11月20日 ニコチンとアルコール
もっとも、「イワン・デニーソヴィチ」にドラッグ的な要素が無いとはいえない。ドストエフスキーのアルコールに対するものはタバコに対する鋭い禁断症状である。相当な箇所でタバコをめぐる記述がある。
終戦直後、それからも相当長い期間「モク拾い」と言う言葉が日本社会にあった。道端に捨てられた吸殻を集めてきて、揉みほぐしてタバコの葉を集める。そして売るのである。現代の青年婦女子諸君のために解説するとその頃は「フィルターつきタバコ」はなかったのだよ。
今で言うホームレス(ルンペン)の仕事だった。モクヒロイ専用の長挟みがあったりしてね。もっともあれは汎用でクズ屋(なんとか用語なんだろうね)は皆持っていたな。今のホームレスはそんなことをしない。今で言えばアルミの空き缶をゴミ箱から集めて売るようなものだ。
それにしても、モクってのは何から来たのかな。ス・モークあたりかな。洋モクなんて言葉もあった。今で言えば「外国タバコ」だ。
「イワン」にもモク拾いが出てくる。中身をほぐして汚らしいタバコを新聞紙で巻いて売るところも出てくる。
モク拾いではなくてもタバコのまわしのみの場面はチョイチョイ出てくる。モクヒロイというのは広辞苑にも出ていないね。
ところで、敗戦後満州から60万人の日本軍兵士がスターリンに拉致されてシベリアや中央アジア各地の収容所で強制労働をさせらてた。最後の抑留者が帰ってきたのはたしか11年後の昭和31年であった。その間7万人の日本人が過酷な状況の下で死亡した。
一千万人単位で強制収容所に自国の国民を放り込み、百万人単位で粛清してきたソ連ならいざ知らず、シベリア抑留はわが国にとっては、まさに未曾有の規模の民族的な惨禍であるにも関わらず「イワン・デニーソヴィチ」のような小説が日本には無いのは何故だろうと前に書いた。
いつのころからか、「戦後が終わった」からか歌われなくなったが、日曜日の「NHKのど自慢」ではかならず「異国の丘」を歌う人が毎回いたものだ。シベリア抑留者が望郷の思いをうたったものだが、聞くたびになんともいえない気持ちにさせられた。
そのくらいしかシベリア抑留を語った、歌ったものを知らなかった。先日産経新聞の「産経抄」というコラムでシベリア抑留を書いた石原吉郎という詩人がいると紹介しているのを読んだ。
講談社文芸文庫に「石原吉郎詩文集」というのがあるんだね。この間買ってきて読んだのだが次回はその感想などを含めて書こう。
11月21日 年代
知り合いに昭和31年に最後の帰還船でシベリア抑留から帰ってきたものがいた。からだはボロボロだった。スターリンは、そしてスターリン死後のソ連政府は抑留者を国際政治の道具に使った。日本が反ソ的なアメリカ政府の方針に従うのを牽制するために人質を利用したのである。勿論ソ連経済の復興のために無償で大量の強制労働に使ったのはいうまでもない。
一番顕著なのは日本が西側諸国といわゆる「単独講和」を結ぶのを阻止しようと大量の抑留兵士をダシに使って日本を牽制して駆け引きをしたときだろう。ソ連はまた抑留者を洗脳して帰国後彼らを日本赤化の道具に駆使しようとした。したがって、早期にソ連の政策に賛同した者達を小出しに日本に帰した。
昭和31年までの11年間すこしずつ、少しずつ舞鶴に送還したのである。そのたびに船から降り立った抑留者達はスターリン万歳、共産党万歳と舞鶴埠頭でシュプレヒコールを繰り返し赤旗をひるがえしたのである。シベリアの凍土に残された何十万と言う日本軍のもと兵士のことを考えてもそうせざるを得なかっただろう。数年前北朝鮮から選別されて送り返された拉致被害者が北朝鮮のことを語るのが少ないのも残された者に対する悪影響を配慮したためである。カラオケで人気の「岸壁の母」は彼らシベリアからの帰還兵を歌ったものだ。
早期帰還兵の多くは活動的な社会主義運動家となった。ソ連はまた特殊技能を持っている人間で帰国させた後世論操作など有利に利用できると思った連中を先に帰した。画家の香月泰男などがその例である。香月は昭和22年に早くも帰還している。彼自身は内心忸怩たる思いがあったのかもしれない。自らは抽象的な絵画しか描かなかった。一応シベリア・シリーズと名づけてはいるが。そこで売国的文筆業者立花隆の出番となる。
