、重要な問題だとは思うのだが、私自身は、これらの本を手に取って読もうと言う気持ちは、全くない。
   現状を知ると言うことは、大変重要なことだとは思うのだが、真実かどうかと言う問題以外にも、基本的には、長期的な歴史認識の問題であり、相当掘り下げて勉強しないと、正しい判断が出来ないと思うからである。
   まして、一方的であろうと思えるような嫌中韓論であろうから、危険でさえあると思っている。

   私自身は、中国には、中国が開国し始めた時期、天安門事件の後、7~8年前、とたったの3回しか北京と上海とその近郊しか行っていないし、韓国へは一度も行ったことがないので、語る資格もないのだが、一つは、住んでみて分かることが結構多くて、私の場合には、好きも嫌いも、アメリカ、ブラジル、オランダ、イギリスについては、実際にも住みながら、その国や人びとについても勉強して見たし、実感として、それらの国を身近に感じている。
   そのような経験から、特に、カレントトピックスとして著されたこのような中国や韓国論は、かなり、スキューしている感じがして、読んで見る気にはなれないのである。

   ところで、これらの平積み本の裏の書棚は、次のような経済書コーナーであった。
   

   宇沢弘文先生の本はともかく、本格的な経済学書と言うよりは、経済学に親しむためと言うか経済学への誘いと言った初歩的な本が並んでいる。
   私自身は、大学と大学院で経済学を勉強し、その後、何十年も経済学書を読み続けているのだが、
   「学問に王道なし」で、経済学は、実に難しい学問であって、今でもよく分からないことも多くて考え方を変えることもあり、簡易な勉強法などある筈もなく、巷に出ている入門書などが、役に立つとは思えない。

   私が、学生の頃には、近代経済学とマルクス経済学と言う両派が鎬を削っていたのだが、マル径の後退で、新古典派経済学やケインズ経営学を継承した近経も大きく変貌し、進化経済学、ポストケインジアン、オーストリア学派経済学、複雑系経済学などの展開で、経済学は、どんどん、歴史の潮流によって進化発展(?)して、決定版の経済学など存在しない。
   したがって、同じ経済社会現象であっても、学派によって大きく見解が違っており、例えば、グローバリゼーションが人類の幸福にとって良いのか悪いのか、全く両極端な議論が展開されているのである。
   卑近な話でも、経済学者の経済予測が殆ど当たらないと言う現実に鑑みれば、如何に、経済学が難しくて複雑な学問であるかが分かる。

   私の学生の頃は、サミュエルソンの「エコノミクス」であったが、今なら、スティグリッツ、クルーグマン、マンキューなどのマクロ・ミクロの経済学テキストであろうか。
   これなどでも、先達はあらまほしけれで、講義解説を受けるのが好ましく、経済学の片鱗に触れるためには、最低限度でも、この程度の勉強は必要だろうと思っている。
コメント
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