
昨夜のNHK大河ドラマ「義経」は、”決戦・壇ノ浦”であった。
実に美しい素晴らしい演出であったが、平家びいきの私には、耐えられなかった。
松坂慶子の毅然とした二位尼が印象的であった。
知盛の最後は、舟の上からであったが、文楽や歌舞伎の様に、大きなイカリを背負ってざんぶと背面から海に飛び込む豪快なもの。
海に飛び込めなくて家来に突き落とされる平家の棟梁・宗盛の哀れさが、平家の命運を総て語っている。
ここでも、義経は、非戦闘員である水夫舵取りを射ると言う禁じ手を使う。鵯越でも、屋島でも、ここでも、勝つ為には禁じ手であろうと何でも使う戦略戦術に長けた義経軍に、正攻法とローテクで対峙する公家化した平家は勝てない。
何年か前に、下関に出かけて、壇ノ浦近辺を歩いたことがある。
文明開花の頃の下関の面影は色濃く残っているが、源平合戦の名残は何も残っていない。
九州と本州が合う狭い海峡・早鞆の瀬戸だが、世界一長い吊橋関門橋が架かり下をトンネルが走っていて、全くの様変わり、しかし、潮の流れは速い。
私は、学生の頃、岩波の「平家物語」3巻を愛読した。後にも先にも、古典を全巻古語で読んだのは、この平家だけだが、幸い、京都での学生生活だったので、平家物語の縁の地を歩いて回った。
宇治に下宿をしていた頃は、平家よりも、源氏物語の宇治十帖の方に印象が強かったが、私は、嵐山と嵯峨を訪れるのが好きであった。
時には、小督を訪ねる仲国の様な心境で歩いた。
あの頃は、あの辺りは殆ど足を踏み入れる人がなく、滝口寺も祗王寺も、全く廃寺のような風情で、鬱蒼とした山の中を秋草をかき分けて行かねばならなかった。
平家物語は、ある意味では軍記ものだが、実にロマンの薫り高い物語で、人間の哀れさ悲しさをこれほどまでに美しく歌い上げた物語はないと思っている。
一方、建礼門院が亡くなった寂光院を訪ねて、何度も、大原に出かけた。
素晴らしい天気の時は、朝の授業が終わって百万遍辺りからバスに乗って大原に行った。
あの頃は、充分、春の櫻や秋の紅葉を楽しみながら、寂光院から三千院までの人影の殆どない田舎道を散策できたし、寂光院の華麗な紅葉を本堂の縁台に腰をかけて何時間も愛でることが出来た。その古い本堂も、焼失してしまって今はない。
しかし、その後は、秋の紅葉の美しい季節には、朝早くタクシーで大原まで走るか、遅く行って夕闇迫る頃まで粘るか、兎に角、観光客で銀座通りのようになる時間を避けないと、大原の秋を満喫出来なくなってしまった。
もっとも、ルートを離れて一歩奥に入ると静寂そのものの大原の里の春や秋を楽しむことが出来るのだが。
私は、中村歌右衛門の最晩年の舞台・北条秀司の歌舞伎「建礼門院」を歌舞伎座で見た。
平家物語の「大原御幸」の場面で、後白河法皇を新国劇の島田正吾が演じていた。
後白河法皇は、門院を参内させるように命じたが清盛が拒否して高倉天皇の妃になった経緯があり、法皇の門院への執心故か、何故、草深い大原まで訪れたのか問題になることがある。
しかし、北条はそんな無粋な話は無視して、この場面を、法皇の懺悔と門院のさとりの崇高な人間ドラマに仕立てている。
門院が、壇ノ浦の阿鼻叫喚の断末魔の凄まじさを掻き口説き、自身の孫安徳天皇を殺したのは祖父の貴方なのだと告発する、晩年に近い歌右衛門の凄い入魂の舞台である。歌右衛門はもう台詞の記憶もさだかではなく、プロンプターの声が耳に障る程、しかし、芸は衰えていない。
後白河法皇は、懺悔し土下座して門院に謝る。
六道輪廻、地獄を見た門院が法皇を許し、悟りを開く。
寂しそうに花道を去ってゆく正吾・法皇を見送りながら、「お父様・・・」とつぶやく。二人の熱演が、観客を釘付けにする。
西海に散った平家の菩提を弔って最後まで生きた建礼門院、どんな思いで草深い大原で生を終えたのか、もし、この舞台のようであれば、せめてもの慰めであると思った。
壇ノ浦が飛び火して話が長くなってしまった。しかし、平家への思いは限りなくある。