立花の言によると、香月の思いを代弁したという触れ込みで文芸春秋から「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」というのを出している。立花は言う。画集にすると一冊数十万円になるから絵画は載せられないといって、DPE屋の作る「インデックス・プリント」みたいなのを載せるだけだ。
文章はほとんどソ連の抑留政策の弁護である。こんな箇所がある。『シベリアで抑留された兵士が7万人も死んだというが抑留された人数の一割にすぎない。日本軍はガダルカナルやインパールで兵士の5割を餓死させたではないか』
こういう比較が出来るのかね。ガダルカナルやインパールの戦争指導はきびしく非難されるべきだが、だからソ連の抑留政策は人道的だと強弁するのはほとんど狂人である。
さて、この稿には「年代」というタイトルをつけた。前回詩人石原吉郎のことを述べた。その後調べてみるとシベリア抑留体験を書いた体験記や絵画が色々あったことを知った。小説もあるのかもしれない。個人の歌集や俳句集は沢山あるにちがいない。大書店にいくと絵画コーナーなど思いがけないところで見かける。それらを瞥見してみると、如上の理由から彼らの日本への帰還年代というのが重要であることに気がついたので、石原吉郎のことに入る前に前説を置いた。長くなったので石原のことは次回に書く。
11月22日(21日発行) 石原吉郎 彼は昭和28年に日本へ帰還している。なかなかソ連になびかなかったとみていい。講談社文芸文庫にはシベリア抑留についての文章はわずかしか出ていない。50ページもないかもしれない。詩のなかにはまったくない。「まったくない」というのは彼の詩は抽象的で、あるいは別の言い方をすれば換喩が多くて、つまり彼はそれと読者に分かるように書く(報告する)ことを拒否しているのである。 彼が詩作について自覚的に語ったところを二、三抜粋してみる。――詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることが出来る。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が詩の全体をささえるのである。 また、――ある意味では、読者を拒むということが、詩人の基本的な姿勢である。 そして、――(みずからに禁じた一行)とは、告発の一行である。この一行を切りおとすことによって、私は詩の一行を獲得したーーなどなど 彼は三巻本の全集があるようだし、シベリア抑留体験のエッセイという「望郷と海」は単行本らしい。したがってそれらを読まないで書くということは危険ともいえるのだが、それらの著作は書店ではなかなか見つからないので前述した彼の詩文集をもとにすることとする。 石原のケースが60万人すべての場合かどうかは分からないが、ああいう国だから大差があると思えない。石原の素っ気無い文章から推測するとこういうことらしい。 終戦直後に抑留されてから昭和24年までは漫然と捕虜、無償労働(もちろんジュネーブ条約違反)ということで碌な管理もされなかったらしい。一番犠牲者が出たのも最初の1,2年と言う。 昭和24年にどういう風にスターリンが思い立ったか知らないが、裁判をすることになった。勿論茶番である。この裁判中と重労働25年の刑を言い渡されて新しい収容所に送られた時期が一番つらかったらしい。つまり第一期が理由も示されず抑留されていた4年間、次が裁判期間(あらためて裁判などというと、将来の不安とひょっとしたらという希望が錯綜するつらい時期)、そうして十杷一からげで重労働25年といわれるショック。 石原は書いている。――僕にとって、およそ生涯の事件といえるものは1949年から50年にかけての一年余のあいだに、悉く起こってしまったといえる。 「イワン・デニーソヴィチの一日」に描かれている収容所生活は日本兵抑留者の受難の時期と同じだから、日本人の捕虜収容所の様子と変らないのではないかと、このシリーズの最初のほうで書いた。 つぎに石原吉郎の詩文集から私の推測が当たっていたことをいくつかの例で述べたい。すなわち、それは豆スープ、食器、工具(道具)の三題噺である。高尚な詩論や政治外交史からいきなり卑小な日常生活にはなしが飛んで申し訳ない話であるが、読者よ許されよ。 詳しくは次号で。