熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

満開の佐倉城址公園(歴博)の桜

2010年04月08日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   温かい日差しに誘われて、印旛沼の池畔の桜並木を散策しようと思って出かけたら、週末から、同じ池畔に沿った佐倉チューリップ公園で、チューリップ祭りが始まるので、周りは、バリケードが張り巡らされて、交通整理のガードマンたちが喧しく右往左往していて、車では近づけなくなっている。
   遠くの仮説駐車場に誘導しているようだが、もう既に、かなり沢山の観光客たちがチューリップ鑑賞に来ており、週末にはどうなるのかと思える程の賑わいである。
   
   ものものしさに興ざめしたのと、オランダに3年間滞在して、キューケンホフ公園やリセのチューリップ畑で、十分過ぎるほどチューリップの美しさを楽しんできており、まだ、咲き切っていないチューリップ畑で擬似オランダを味わうこともないと思って、通り過ぎて遠回りして、佐倉の田舎の春を味わいながら、佐倉城址公園に向かった。

   この城址公園の桜は、今、やや満開を過ぎた感じのソメイヨシノの時期と、4月下旬頃の八重桜の頃と、二回楽しめる。
   この公園のソメイヨシノは、広々としたオープン・スペイスにゆったりと植えられているので、込み合って根が痛めつけられている上野や千鳥が淵のソメイヨシノのように、豪華絢爛とびっしり花を着けた風格のある桜と違って、やや、間延びしてぼんやりした感じなのだが、それだけ、野趣の味もあって楽しめるような気がしている。

   この口絵写真は、城址公園の入り口にある国立歴史民族博物館(歴博)のエントランス・ロビーを入って、左側のミュージアム・ショップ越しの大きなガラス窓から展望した満開のソメイヨシノである。
   丁度、2階壁面を全面ガラス窓にしており、それが、額縁となって、巨大な絵画のように、ぱっと、明るく迫ってくるのである。
   陽が照っていてソメイヨシノが輝いていると、桜吹雪の風情は格別で、この時期には、歴博のスペクタクルな素晴らしい特別展を鑑賞できると言うことである。

   今咲いている桜は、大半ソメイヨシノで、白い雲が棚引いているようなぼやっとした雰囲気だが、ややピンクが勝った枝垂れ桜や、鮮やかな濃い桃色のキクモモやハナモモが彩を添えている。
   茶室のカエデが、真っ赤に芽吹きはじめているのだが、やはり、点景として、鮮やかな色の配色がないと、桜が満開だと言っても、庭の面白みに欠ける気がする。

   この公園には、結構、椿の巨木があるのだが、殆ど薄暗い木陰に植えられた藪椿で、どうしても、濃緑で真っ黒な感じの木に、ちらほら、黄色い蘂と真っ赤な花弁が見え隠れしているのだが、殆ど、目立たず、下草の上の落ち椿を見て、見上げて、やっと気づくと言ったところである。

   本丸跡の緑地には、結構、沢山の花見客が来ていて、三々五々シートに車座で座って憩っている。流石に、メートルを上げている宴会はない。
   まだ、八重桜の蕾は固く、咲いているのはソメイヨシノばかりだが、一本だけ真っ白な花を広げたオオシマザクラの巨木があって、そこだけ、違った風情を醸し出していて面白い。

   菖蒲園の程近い池畔に、スザクと言う名の八重桜の巨木があって、薄い綺麗なピンクの花を着けている。
   木陰から鶯の鳴き声が聞こて来て長閑だが、誰も、人は来ない。
   菖蒲園は、鮮やかな緑や黄緑の芽が吹き始めて、初夏の準備に入っている。
   周りの紫陽花も、葉が大分茂って来ており、来月から6月にかけて、この当たりが花で美しく輝く。
   