上原まりの琵琶の音と語りが、何時までも耳から離れない。
実に美しい素晴らしい演出であったが、平家びいきの私には、耐えられなかった。
松坂慶子の毅然とした二位尼が印象的であった。
知盛の最後は、舟の上からであったが、文楽や歌舞伎の様に、大きなイカリを背負ってざんぶと背面から海に飛び込む豪快なもの。
海に飛び込めなくて家来に突き落とされる平家の棟梁・宗盛の哀れさが、平家の命運を総て語っている。
ここでも、義経は、非戦闘員である水夫舵取りを射ると言う禁じ手を使う。鵯越でも、屋島でも、ここでも、勝つ為には禁じ手であろうと何でも使う戦略戦術に長けた義経軍に、正攻法とローテクで対峙する公家化した平家は勝てない。
何年か前に、下関に出かけて、壇ノ浦近辺を歩いたことがある。
文明開花の頃の下関の面影は色濃く残っているが、源平合戦の名残は何も残っていない。
九州と本州が合う狭い海峡・早鞆の瀬戸だが、世界一長い吊橋関門橋が架かり下をトンネルが走っていて、全くの様変わり、しかし、潮の流れは速い。
私は、学生の頃、岩波の「平家物語」3巻を愛読した。後にも先にも、古典を全巻古語で読んだのは、この平家だけだが、幸い、京都での学生生活だったので、平家物語の縁の地を歩いて回った。
宇治に下宿をしていた頃は、平家よりも、源氏物語の宇治十帖の方に印象が強かったが、私は、嵐山と嵯峨を訪れるのが好きであった。
時には、小督を訪ねる仲国の様な心境で歩いた。
あの頃は、あの辺りは殆ど足を踏み入れる人がなく、滝口寺も祗王寺も、全く廃寺のような風情で、鬱蒼とした山の中を秋草をかき分けて行かねばならなかった。
平家物語は、ある意味では軍記ものだが、実にロマンの薫り高い物語で、人間の哀れさ悲しさをこれほどまでに美しく歌い上げた物語はないと思っている。
一方、建礼門院が亡くなった寂光院を訪ねて、何度も、大原に出かけた。
素晴らしい天気の時は、朝の授業が終わって百万遍辺りからバスに乗って大原に行った。
あの頃は、充分、春の櫻や秋の紅葉を楽しみながら、寂光院から三千院までの人影の殆どない田舎道を散策できたし、寂光院の華麗な紅葉を本堂の縁台に腰をかけて何時間も愛でることが出来た。その古い本堂も、焼失してしまって今はない。
しかし、その後は、秋の紅葉の美しい季節には、朝早くタクシーで大原まで走るか、遅く行って夕闇迫る頃まで粘るか、兎に角、観光客で銀座通りのようになる時間を避けないと、大原の秋を満喫出来なくなってしまった。
もっとも、ルートを離れて一歩奥に入ると静寂そのものの大原の里の春や秋を楽しむことが出来るのだが。
私は、中村歌右衛門の最晩年の舞台・北条秀司の歌舞伎「建礼門院」を歌舞伎座で見た。
平家物語の「大原御幸」の場面で、後白河法皇を新国劇の島田正吾が演じていた。
後白河法皇は、門院を参内させるように命じたが清盛が拒否して高倉天皇の妃になった経緯があり、法皇の門院への執心故か、何故、草深い大原まで訪れたのか問題になることがある。
しかし、北条はそんな無粋な話は無視して、この場面を、法皇の懺悔と門院のさとりの崇高な人間ドラマに仕立てている。
門院が、壇ノ浦の阿鼻叫喚の断末魔の凄まじさを掻き口説き、自身の孫安徳天皇を殺したのは祖父の貴方なのだと告発する、晩年に近い歌右衛門の凄い入魂の舞台である。歌右衛門はもう台詞の記憶もさだかではなく、プロンプターの声が耳に障る程、しかし、芸は衰えていない。
後白河法皇は、懺悔し土下座して門院に謝る。
六道輪廻、地獄を見た門院が法皇を許し、悟りを開く。
寂しそうに花道を去ってゆく正吾・法皇を見送りながら、「お父様・・・」とつぶやく。二人の熱演が、観客を釘付けにする。
西海に散った平家の菩提を弔って最後まで生きた建礼門院、どんな思いで草深い大原で生を終えたのか、もし、この舞台のようであれば、せめてもの慰めであると思った。
壇ノ浦が飛び火して話が長くなってしまった。しかし、平家への思いは限りなくある。
上原まりの琵琶の音と語りが、何時までも耳から離れない。