詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島数子『エンドルフィン』

2013-02-04 23:59:59 | 詩集
小島数子『エンドルフィン』(ふらんす堂、2013年01月29日発行)

 小島数子『エンドルフィン』のなかの「月の呼吸」。この作品が小島のなかで占める位置が私にはよくわからない。なんとなく異質な感じがする。しかし、この詩が私はいちばん気に入った。
 詩を書くとき、詩人はことばを動かす。これはあたりまえのことである。そのうち、ことばが動かされるのではなく、動いていくようになる。そうなるととても読みやすい。ことばが自分自身の肉体(ことばの肉体)を獲得して詩人から自由になる。
 この詩のどこが、と質問されると困るけれど、この詩にはそういう「自由」がある。

空にある月の呼吸に
やわらぐ、
夜の堅い闇。

 書き出しの3行。まず、ここにひかれた。たぶん、2行目の「やわらぐ、」の読点「、」が私には気持ちがよかった。

空にある月の呼吸に
やわらぐ夜の堅い闇。

 では、ことばが窮屈である。「意味」がむりやり「頭」のなかへ入ってくる(侵入してくる)感じがする。力が強すぎて、私は身構えてしまう。

空にある月の呼吸に
やわらぐ
夜の堅い闇。

 と2行目の「、」を省略した場合は、何か中途半端である。どうも落ち着かない。「やわらぐ」がどっちへ行っていいかわからない。
 「、」があると、そこで私も呼吸する。私は音読はしないが、黙読のときも「肉体」は動いている。目以外の肉体も動いていて、「やわらぐ、」ということばとともに、「肉体」に一呼吸の「間」が生まれる。
 その「間」。
 これは、だれのもの?
 詩のなかの「意味」から考えるとやわらいだのは「夜の堅い闇」ということになる。「やわらぐ」は「やわらかい」に通じる。そしてその「やわらかい」は「かたい(堅い/硬い/固い/難い)」と向き合って、そこに「動き」を誘い出す。
 「意味」的にはそうなのだけれど、「やわらぐ、」とその「、」の呼吸を読んだとき、私自身の「肉体」が一瞬「やわらかく」なる、というか「放心状態」になる。「やわらぐ」がほかのことばと結びついてそこに「意味」を作り上げる前に、まず、私の「肉体」が「呼吸」によって変化する。
 この「呼吸」によって逆に緊張を感じることもあるけれど(何か大事なことをいう寸前、息がつまる--その緊張の読点「、」というものもあるが)、この詩の場合「やわらぐ」ということばの影響(?)で、肉体がやわらかい方へ動いていく。
 そういう「呼吸」を挟んで、「夜の堅い闇」ということばがつづいたとき、あ、やわらいだのは「夜の堅い闇」ではなく、もしかすると私の「肉体のなかの堅い闇」だったかもしれないと感じる。
 「意味」を超えて、「肉体」が反応する。「肉体」が「覚えていること」が、ふわっと揺らぐ。
 そうして2連目。

遠い遠い昔、
身頃に袖のついた衣服を着るようになったのは、
人にとって意味のあることだったのだろう。
袖で涙を拭くようにもなった。
そしてやがて、
そのしとどに濡れた袖に
月が映るとさえ
思うようになったのだが、
朝になり、
袖に月が映らなくなったときには、
淋しく思っただろうか。

 ここに書かれていることは「肉体」が覚えていることというより、「頭」が覚えていること。自分が体験したことではなく、文学や何かで学んだことのように思えるかもしれない。「遠い遠い昔」が小島の肉体の存在しない時間であることがその「証拠」となるかもしれない。
 けれど。
 私はここには小島の「肉体」が入り込んでいると思う。小島は「肉体」で「覚えていること」を「文学(教養?)」を借りて引き出している。
 「袖のついた衣服を着る」。小島にも袖のついた着物を着たことがあると思う。幼いころ、たとえば七五三とか。あるいは着ることがなくてもそれを目で直接見たことがあると思う。それはやはり「肉体」で「覚えていること」なのである。さらに「袖で涙を拭く」ということも「肉体」で「覚えた」はずである。そのとき「袖」は「和服の袖」ではなく、「ブラウスの袖」だったかもしれないが。それは「比喩」としての「袖」だったかもしれないが……。
 そして、である。「比喩」としての「袖」を考えるとき、「肉体」はさらにくっきりする。「袖」をとおして「涙を拭く」という「動詞」が「小島の肉体」と「遠い昔の女性の肉体」と重なる。「涙を拭く」という「動詞」がかけ離れた「肉体」によって「共有される」。これは「小島の肉体」が「遠い昔の女性」によって「分有」されるということである。さらには「涙を拭く」という「動作」にも「分有」されることである。
 ことばは、「遠い昔の女性の肉体」と「いまの小島の肉体」の両方を抱え込み、それを「ことば自身の肉体」として動いていく。