   私は、あまりにも定番過ぎて、余程の風景でないと、ソメイヨシノには、あまり興味がなく、他の種類の桜を探して鑑賞することにしている。
   この歴博の側に、かなり年を経たサトザクラが1本植わっていて、綺麗な真っ白の花をたわわにつけて美しかった。
   小さな木なのだが、空洞化して涸れかけた幹から新しい枝が出てきて、小さな白っぽい花を開きかけたコトブキと言う桜が1本植わっていた。
   それに、まだ小さな木なのだが、私の好きなヤエムラサキザクラが、やや紫がかったピンクの清楚な花を咲かせていたので、嬉しかった。
   昔、私の庭に、普賢象と言う八重桜を植えていたのだが、虫にやられて涸れてしまったので、大きさに困っていたのでこれ幸いと切ってしまったのだが、この桜なら植えても良いと思っている。
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御名残四月大歌舞伎・・・助六由縁江戸桜

2010年04月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   愈々、木挽町のこの歌舞伎座での公演は、この四月で終わり、改築工事に入る。
   お寺のような古代建築だと思って入ったら歌舞伎座で、偶々、歌右衛門の美しい姿を見て歌舞伎に魅了されて大ファンとなったと言う話を、歌舞伎を救ったと男として有名なマッカーサーの副官フォービアン・パワーズが書いているのだが、その歌舞伎座である。
   私自身、手術を受けた後なので、無理を承知で、最後の第三部だけ見に出かけたのだが、その演目が、「実録先代萩」と「助六由縁江戸桜」で、非常に感激して帰ってきた。

   助六由縁江戸桜は、やはり、御名残公演としては最高の演目の一つで、お家の十八番を背負っての團十郎の助六であり、揚巻を玉三郎が演じ、菊五郎をはじめ、歌舞伎界のトップスターが勢揃いする豪華な舞台であるから、楽しくない筈がない。
   冒頭の花道から登場するほろ酔い機嫌の玉三郎・揚巻の妖艶で美しい艶姿と豪華絢爛たる花魁道中を見るだけでも、この歌舞伎を見るだけの値打ちがあると思うのだが、
   山川静夫さんの解説を借用すると、「黒羽二重の小袖に紅絹裏、杏葉牡丹の五つ紋、浅黄無垢の下着に綾織の帯、鮫鞘の刀、印籠、尺八を後ろに指し紫縮緬の鉢巻を結び、」黄色い足袋を履いて下駄の音を高らかに響かせて、蛇の目傘を半開きにして顔を隠して小走りに團十郎・助六が、花道に登場するとやんやの喝采。
   助六が、河東節にのって、花道の七三で行ったり来たり、蛇の目傘を小道具に、江戸の伊達男の粋の限りを尽くした見得の数々をたっぷりと披露するのだから、ファンにとっては堪らないのであろう。

   この助六の黒、紅、浅黄、紫、黄色などと言ったベネトン顔負けの色鮮やかな衣装もそうだが、兎に角、五節旬の趣向が用いられていると言う揚巻の花魁の衣装の豪華さ美しさは格別で、これだけ複雑で粋と美の局地を凝縮させデザインを創造した芸術家魂の発露に感嘆せざるを得ないと思う。
   髭の意休の衣装でも、くわんぺらの子分・朝顔仙平(歌六)の奴姿でも、美的感覚の素晴らしさは、流石だと思っている。

   ところで、助六のモデルは多々あるようだが、この歌舞伎でも上方を連想させる台詞や紙衣が登場しており、実際に大坂で実在した侠客助六と心中した嶋原の傾城総角(あげまき)の話が濃厚だと思うのだが、二代目團十郎が、助六を曽我五郎に脚色して、今日の助六の舞台を作り上げたのだと言う。
   筋書きは極めて単純。吉原仲之町三浦屋の看板花魁揚巻の間夫である助六が、華の吉原で喧嘩を仕掛けるのは、相手の刀が、なくなった源氏の宝刀友切丸かどうかを詮議するためで、揚巻に入れ込むが振られっ放しの髭の意休(左團次)が持っていることを突き止め、揚巻の機転で、意休を殺害して取り戻すと言うのが、本筋だが、観客を喜ばせるために、ユーモア、諧謔、沢山のコント風の挿話を散りばめて、実にユニークな舞台を作り上げていて楽しませてくれる。

