圧倒的に多数の人口を抱える都会の論理は、過疎地に対して横暴である。田舎・僻地には面倒なもの、安価なものを押し付け、さらには政治の中枢部さえも、都会の論理で塗り固めてしまった。
その象徴的な存在が、原発である。都会の人たち、とりわけ首都圏の人たちにとって最も大きな関心は、停電がいつまで続くかである。停電による不都合ばかりが、困ったこととして語られる。
温暖化の時代に、節電など当然のことである。節電を厄介なこととしてばかり取り組むべきではない。
更には、ホウレンソウやかき菜やブロッコリ、今回は東京の水道水にまで、放射性物質が検出された。検出量の少なさや、影響の可能性の低さばかりが強調される。意図的な過小評価ばかりが目立つ。
原発の持つ施設そのものの脅威については、何も語られることはない。
東京の電力の25%を担っていた、福島原発が爆発し瓦解した。数千トンもの海水の注入で、再発電は不可能である。いまだに復旧を目指す、いさぎよくないが、廃炉を拒む理由がどこかにある。
原発が当分使用不能である。節電を恒久的なこととして取り組むべきである。
世界各国では、原発そのものを見直す論議が盛んである。火元の日本では、復旧に取り組む姿はおかしい。テレビでは、“思いやりは見える”だのと、公共広告機構のコマーシャルばかりである。
各企業は自粛をしているそうである。自粛などという、消極的な姿勢ではなく、電力の減少した社会の在り方や、ローカルやパーソナル発電などを論議するべきである。