今年の芥川賞の2作を読んだ。極めて対比的、対極に位置する作品と作者である。撰者がそうしたことを意図したかどうかは解らないが、何から何までこう対象的な2作である。
まず西村賢太氏の「苦役列車」であるが、中卒の小説家は極めて珍しい。私小説をく小説家も少なくなったとのことである。この小説は、自らの体験を語ったものであるが、何よりも読み難い。やけに難解な漢字の単語が並んでいる割には、繋ぎの言葉に重みがない。彼は40歳を超えているから、主人公の19歳はもう20年以上前のことである。身近なことしか語っていない、まるでルポのようであるが小説の質としては決して高いものとは思えなかった。
西村氏は、この作品で何を訴えたかったのか良く解らない。社会悪を追及するでもなく、新たな展開があるわけでもない。単なる周辺の出来事として書き連ねるには、あまりのも色が濃く暗い。殆ど類似の場面が繰り返し登場する。日雇いと性的はけ口としての女性の登場が繰り返される。
もう一作の、朝吹真理子氏の「きことわ」はもう少し柔らかい感性が感じられると思っていた。そうした意味で少し失望した。彼女は文学などの芸術一家に育ち、慶應大学の文学部の博士課程に在学する。若いころ読んだサガンの訳した朝吹登水子氏と、シャンソン歌手の石井好子氏は大叔母にあたる。西村氏とは対峙するような家庭環境である。
奇妙な題の「きことわ」とは、二人の女性の名前である。淡々と語られる日常は、ある水準以上の家庭であり内容的には大きなことが起きるわけでもない。BSの週刊ブックレビューで彼女が言った言葉「書かれた言葉は書かれなかった言葉の表面でしかない」と言う表現に、彼女のこれからを期待したいと思う。
それにしても、2作とも文学としての質はどうかと疑問の残るもののように感じたのは、少々私が時代から残されてきているからだろうか。それとも、芥川賞の質そのものが低下してきているのだろうか。