   助六役者としても天下一品の二枚目役者仁左衛門が、どうにも締りの付かないチンピラやくざ(?)くわんぺら門兵衛を演じて、三枚目のずっこけた醜態を見せているのも、この舞台の見せ所であるし、勘三郎が、通人里暁を演じて、助六・團十郎と白酒売新兵衛・実は助六の兄曽我十郎(菊五郎)を前にして、カレントトピックスのギャグを連発しながら股潜りをするなど、助六が、何の芝居なのか分からなくなるくらいである。
   天下の名優三津五郎が、福山かつぎ寿吉で、一寸出で登場し、口上を、何時もの段四郎に代わって海老蔵が勤めるなど興味深い趣向もある。

   やはり人間国宝で、白酒売の菊五郎の何とも言えない女っぽい優男ぶりの柔が、助六の團十郎の剛と絶妙な対照を成していて面白かった。
   左團次の意休は、もはや、定番。
   前回、通人里暁を演じて観客を笑いに巻いていた東蔵が、今度は、曽我兄弟の母・曽我満江で登場し、渋い芸を見せている。

   しかし、何と言っても、この助六の舞台は、團十郎と玉三郎あっての舞台であって、旧歌舞伎座で演じられた極め付きの名舞台として、後世に名を残すであろうと思っている。

   團十郎が、「助六」について、「團十郎の歌舞伎案内」に書いているのだが、助六は、江戸庶民の願望が織り込まれていて、江戸っ子そのものであり、江戸庶民の羨望の的なので、舞台に出てゆく時には、イイ男でありたいと言う。
   履いている下駄は、魚河岸から貰ったものだが、よく花道の出などで滑って危険なのだが、下駄特有のカッカッカッと言う音が命なので、ビクビクせずにやっていると言うことらしい。
   面白かったのは、二代目が助六を舞台に乗せたのは、江島生島事件の後で、助六が花道で二回お辞儀をするのは、一回目は江戸のお客様に対して、そして、二回目は、芝居を愛してやまなかった江島を敬うための所作なのだと言うことである。
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テレビ朝日:サンデープロジェクトの衣替え

2010年04月05日 | 政治・経済・社会
   田原総一朗が看板であった「サンデープロジェクト」が3月末で幕を閉じ、小宮悦子キャスターが司会を勤める「サンデーフロント」に衣替えした。
   新番組については、4月4日の第一回目の放送しか見ていないので、まだ、何とも言えないが、正直なところ、はるかに良くなったと言うのが、私の正直な感想である。

   前半は、鳩山内閣の長妻、枝野、前原大臣が登場し、それに対して、東大の姜尚中教授と藤原帰一教授、それに、朝日と毎日の論説委員が、コメンテーターとして加わると言う非常にオーソドックスで癖のない密度の高いプログラムであり、
   後半のニッサンのカルロス・ゴーン社長を交えてのドキュメンタリー・タッチの電気自動車の現状と将来レポートも、非常に興味深かった。
   特に、田原サンプロと趣向が変わったと言う訳ではないのだが、迷走気味で灰汁の強い強引なプログラム展開と、飽き飽きするようなマンネリ気味の軽量級常連コメンテーター(初期には、高坂正堯教授が登場していたと言うのに)による番組展開とは様変わりであり、非常に新鮮であった。

   ところで、日経ビジネスに、田原総一朗が、『本音引き出す「勝負」終幕』と言うタイトルで、今回のサンプロ終焉について思いの丈を綴っている。
   興味深いのは、番組打ち切りの理由として田原が上げているのは、コンプライアンスが厳しく問われる時代になり、テレビ局として面倒な番組はあまりやりたくない、無難な番組にしたいという思いがあったように思うと語っていることである。
   「生意気」「傲慢」「下品」と批判を浴びた司会手法ではあったが、政治家を「挑発」して本音を引き出すと言うのが、田原総一朗の狙いであったと説いているのだが、橋本首相をテレビカメラの前で汗びっしょりで絶句させて窮地に追い込み、その後の参院議員選挙で大敗し退陣に導くと言ったこともあったようで、そのために、自民党から政治的な圧力が常に存在し、出演ボイコットを受けたとも言う。

