【教務主任通信】 宮沢賢治「やまなし」研究 5

「水の底」の意味するもの

「底」という言葉はやまなしの中で7回(底光りを入れると8回)出てきます。これは賢治によって意図された「反復表現」です。賢治にとっての「底」とは「大気圏の底」を差しています。「春と修羅」という詩の中にこんな表現があります。

いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする おれは一人の修羅なのだ
雪はちぎれてそらをとぶ ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする おれは一人の修羅なのだ
けらをまてぃおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに (かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しずかにゆすれ 島はまた青ぞらを截(き)る
(まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる)

気圏の底には修羅である自分がいる。修羅とは仏教に登場する阿修羅のことです。「怒りの生命状態」のことを阿修羅と表現します。大海の底にいて、闘争を好み、諸天善神と闘う悪神です。

地上の現実世界である「気圏の底」という舞台で「修羅」を演じているのが自分であるという比喩が「底」という言葉にこめられているようです。他の作品の中にも頻繁に「底」が使われており、すべて修羅のイメージを合わせて書かれています。

西郷先生の言葉を引用します。
「やまなし」の世界が「小さな谷川の底」として設定されていることは、たとえそこが「小さな」「天井」のある蟹の子供らの小さな生活圏であるとしても、同時にそこが修羅の世界であることを意味している。
 「やまなし」の「水の底」が修羅の世界であることは、クラムボンを魚が捕食し、その魚をかわせみが捕食するという、いわば食う食われる弱肉強食の文字通り殺生の修羅場であることからも察しられる。また、後述するが、蟹の子供らの泡くらべの姿にも修羅のイメージが重なります。


さらに「赤い目のかわせみ」が出てきますが、この「赤い目」も修羅の象徴として賢治は使っています。赤い目のさぎ(春と修羅)、赤眼のサソリ(シグナルとシグナレス)、赤く光るサソリの火、ふくろうの赤い眼(銀河鉄道の夜)、まっ赤な眼のくま(かしはばやしの夜)、赤い竜の眼(オツベルと象)、支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼(山男の四月)と、すべて修羅イメージと重なるものとして表現されています。

教科書P107で蟹の父親が「魚はこわい所へ行った」と言いますが、「こわい所」とは怒りに満ちた修羅の世界、または地獄を意味する言葉と考えられます。

このように、「やまなし」の「水の底」はまさに修羅の世界なのです。

賢治にとって最愛の妹・トシを亡くした直後に「やまなし」は書かれました。賢治の人生のどん底=地獄の中から「やまなし」は生まれてきたのです。ぜひ「永訣の朝」というトシの死を悲しんだ詩も読んでみて下さい。


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