昨日のブログには多くの方のアクセスがあり、多くの方が原発の今後に関心を持っていることが伝わってくる。その根底には多分、私の解釈は「原発はない方が良いが、なくなると困る。電力をどうするか。地元が困る」だと思われる。
原発がこの国の30%もの電力をまかなっている現在、即座になくなるとどうなるという視点から論じるのは、原発の本質を見失ってしまう。地元の人たちのアンケートも真っ二つに、賛成派と反対派が分かれている。
賛成する人たちの多くは、地元経済に自らも含め、大きな恩典をもたらしているからである。これは、沖縄の基地問題に酷似する。
誰も基地など欲しくはないのだ。しかし地元が潤っている。これは一見矛盾するようであるが、実は潤っているのは国家にシステムが作り上げた虚構産業でしかないからである。
本来地元で発展しなければならない産業発展の芽を摘んでいることにもなっているからである。持続的な地元産業が歪になってしまうからである。国家へのたかりと従順が大手を振ることになる。
今回の原発事故は、これまで国家の方針として原発推進を行ってきた構造的な矛盾、あるいは偏った姿勢が問われるべきであると思われる。
2006年3月の共産党の吉井秀勝議の質問は、まるで5年後の3月11日の津波を予測するかの内容であった。政府はけんもほろろの回答しかしていない。津波など考慮していことが判る。考慮すると安全神話が崩壊するからである。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-18/2006041804_03_0.html
また広瀬隆氏は自著「原子炉時限爆弾」ダイヤモンド社で、今日の原発事故を警告している。(私は読んでいない)こうした、地元の声や識者の指摘を無視して、原発推進をやってきた経緯は、不都合なことは隠す姿勢として、今日の原発事故にも生かされて、いまだに正確な事故内容は伝わってはこない。
ドイツは、古い原発7基の稼働停止を決めた。2050年までには、脱石炭と脱核を目指す論議に入った。フランスは大統領選挙の前に、原発を国民に問うことを決めた。
イタリアでは、2030年までに国内電力の25%を原発発電でまかなうことを目標に、チェルノブイリ事故後の87年に廃止した国内原発の復活への動きが出ていた。2014年にも新たな原発建設を開始する計画だった。それらを凍結した。
アメリカも原発の見直し論議に火がついた。日本の首都圏の24の大使館は、原発対策で業務停止を行っている。
いずれも、日本の事故を受けての各国の対応である。こうした論議すら入っていないのが、当の日本である。放射性物質の拡散を殆ど無原則に流し、これを押さえため、原発の復旧を目指し死の灰の中で懸命の作業する従業員の活躍報道ばかりである。
原発は、発電施設の危険性と、処理不能な廃棄物の問題が決して解決できない、発電方法である。こうした危険施設を、疲弊した地方はやむなく受け入れていたことも、原発の本当の姿を見失ってしまった。
本当の姿を考慮せず隠ぺいし、効率ばかりを訴えることは、目的のためには手段を問わない結果になってしまう。原発は安全ではないことから問われなければならない。
へき地から送電で30%以上もロスをする、効率主体の大型発電より、送電の心配がない地域毎の、小発電施設の開発がこれから問われるかと思われる。どれほど時間がかかるか分からないが、食料と同じように、遠くへ求めないことが肝要だと思われる。