   田原が語っているように、日本経済がバブルの絶頂期にあり、ベルリンの壁が崩壊した1989年にスタートしたこのサンプロは、その後の世界と日本の激動期を突っ走って、時代の申し子のように快進撃を続けて来たのだが、21世紀に入って時代が大きく変わりはじめたにも拘らず、その波に乗れずに賞味期限をとっくに過ぎてしまったのである。
   竹村健一が進めていた同じような番組が終わった時期に、少なくとも、消えているべき番組だったと言うことであろうか。

   田原あってのサンプロだったのであろうが、あの番組の主張なり意図した方針などが、どんどん、私の期待から離れて行き、最近では、田原の進めて行く独り善がり(?)の議論や理論展開について行けなくなり、面白くなくなって来ていたので、見ることも少なくなっていた。
   政治や政局、政界と言った政治的な議論はともかくも、田原の経済的ないし経営的な教養なり知識の欠如は致命的であったので無視して、学者などのコメンテーターの考え方などを繋ぎ合わせながら聞いていたのだが、政局よりも、経済事象が重要性を増すに連れてどんどん空しくなってきていた。

   私は、学生の頃は、ニューズウィークのウォルター・リップマンのコラムを読み、アメリカに居た頃、ウォルター・クロンカイトのCBSニュースを楽しみに見ていたのだが、いずれにしろ、ジャーナリズムは、そのジャーナリストの質であると思っている。
   NHKなどは、公正で中立の報道を心がけていると言うのだが、もとより、公正中立などと言ったものは不可能であり、早い話、TV報道でも、カメラの数だけの視点しかなく、他の無数にある視点から見れば、全く、事象の真実が違って見えることがある。
   サンプロのような報道番組は、それなりに非常に面白く有益なのだが、やはり、番組編集とキャスター、それに、コメンテーターの質を思いっきり上げて良質なプログラムを組むことが大切だと思っている。
   
   田原が、最後に、ジャーナリズムは、「中立」「客観」を是としてきたが、政治的な立ち位置を明確にしなければならない時代になっているように思うと書いているが、そうかも知れない。
   日高義樹のワシントンリポートなどは、ハドソン研究所だから、当然、保守的で、オバマ嫌いで徹底していて容赦なく批判しており、また、ニューヨークタイムズなど民主党擁護と言った形で、欧米のメディアの場合には、かなり、政治色が鮮明に出ているのだが、日本の場合には、どうであろうか。
   
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人類文明論を考える(5)~エジプトはナイルの賜物

2010年04月03日 | 学問・文化・芸術
   古代エジプトは、地中海にそそぐナイル川の流域に沿って南北800キロに及ぶ細長く形成された王国で、紀元前3200年頃から、変わることなく極めて安定し、3000年の間繁栄を続けて来た。
   何故これ程までに長きに亘って変わることなく安定した文明が維持されて来たのか。
   それを可能にしたのは、ナイル川で、毎年、決まった時期に増水して緩やかな氾濫を起こし、上流から作物の生育にとって理想的な肥えた土・ナイル・シルトを運んで来るので、作物の種を蒔きさえすれば必ず恵みをもたらすと言う機械仕掛けのようなナイルの規則的な律儀さがそうさせたのであって、これこそが、エジプトはナイルの賜物と言われる所以である。

   ここで想起されるのは、先日、取り上げたシュメール文明との対比で、同じ大河の恵みを受けた文明でありながら、ティグリス・ユーフラテス川の洪水では耕作地は壊滅的な打撃を受け、水が引くと、再び耕作地に戻すためには過酷な労働を必要としたのだが、エジプトのナイルは、氾濫と言うよりは増水程度で、肥沃なナイル・シルトを残して穏やかに水位を下げて行き豊作を結果すると言った状態であるから、この自然の恵みの対照が、夫々の文明に、大きな差をもたらしたのである。
   例えば、その差の典型が、エジプトのピラミッドの存在で、十分な余剰農産物があったから、農閑期に巨大な建造物を建設するために多くの人々を動員することが出来たのであって、ピラミッドこそは、ナイルの恵みが生んだ余剰農産物の象徴なのである。