そのしとどに濡れた袖に
月が映るとさえ
思うようになったのだが、

 というのは「遠い昔の女性」の「思い」を小島が想像している(代弁している)ものであるけれど、(そして小島自身もそう思ったことがあるかもしれないけれど)、「ことばの肉体」が、いま、そんなふうに思っていると、私は感じる。
 言い換えると、その3行を読んでいるとき、私は「遠い昔の女性」、「いまの小島」を想像するのではなく、濡れた袖に月が映るという「こと」だけを想像しているからである。主役の「昔の女性」「いまの小島」は消えて、涙を拭いた袖に月が映るという「こと」、その不思議な悲しさを感じている。--ということは、別な言い方で言うと、「私の肉体」がその「こと」を見ている、体験しているのである。
 私は「昔の女性」ではない。「いまの小島」でもない。スケベな中年の男なのに、女性が涙を袖で拭き、その袖に月が映るという「こと」を「実感」している。
 変でしょ?
 で、この「変」な感じを納得するには(納得しなくてもいいのかもしれないけれど)、そこに「ことばの肉体」というものを導入(?)すると、なんとなくうまくいく。小島の書きはじめたことばが独立して「涙を拭いた袖に月が映る」という「こと」を表現してしまうと、その「ことばの肉体」に誘われるように、「私(谷内)のことばの肉体」がそれをまねしてしまう(その動きに感染し、つられて動いてしまう)。そういうことが起きている。ことばが何にも縛られずに自由に動いている。--そこにあるのは誰かの「主張」ではなく、ことばそのものが好きで語りたいことなんだなあ、と感じる。だれのものでもいないことば、だれかの「主張」に束縛されていないことば、というものを感じる。
 で、こういうことは。
 最初に戻るのだが、どこかで「人間の肉体」と「ことばの肉体」が交錯する瞬間があるとスムーズに行く。

空にある月の呼吸に
やわらぐ、
夜の堅い闇。

 この書き出しで、ことばを読む「肉体」の呼吸と、ことばそのものが動いていくときの「ことばの肉体」の呼吸が自然に重なったのだ。読点「、」ひとつの動きによって。ことばが動くとき、そこに「呼吸(読点)」が存在するということを自覚することによって。この自覚は無意識の自覚だろうけれど--「無意識の自覚」というのは「矛盾」しているが、そういう「矛盾」を「肉体」は覚えている。「人間の肉体」も「ことばの肉体」も。
 で。
 「ことばの肉体」は独立し、動きだすとき、だれも知らないものをつかみ取ってしまう。「人間の肉体」が「覚えていないこと」さえ、そこに「あること」、つまり「これらか覚え覚えなければならないこと」として、そこに出現させる。

もし
虫の鳴き声が激しい草むらから
逃げ出す草があれば、
その姿を月は照らし出すかもしれない。

 「もし」という1行が端的に語っているが、ここに書かれていることは現実にはありえない仮定である。虫の鳴き声から草が逃げ出す--そういうことは不可能である。「草の肉体」には絶対にできない。けれど、そういう「草の肉体(あるいは現実の「人間の肉体」)にできないことを「ことばの肉体」は出現させる。そうなれ、と、そそのかす。
 いいねえ。
 そういう「そそのかし」、危険な遊びに「肉体」をまかせてみたくなるでしょ?
 これが、詩。これが「ことばの肉体」のセックス。
 だから、ほら。

三日月とは腕を組んで歩きたくなる。
半月には和菓子を載せたくなる。
金色の鈴の満月には
ごろりと転がってほしくなる。

 「歩きたくなる」「載せたくなる」「ほしくなる」--この欲望の「主語」は? 小島だね。
 詩の最初は小島が「主語」だったっけ?

空にある月の呼吸に
やわらぐ、
夜の堅い闇。

 「主語」は「夜の闇」だった。それがいつのまにか入れ替わっている。もちろん1連目の3行目を

私の(肉体の)夜の堅い闇。

 という具合にすれば、「主語」は最初から小島だけれどね。まあ、もちろん半分はそういうことなのだけれど、それがだんだんはんきりしてくる。その変化に「ことばの肉体」がしっかりつきそっている。そういう「人間の肉体」と「ことばの肉体」の関係が、この詩ではとても自然だなあ。美しいなあ、と思う。








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