BRIC'sと騒がれながら、今や、その人気も下火になったが、ブラジル同様に、ロシアに関する出版物が、実に少なく、ガイドブックさえ、英仏や米国と比べれば、格段に少なくて、大書店でも、店によっては、ロシアのコーナーさえもない。
私など、トルストイの「戦争と平和」やボロディンの「イーゴリ公」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」など映画やオペラやロシア芸術などでの印象がまずあって、幸い、経済学を専攻したので、マルクス経済学や共産主義経済の勉強を通じて、革命以降くらいの政治経済などを勉強したり、現在ロシアの動向などで得た知識などが先行していて、ロシアの全体像に対する纏まった理解には乏しかった。
この本は、「興亡の世界史」シリーズの1巻で、ロマノフ王朝を主体にソ連崩壊までの時期のロシアの歴史を、非常に、ビビッドに活写した本であって、レーニンやスターリン時代の既述はやや淡白であり、7年前の出版なので、ロシア危機やプーチン政権の動向など現在ロシアについては、触れられてはいない。
しかし、実際にロシア帝国を築き上げ、大国ロシアの勃興に大きく貢献したイヴァン雷帝、ピョートル大帝、エカテリーナ女帝、ニコライ皇帝などロマノフ王朝の政治経済社会動向を、農奴など国民生活をも含めて詳細に描いていて、ほぼ、ロシアの国家や国民性などが理解できて、非常に面白い。
私が、ロシアについて、強烈に覚えているのは、”ウミレニエ”(感動)と言うロシア語である。
もう、何十年も前に、「ライフ人間世界史」の「ロシア」で知った言葉で、自然、愛、音楽、芸術などなど、美しいものに接した時にロシア人の心に感情を呼び起こすあの強烈な「感動」で、このウミレニエを感じない人は、ロシア人にとっては、生ける屍も同然だと言うことである。
聖歌、僧侶の式服、聖画像、薫香、建築など地上の美しさと、精神的な美しさに感動して、ビザンチンからそっくりギリシャ正教を取り入れたと言われているのだが、地上にこれ程壮麗で、これ程美しいものはないであろうと言う感動である。
宮殿の豪華絢爛さ、ボリショイやマリインスキー劇場の壮麗さやそのオペラ・バレエの美しさ、エルミタージュの壮大華麗さなども、このロシア人のウミレニエの発露であろうか。
さて、ロシアだが、9世紀後半に、スカンジナヴィアを本拠地とするヴァイキング、すなわち、ノルマン人が、キエフ公国を作って統治し、その後、13世紀に勃興したモンゴルに蹂躙されて、200年以上もの間、「タタールのくびき」に苦しみ続け、
実際に、イヴァン三世が、ロシアを統一しモスクワ大公に即位したのは、1462年だと言うから、日本では、鎌倉幕府で義政の治世であり、実質、ロシア人によるロシアの歴史は、随分、新しい。
その間に、モンゴル、ポーランド、スウェーデンなど強国に苦しめられ続けて来ており、強国ロシアとして君臨してきた時代は、非常に短いのである。
私の興味は、やはり、ロシア経済の成長と停滞。
ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」の第五章「収奪的制度のもとでの成長」で、収奪的制度のもとでも、経済は成長するが、その成長はいずれすぐに終息して、経済は一気に沈滞してしまうと言うプロセスを、ソ連を例にして語っていた。ことである。
ソ連が、収奪的な経済制度のもとでも急速な経済成長を達成できたのは、ボリシェヴィキが、強力な中央集権国家を築き、それを利用して資源を工業に配分したから成長したのだが、この経済プロセスは、技術的変化を特徴としていなかったが故に長続きしなかった。
と言うのである。
この視点に興味を持って、この本を読んでいて、いくらか、これを示唆する記述があった。
一つは、ニコライ1世時代に、ピヨートル・チャアダーエフが、「後進性の優位」を主張していて、ロシアが、ヨーロッパ諸国より遅れて歴史に登場したのは、先進国の経験や失敗に学ぶことが出来るから、ロシアの将来にとって有利だと議論を展開していたことである。
これなどは、明治維新後や戦後の日本の高度成長や、近年の中印の快進撃を考えれば当然のことだが、正に、ロシアの歴史は、経済のみならず、文化文明においても、後進性ゆえのメリットが、大いに貢献しているのは間違いなかろう。
尤も、スプートニクだけは、アメリカの心肝を根底から寒からしめた。
もう一つの視点、何故、イノベイティブな発想を生み出す民間の活力を生かせなかったのかと言うことである。
これについては、ニコライ2世時代に敏腕を振るい、日露戦争講和会議で小村寿太郎と渡り合ったセルゲイ・ヴィッテが、
「イギリスでは、総てが個人の発意と企業心に委ねられており、国家は個人の活動を規制するだけ」だが、ロシアでは、それに頼る訳には行かず、
「ロシアでは、官僚は個人の活動を方向づけるほかに、社会的経済的活動の多くの分野で、直接参加しなければならない」として、経済生活への国家干渉の手法を推し進めたと言うことである。
尤も、ロシア自体が、歴史の初期から専制君主ツァーリによる絶対王政に支配された強力な全体主義国家体制を強いて来たのであるから、当然の帰結でもあり、このことが、
レーニンによる共産主義体制への移行を容易にしたのであろうが、いずれにしろ、良かれ悪しかれ、ロシアの宿命であろう。
モンゴル支配に拠るタタールのくびき、そして、勃興した帝政ロシアの巻き返しと、スェーデン領やシベリアへの版図拡大、その結果生まれた多民族国家の苦悩。