   ところが、この途方もない無駄が出来るだけの富がある一方で、その富をより有益なことに利用するだけの外界からの刺激がなかったために、むしろ、その安定した豊かさの保証が、変革や進歩を阻害する要因となり、自分たちで何か新しいものを生み出そうとか、イノベーションを起こそうとかと言った必要性を削いでしまった。
   そのために、エジプトの場合には、何時までも変わることなく、、3000年の間、同じことをひたすら繰り返すと言う、いわば、一種の思考停止の文明であり、その歴史であった。

   古代エジプトの歴史は思考停止の3000年だと言う視点に立つと、ピラミッドに代表されるエジプトの建造物などは、高度な建築技術とは無縁で、単純なものを愚鈍なまでに集積して造られたもので、いわば、大いなるマンパワーの産物に過ぎないと言う青柳正規名誉教授の指摘が面白い。
   エジプト文明は、それ程たいしたものではなく、豊かさゆえに存続を続けたのだと言うことになると、エジプトへの思いが大分変わって来る。

   メソポタミアの数学や天文学には及びも付かないが、エジプトが歴史に残した例外的な唯一の遺産は、太陽暦の発明だと言う。
   エジプトでは、ナイル川が増水する時には、決まって明け方の東の空に明るいシリウス星が輝くのだが、次の増水時期でシリウスが輝く日を正確に計算して1年を365日とする太陽暦を生んだと言うのだが、これもナイルの恵みと言うべきであろうか。

   ところで、アントニウスとクレオパトラの連合軍を破って地中海の覇者となったアウグストゥスが、エジプトの豊かさを目の当たりにして、政敵がエジプトを制したら大変なことになると考えて、元老院議員のエジプト入国を禁止したと言うから、ナイルの恵みを受けたエジプトの豊かさは、群を抜いていたのであろう。
   しかし、エジプトは、軍事面では極めて弱体で、殆ど軍の体を成して居らず、豊かさゆえに他国への進出の必要性はなく、逆に、侵攻の標的になっていたので、富を奪われないための防衛的な軍事行動が主体であったと言うことである。

   さて、豊かさゆえに、進歩と変革が殆ど止まった思考停止状態で推移した古代エジプト文明だが、偉大な歴史的、芸術的な数多くの遺産を後世に残している。
   やはり、この古代エジプトの歴史も、古代においても現代においても、文化文明が高度に発展して遺産を残すためにも、あるいは、その文明が長く存続しして行くためにも、農産物の余剰、富や資本の余剰を生み出すことが、必須であったことを教唆していて、非常に興味深い。
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人類文明論を考える(4)~シュメール文明の凋落は農業

2010年04月02日 | 学問・文化・芸術
   現在の北シリアからザグロス山脈の南麓北イラクにかけての北メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」は、最も古い文明の発祥地である。
   しかし、人口の増加や天候不順などで食料難に陥り飢餓に苦しんだ人々は、南下して、極めて自然条件の厳しい典型的な夏季乾燥型の砂漠気候のチグリス・ユーフラテスに囲まれた南メソポタミアに定住して、困難かつ長期的な計画を必要とする灌漑施設を構築して、農耕と言う当時最大かつ最新の生産活動を可能にし、従前の雨水頼みの耕作地帯が生み出す量をはるかに凌駕する生産性を確保した。
   これは、その困難な条件を克服する工夫によって適格地以上の生産性を可能にしたのであり、その意味では後進性ゆえの先進性と看做すことが出来ると指摘するのは、青柳正規名誉教授である。

   このような高度で精緻な灌漑施設を常に維持しなければ農耕を続けることが出来なかったので、当初から集団を指揮する有能な人物が不可欠であり、その指導者に従う集団と言う上下関係にもとづく組織が生まれ、食料の集中分配システムが確立され、最古の都市文明が生まれた。
   これが、近代ヨーロッパにおける産業革命以降のモデルとなり、天文学や60進法などの科学的発達を遂げたシュメール文明である。

