~あらすじ~
殺人事件の犯人と疑われた兄が非行に走って以来、家庭崩壊から引きこもりになった馬場由宇。
隣家の若夫婦が子供を虐待していることに気づきやきもきする中、パチンコ店の駐車場に放置された子供を発見し、反射的に家に連れ帰ってしまう。
対処に困り旧友の舞田ひとみを頼った矢先、その子が家から姿を消した――。
~感想~
舞田ひとみシリーズの初長編。あるシリーズ短編の続編的な作品でもあり、そちらも読んでいるとより楽しめる。
↓以下プロット等にネタバレあるため注意↓
いくつもの誘拐事件が重なっていく事件の構図やそこに潜む真犯人の巧緻なトリックは確かに面白いが、すでに「さらわれたい女」や「ガラス張りの誘拐」など誘拐ミステリ(というジャンルが本格ミステリにはあると断言して構うまい)の佳作をいくつもものしている作者だけに、あの歌野晶午があの舞田ひとみシリーズであの誘拐ミステリを!と期待したほどの出来ではなかった。
トリック自体は見事である。犯人が頭脳明晰すぎるとか、細かすぎて「こうしてこうすれば論理的には実現できる」系の、真相の前に推理されがちな、実は真相ではない推理がそのまま正解だったりとか、誘拐ミステリとしてずば抜けた何かを持っていない、とかケチは付けられるが、それは歌野晶午という作家への期待値が高すぎるための贅沢な望みだろう。それよりも問題は本格ミステリとしての物語の構成にある。
事件の真相が明らかとなり、トリックも犯人も暴かれた後に「かなり長めのエピローグ」と題する最終章が実に99ページも残されている。そうなればあの歌野晶午だけに、ここから思いもよらないどんでん返しが、とか逆転の構図が、とか期待してしまうではないか。
しかしエピローグはあくまでエピローグに過ぎず、真相解明のくだりで放置されていた、もう一つの事件の結末が描かれるだけで、そこにはトリックも逆転も何もないどころか、ある種ベッタベタの(しかもそれだけページを割いておきながら物語にしっかりと結末をつけられたわけではなく、その先に待つ結末を暗示したに留まっているのも不満なのだが)顛末が待ち受けている。
ほとんどの本格ミステリ作家ならば、このエピローグに99ページも割くことはないだろうし、全く省略してしまうことも多いだろう。だが作者は真摯に、あるいは余分に物語にエピローグを付け加えた。
歌野晶午ならば、エピローグを数ページで終わらせることができたろう。またはエピローグにも鋭いトリックを潜ませられたろう。結末もきちんと付けられたろう。ひとみが何をどうしたのかも描けたろう。語り手の未来も描けたろう。
だが作者はできたはずのそれらをせず丹念にベッタベタなエピローグを描くだけだった。
こうした優れたミステリで終えられたはずの物語を、台無しにとまでは言わないものの、普通に終わらせないのが凡百の作家に留まらない歌野晶午の特長ではあるものの、それがいつも(たとえば「密室殺人ゲーム王手飛車取り」のように。「世界の終わり、あるいは始まり」のように。「絶望ノート」や「春から夏、やがて冬」や……と枚挙にいとまがない)作品の魅力に、質的向上にはつながっていないのは確かだ。僕はそこに作者の、自身の物語や登場人物に対する真摯さと同時に、限界を感じてしまった。
それは森博嗣の「今はもうない」から借りれば「まったく余分なエピローグ」であった。
13.9.15
評価:★★★ 6
殺人事件の犯人と疑われた兄が非行に走って以来、家庭崩壊から引きこもりになった馬場由宇。
隣家の若夫婦が子供を虐待していることに気づきやきもきする中、パチンコ店の駐車場に放置された子供を発見し、反射的に家に連れ帰ってしまう。
対処に困り旧友の舞田ひとみを頼った矢先、その子が家から姿を消した――。
~感想~
舞田ひとみシリーズの初長編。あるシリーズ短編の続編的な作品でもあり、そちらも読んでいるとより楽しめる。
↓以下プロット等にネタバレあるため注意↓
いくつもの誘拐事件が重なっていく事件の構図やそこに潜む真犯人の巧緻なトリックは確かに面白いが、すでに「さらわれたい女」や「ガラス張りの誘拐」など誘拐ミステリ(というジャンルが本格ミステリにはあると断言して構うまい)の佳作をいくつもものしている作者だけに、あの歌野晶午があの舞田ひとみシリーズであの誘拐ミステリを!と期待したほどの出来ではなかった。
トリック自体は見事である。犯人が頭脳明晰すぎるとか、細かすぎて「こうしてこうすれば論理的には実現できる」系の、真相の前に推理されがちな、実は真相ではない推理がそのまま正解だったりとか、誘拐ミステリとしてずば抜けた何かを持っていない、とかケチは付けられるが、それは歌野晶午という作家への期待値が高すぎるための贅沢な望みだろう。それよりも問題は本格ミステリとしての物語の構成にある。
事件の真相が明らかとなり、トリックも犯人も暴かれた後に「かなり長めのエピローグ」と題する最終章が実に99ページも残されている。そうなればあの歌野晶午だけに、ここから思いもよらないどんでん返しが、とか逆転の構図が、とか期待してしまうではないか。
しかしエピローグはあくまでエピローグに過ぎず、真相解明のくだりで放置されていた、もう一つの事件の結末が描かれるだけで、そこにはトリックも逆転も何もないどころか、ある種ベッタベタの(しかもそれだけページを割いておきながら物語にしっかりと結末をつけられたわけではなく、その先に待つ結末を暗示したに留まっているのも不満なのだが)顛末が待ち受けている。
ほとんどの本格ミステリ作家ならば、このエピローグに99ページも割くことはないだろうし、全く省略してしまうことも多いだろう。だが作者は真摯に、あるいは余分に物語にエピローグを付け加えた。
歌野晶午ならば、エピローグを数ページで終わらせることができたろう。またはエピローグにも鋭いトリックを潜ませられたろう。結末もきちんと付けられたろう。ひとみが何をどうしたのかも描けたろう。語り手の未来も描けたろう。
だが作者はできたはずのそれらをせず丹念にベッタベタなエピローグを描くだけだった。
こうした優れたミステリで終えられたはずの物語を、台無しにとまでは言わないものの、普通に終わらせないのが凡百の作家に留まらない歌野晶午の特長ではあるものの、それがいつも(たとえば「密室殺人ゲーム王手飛車取り」のように。「世界の終わり、あるいは始まり」のように。「絶望ノート」や「春から夏、やがて冬」や……と枚挙にいとまがない)作品の魅力に、質的向上にはつながっていないのは確かだ。僕はそこに作者の、自身の物語や登場人物に対する真摯さと同時に、限界を感じてしまった。
それは森博嗣の「今はもうない」から借りれば「まったく余分なエピローグ」であった。
13.9.15
評価:★★★ 6