『数々の謎をはらむ「やまなし」の世界』
「やまなし」が教科書に載って以来30数年間、いかに多くの教師が頭を悩ませてきたかということを西郷先生も書いています。謎が多すぎるからです。その謎に対する疑問を子どもたちも抱くため、多くの教師は適当にごまかして授業をすすめてきたとも言っています。
①クラムボンとは何なのか?
②賢治はなぜクラムボンとかイサドといった造語を用いたのか?
③クラムボンはいったん死ぬのに、なぜまたわらうのか?
④「やまなし」が出てくるのは最後の方だけなのに、なぜ「やまなし」という題名なのか?
⑤「二枚の青い幻燈です」というのに、作品はどう考えても映画のように変化している。
⑥「青い幻燈」という一色なのに、まことにカラフルで多様な色に満ちてあふれている矛盾。
⑦そもそもなぜ「青い」のか?
⑧「私の幻燈」とあるが、「私の」とは何を意味しているのか?
⑨なぜ「2枚」の幻燈なのか?なぜ五月と十二月を選んでいるのか?
⑩「光の網」のイメージがくり返し使われて強調されているのは何のためなのか?
⑪これだけ短い作品の中で、会話の比重が非常に大きい。また、会話で類比させているのは何のためなのか?そこに深い思想的な意味が隠されている。
⑫「小さな谷川の底」という表現、特に「底」という部分にも賢治の深い思いが込められている。
⑬なぜ蟹が視点人物なのか?
⑭「かわせみー魚ークラムボン」という殺し殺される関係が、蟹の兄弟の他愛もない泡くらべとどのようなかかわりがあるのか?
こうした疑問点をあげた上で、西郷先生は次のように述べています。
すべての謎、問いは、すべてひとつにつながりあい、かかわってあるのだ。すべてのイメージとその意味がひとつの生命体における細胞のように、全一体となっているようなものである。私はそれを「形象の相関・全一性の原理」と呼んでいる。
「やまなし」は賢治の哲学・宗教・科学が、芸術(散文詩)としてひとつに結晶したものである。そこには賢治の世界観がある。それは仏教的世界観と現代の自然科学的世界観とがいみじくもひとつにとけあったものとしてある。
キーワードは「世界観」となります。
賢治の世界観を言葉で表現するには、「やまなし」のような分かりにくい表現方法を取るしかなかったのでしょう。その世界観を私流に解釈すると、「生死は別々のように見えるけれども、一体なものである。生があるから死があるのであり、死があるから生もある。」と賢治は表現したのだと思います。また、「主体(自分)と環境は分かれているように見えるけれども、本当は一体なものである。」と解釈すれば、谷川の底で表現される蟹の、ゆらゆらゆらぐ精神状態も、川底の環境に影響されているものだと考えられるかもしれません。
このように入り組んだパズルを解くような解釈が「やまなし」には必要となってきます。
読んでいただきありがとうございます。
できましたら応援の1クリックをお願い致します。
にほんブログ村
にほんブログ村