   ところが、この高度に発展したシュメール文明が、紀元前2000年頃には、凋落して衰退して行くのだが、その文明が滅びた要因は、塩害による農業生産力の低下によると言うのである。
   乾燥と高温による水分の蒸散の結果地中の水分の塩類濃度が上昇すると同時に、灌漑施設が塩類濃度上昇に拍車をかけ、塩分に弱い小麦の収穫量が減り、大麦まで影響を受け、最後には、ナツメヤシしか収穫できなくなったのである。
   
   さて、この高度な世界最古のシュメール文明を作り出した活力は一体何であったのか。
   それは、本来農耕に適さなかった土地を灌漑して農地化するだけのソフトとハードの創意工夫があったからで、それが、都市建設や軍隊の指揮にも有効に働き、それがシュメールの更なる発展を促したのだと言うのが青柳説だが、正に、これこそは、四大文明の発祥についてアーノルド・トインビーが展開した挑戦と応戦の理論である。
   
   その創意工夫が、逆にマイナス要因となったのは、灌漑施設を前庭とした農耕ゆえに各都市の領域が運河や水路などの水体系ごとに区切られ、その範囲内で余剰農産物生み出す豊かさを手に入れ、この都市国家の居心地の良い自己完結性から抜け出せず、それ以上の発展を阻害し、大規模な領域国家になれなかったと言うのである。

   シュメール文明の衰退が、農業不振と都市国家の自己完結性の限界によると言うことだが、多くの文明の歴史がそうであったように、かってその文明を大いに隆盛に導いた要因こそが、同時に衰退滅亡を招く要因であると言う厳粛なる法則をなぞっていて面白い。
   このことは、文明のみならず会社経営についても言えることで、隆昌の要因によって衰退すると言う真実は、人間活動の総てに起こり得ることで、逆に言えば、どんなに成功して隆盛を極めた文明であっても、必ず衰退して滅びると言うことを意味している。

   ここで、もう一つ考えなければならないのは、シュメール文明の衰退が、農業が齎した環境破壊にあると言う現実で、このことは、現在の農業そのものが、自然環境に過度の負荷を強いて、環境破壊に繋がっていないかと言うことである。
   先に、マイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」で、窒素化学肥料の発明によって如何に農業生産が歪められて地球環境を破壊してきたかについて論じたことがある。
   ニュアンスは大分違うが、今後、人口がこのまま異常な伸びを示して増大して行けば、更なる農業の集約化が進んで行き、自然環境に負担をかけすぎて、最終的に地球上の多くの土地を農耕不可能にしてしまう心配は皆無とは言えなくなる。
   シュメールの時代は、一文明の衰亡だけで済んだが、今度は、地球全体が駄目になり、人類の将来そのものが危機に陥り、人類文明論の議論どころではなくなってしまうのである。
   
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人類文明論を考える(3)~草食動物型文明へ

2010年04月01日 | 学問・文化・芸術
    最近、若い男性が、草食系になって女の子を、猛獣のように積極的にアタックしなくなったと言われている。
    私が、若かった頃はどうだったかと言うことだが、やはり、お互いの気持ちが痛いほど分かっていても、好きな女性に、話すことさえままならず好きだと言えずに涙を呑んだと言うのが殆どではなかったかと思うと、何が草食系で、何が動物系なのか、判断は難しい。

   さて、このタイトルの「草食動物型文明」へ向かうべきだと提唱するのは、青柳正規東大名誉教授で、「植物型文明」とも言い換えているが、このままでは、地球が破滅してしまうので、もっと穏やかに、地球になるべく負担をかけないようにやって行こうと言うのである。
   動物型から植物方に転換するのは、どうすれば良いのか。それは、「心地よい停滞」を受け入れることだと言う。

