【教務主任通信】 宮沢賢治「やまなし」研究 4

最新版 西郷竹彦教科書指導ハンドブック 子どもの見方・考え方を育てる小学校高学年・国語の授業 (西郷竹彦教科書指導ハンドブック 最新版)
クリエーター情報なし
明治図書出版



『だれがどこから〈写した〉のか』


「小さな谷川の底を写した二枚の幻燈です。」という前書きではじまる「やまなし」の世界は、いったい誰がどこから〈写した〉のか? 最後に「私の幻燈はこれでおしまひであります」とあるので、誰がの答えは「私」になります。では、「私」とは誰なのでしょう?これを「話者」または「視点人物」といいます。
「やまなし」を読んでいく教師や児童は、この「話者」の目線を通して、やまなしの世界を「共体験」していくことになります。この「共体験」は外の目で見ていく「異化体験」と、内の目で見ていく「同化体験」がないまぜになった「複眼的」な体験であると西郷先生は言っています。つまり、読者である私たちは、「話者」に同化しながら、対象人物である「カニ」を異化して見ているという状況になります。その結果、「やまなし」の世界に取り込まれるようになり、物語と現実世界との境目があいまいな感覚にされてしまうのです。

話者である「視点人物」にもカニが言っている「クラムボン」をはじめとする会話の意味は分からない。分からなくなるように賢治が構成しているのです。だから読者である私たちにも正解など分からないのです。



次に、「どこから」写したのかという疑問を解説します。

上の方や横の方は、青くくらく鋼のやうに見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れていきます。

この文から判断すれば、話者は水の底から見ていることが分かります。なので、この短い話の中に、「天井」という言葉が7回も出てきます。天井とは水面のことになります。カニの子どもらにとって、水の底から天井までの空間が我が家にも等しい日常的な生活圏となります。

やまなしの世界は、すべての表現が「水の底目線」で書かれています。
「のぼって行きました」「流れて行きます」「過ぎて行きました」「降って来ました」という表現です。
また、カニの子どもらが「クラムボンが殺された」と感じた後の文で、お魚が「戻って来ました」⇒「やって来ました」と違う動きの表現を使っていますが、これを「遠近法表現」といいます。そうすることによって、カニの子どもらが不気味に感じていることを心理描写しているわけです。



最後に、登場人物と読者の関係を説明します。

推理小説を読むとワクワク感がありますね。これは登場人物である探偵も犯人を知らない、読者も知らない、この関係が読者に興味関心をそそる仕組みとなっています。「やまなし」の登場人物である「カニ」も自分のいる状況が分からない、読者も分からないという中で、危機感や疑問を感じて行く、つまり、けっこう強引に同化させられるわけです。

こうして読み手は賢治によって、水の底へと誘(いざな)われていくのです。


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