19年前に足利で起きた、幼児が殺害された事件の真犯人として無期懲役が 確定していた、服役中の“真犯人”菅谷利和さんが釈放された。現在のDNA技術がこれまでの唯一の物証を、否定したからである。これは大きな教訓を私たちに与えてくれている。
まずこれが、東京高検の判断であることである。裁判所の判断を待つことなく、あるいは裁判所の判断を事務的手続きだけで否定して、菅谷さんを釈放したことである。裁判所あるいはお役所は自らの間違いを見つめるシステムを、基本的の持っていない。弁護士の現実的な要求に、高検が応じたことが驚きである。
次は、菅谷さんが審判を受けている17年の間に、科学技術は日進月歩であったはずである。今のような精度を高めるその段階でも、再検査が可能であったはずであるが、結局は17年前の科学的判断を、裁判所は固持し続けたのである。急に精度が高くなったわけではない。そうした制度や機能すら持ち合わせていないことに、権威にすがり時代に取り残される日本の裁判システムがある。
唯一の物証を自白で補完したのであるが、自白の強要が今回も見られた。警察と検察の捜査の在り方を、菅谷さんも指摘している。絶対に許すことができないと、声高に発言している。失った時間は戻ることがない。
菅谷さんは再審が行われ無罪が確定するものと思われるが、えん罪は被害者を産みだすだけではない。真犯人を逃してしまうのである。えん罪は、今回菅谷さんは無期懲役だから救われたのであるが、死刑なら取り返しのつかないことである。
人は犯罪行為においても過ちを犯すが、判断行動(裁判)についても過ちを犯さない保証はない。そうした意味でも、死刑という蛮行を中止するべきである。無期懲役に代わる終身刑を導入し、生涯をかけて反省させ罪の償いをさせるべきなのである。世界では死刑をいまだに執行している先進国は、アメリカなど限られた国でしかない。
真犯人をでっち上げたために、いたずらに時間が流れてしまい、この痛ましい幼女殺害事件は、時効になってしまった。真犯人は刑罰を受けることがなくなったのである。時効の意味することがよくわからない。重大事件に限ってもかまわないが、時効を撤廃するべきである。
最後に、裁判の本質は事件の全貌を明らかにすることで、事件の再発を防ぎ国民を守ることである。そのひとつに、犯罪者の量刑を決めることがある。量刑ばかりを論ずるのは、裁判の一部しか語っていない。最近の報道は、犯人探しと量刑ばかりに偏っているように思われる。