   日本のバブルが崩壊した1990年代以降、経済学者たちは、一様に「日本は停滞期に入った」と言うのだが、成長は鈍化したが、依然世界第二位(?)の経済大国であり、あまり変化を好まず平穏に暮らしたい人にとっては、この状態は決して悪いことではなく、「停滞期」と言うからこのままではいけないと力み返るのことになるのであって、「安定期」と言えば良いのであると説く。
   (この議論は、現在の境遇に満足していて、このままの生活が続いても良いと思っている定職もあり財産もある比較的恵まれた境遇にある人の考え方で、今日のような疲弊して苦境に立った経済社会情勢では、経済的弱者が、最も経済社会の軋みをモロに受けて、その皺寄せに呻吟するなど経済社会現象の捩れをを知らない独り善がりの議論でもあるのだが、ここでは深入りしない。)
   現代人は成長の呪縛から中々逃れられず、経済分野は結果や予測が数値化されやすく、説得力も持つのだが、数値化されないところに、重要なものが隠れており、気分で左右されない、本当の満足度を追及することが必要である。
   このまま、進歩、成長、拡大、イノベーションと言った、いわば肉食動物型文明の原理をあたりまえのものとして継続して行けば、その先に待っているものは破滅であり、気分を変えるためにも、穏やかな植物型文明にシフトして、「心地よい停滞」を抵抗なく受け入れるようになった時には、新しい繁栄の形が見えてくるような気がする。と仰るのである。

   「心地よい停滞」を是とするには、経済成長がゼロないしマイナスでもどうにかやって行ける社会的な仕組みを作り直さなければならない。
   経済が縮小傾向に入っても、質の向上と満足度の増大を、数値化できない時には、言葉で、様々なメディアを通して訴え、多くの人々の合意を形成することが大切である。と主張する。
   現在の経済学では、特に、良くても悪くても何でもかんでも、マネタリータームで取引されれば国民所得統計に計上されて、経済成長や経済水準を図る指標として使われているGDPが、次善ではあるが幾分欺瞞的な概念であることは、何度も問題となり俎上に上がって論議されてきたことで、このブログでも、人間の幸福や満足の視点から、経済学のあり方などについて論じてきており、本題ではないので今回は端折る。

   しかし、この経済成長をゼロないしマイナス状態で、国民生活の質の向上と満足度を上げるべく社会的な仕組みを作り直すなどと言うのは、言うは易しで、実現するなど至難の業なのである。
   早い話、政府の無為無策状態で経済成長が止まれば、如何に国民生活の質が悪化するのかは、深刻な所得格差や壊滅状態に追い込まれて疲弊している地方経済の惨状を見れば、一目瞭然であろう。
   もっと深刻なのは、日本の財政赤字の問題で、経済成長がゼロないしマイナス成長で推移すれば、たちまち国家の債務が1000兆円をオーバーして悪化の一途を辿って行き、早晩日本経済が破綻するのは、火を見るより明らかである。

   従って、課題は、このブログでも何度も論じて来たが、経済成長を進めながら、現存する社会のマイナスを縮小しつつ、如何に、国民生活の質を向上させて人々の満足度を向上させて行くかと言うことである。
   青柳教授が糾弾する進歩、成長、拡大、イノベーションが悪いのではなく、これこそが、現在社会においても切り札であって、その質を、危機に瀕した地球船宇宙号と人類の幸せのために、似つかわしい姿に変えて機動力として活用することである。
   例えば、イノベーションによって太陽光発電を安く簡便に利用する仕組みを確立させ、日本中の家庭の総てに太陽光発電パネルを設置出来れば、経済成長を図りつつ、環境に優しい社会へ一歩近づく。
   人間が原始の生活に戻るのが一番良いのかも知れないが、同じものを作っても、それ以前のものより省エネかつ省資源で、地球環境をどんどん浄化して行くようなエコ・プロダクツを生み出すのは、人間の英知を結集したイノベーション以外に救世主はないと思っている。       
   私は、国民生活の質の向上のためにも、経済社会の構造改革のためにも、新しい幸福指標を満足させるような経済成長が必須だと思っているので、今こそ、どのような経済成長を目指すべきなのか、真剣に考えるべきだと思っている。
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