現在、チェチェンやウクライナなどでの民族紛争の熾烈さを考えれば、ロシアの辿って来た道が平安無事な国家形成ではなかったことが良く分かって面白い。
私など、トルストイの「戦争と平和」やボロディンの「イーゴリ公」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」など映画やオペラやロシア芸術などでの印象がまずあって、幸い、経済学を専攻したので、マルクス経済学や共産主義経済の勉強を通じて、革命以降くらいの政治経済などを勉強したり、現在ロシアの動向などで得た知識などが先行していて、ロシアの全体像に対する纏まった理解には乏しかった。
この本は、「興亡の世界史」シリーズの1巻で、ロマノフ王朝を主体にソ連崩壊までの時期のロシアの歴史を、非常に、ビビッドに活写した本であって、レーニンやスターリン時代の既述はやや淡白であり、7年前の出版なので、ロシア危機やプーチン政権の動向など現在ロシアについては、触れられてはいない。
しかし、実際にロシア帝国を築き上げ、大国ロシアの勃興に大きく貢献したイヴァン雷帝、ピョートル大帝、エカテリーナ女帝、ニコライ皇帝などロマノフ王朝の政治経済社会動向を、農奴など国民生活をも含めて詳細に描いていて、ほぼ、ロシアの国家や国民性などが理解できて、非常に面白い。
私が、ロシアについて、強烈に覚えているのは、”ウミレニエ”(感動)と言うロシア語である。
もう、何十年も前に、「ライフ人間世界史」の「ロシア」で知った言葉で、自然、愛、音楽、芸術などなど、美しいものに接した時にロシア人の心に感情を呼び起こすあの強烈な「感動」で、このウミレニエを感じない人は、ロシア人にとっては、生ける屍も同然だと言うことである。
聖歌、僧侶の式服、聖画像、薫香、建築など地上の美しさと、精神的な美しさに感動して、ビザンチンからそっくりギリシャ正教を取り入れたと言われているのだが、地上にこれ程壮麗で、これ程美しいものはないであろうと言う感動である。
宮殿の豪華絢爛さ、ボリショイやマリインスキー劇場の壮麗さやそのオペラ・バレエの美しさ、エルミタージュの壮大華麗さなども、このロシア人のウミレニエの発露であろうか。
さて、ロシアだが、9世紀後半に、スカンジナヴィアを本拠地とするヴァイキング、すなわち、ノルマン人が、キエフ公国を作って統治し、その後、13世紀に勃興したモンゴルに蹂躙されて、200年以上もの間、「タタールのくびき」に苦しみ続け、
実際に、イヴァン三世が、ロシアを統一しモスクワ大公に即位したのは、1462年だと言うから、日本では、鎌倉幕府で義政の治世であり、実質、ロシア人によるロシアの歴史は、随分、新しい。
その間に、モンゴル、ポーランド、スウェーデンなど強国に苦しめられ続けて来ており、強国ロシアとして君臨してきた時代は、非常に短いのである。
私の興味は、やはり、ロシア経済の成長と停滞。
ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」の第五章「収奪的制度のもとでの成長」で、収奪的制度のもとでも、経済は成長するが、その成長はいずれすぐに終息して、経済は一気に沈滞してしまうと言うプロセスを、ソ連を例にして語っていた。ことである。
ソ連が、収奪的な経済制度のもとでも急速な経済成長を達成できたのは、ボリシェヴィキが、強力な中央集権国家を築き、それを利用して資源を工業に配分したから成長したのだが、この経済プロセスは、技術的変化を特徴としていなかったが故に長続きしなかった。
と言うのである。
この視点に興味を持って、この本を読んでいて、いくらか、これを示唆する記述があった。
一つは、ニコライ1世時代に、ピヨートル・チャアダーエフが、「後進性の優位」を主張していて、ロシアが、ヨーロッパ諸国より遅れて歴史に登場したのは、先進国の経験や失敗に学ぶことが出来るから、ロシアの将来にとって有利だと議論を展開していたことである。
これなどは、明治維新後や戦後の日本の高度成長や、近年の中印の快進撃を考えれば当然のことだが、正に、ロシアの歴史は、経済のみならず、文化文明においても、後進性ゆえのメリットが、大いに貢献しているのは間違いなかろう。
尤も、スプートニクだけは、アメリカの心肝を根底から寒からしめた。
もう一つの視点、何故、イノベイティブな発想を生み出す民間の活力を生かせなかったのかと言うことである。
これについては、ニコライ2世時代に敏腕を振るい、日露戦争講和会議で小村寿太郎と渡り合ったセルゲイ・ヴィッテが、
「イギリスでは、総てが個人の発意と企業心に委ねられており、国家は個人の活動を規制するだけ」だが、ロシアでは、それに頼る訳には行かず、
「ロシアでは、官僚は個人の活動を方向づけるほかに、社会的経済的活動の多くの分野で、直接参加しなければならない」として、経済生活への国家干渉の手法を推し進めたと言うことである。
尤も、ロシア自体が、歴史の初期から専制君主ツァーリによる絶対王政に支配された強力な全体主義国家体制を強いて来たのであるから、当然の帰結でもあり、このことが、
レーニンによる共産主義体制への移行を容易にしたのであろうが、いずれにしろ、良かれ悪しかれ、ロシアの宿命であろう。
モンゴル支配に拠るタタールのくびき、そして、勃興した帝政ロシアの巻き返しと、スェーデン領やシベリアへの版図拡大、その結果生まれた多民族国家の苦悩。
現在、チェチェンやウクライナなどでの民族紛争の熾烈さを考えれば、ロシアの辿って来た道が平安無事な国家形成ではなかったことが良く分かって面白い。