詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「さいごの秋」ほか

2013-02-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「さいごの秋」ほか(「SEED」31、2013年02月20日発行)

 藤維夫の詩はいつでも書き出しが魅力的だ。「さいごの秋」は、

秋が終わってひまな秋になる
空は無口になり駅が遠すぎるからさらに無口になる

 とはじまる。1行目が特にいい。まねしたくなる。盗みたくなる。で、そういう気持ちが強すぎて、実は何が書いてあるかわからない。でも、この「わからない」けれど、「これがいい」と感じるのが詩なのだ。そこには何か新しいものがあって、それが新しいからことばで説明できない。つまり「わからない」ということになる。
 「わからない」とはいいながら、「わかる」こともある。「秋が終わって」というのは「わかる」。「ひまな秋」というのも、それが藤の言いたいことかどうかわからないけれど、何もすることがなくてひまなんだろうなあと思う。つまり、「わかった」気持ちになる。何かやることがすんでしまって、ひまになった。することがあるあいだはそれが「秋」のテーマ(?)だったが、それが終わると秋が終わったような気になって。そして、ひまになったのだけれど、季節はまだ秋だ……。
 「秋」という「ことば」のなかに、違う秋がある。いま、その違うものが出会っている。あ、これが詩なんだね。異質なものが出会う。異質であるけれど、まったく違うわけではなくて何かを共有することで、さらに「異質」がはっきりするような、何かの出会い。微妙な「違い」。繊細な違い。この、微妙、繊細が藤の詩の特徴である。
 2行目には、「無口」という同じことばがある。でも、それは1行目の「秋」と同じように、同じだけれど「違う」。空が無口になり、さらに無口になる。無口の度合いが強くなる。--と書いてきて、気がつくのだが、藤のことばの「違い」というのは最初からあるのではなく、「なる」ということばといっしょに生まれてきている。

秋が終わってひまな秋に「なる」
空は無口に「なり」駅が遠すぎるから「さらに」無口に「なる」

 「なる」は、変化である。これは、いいことなのか、悪いことなのか--というのは変な質問の仕方だけれど。
 きっと「なる」ということは、それまでの何かを失うことだ。失って、別なものに「なる」。充実したものに「なる」のではなく、充実が「終わる」。それは「消える」ということかもしれない。--喪失ということかもしれない。
 「なる」のなかには「失われる」が「ある」。共存している。「なる」と書きながら、ほんとうは「ならない」のである。
 秋が終われば、秋にはならない。ふつうは冬になる。その冬になるまでのあいだ、「ひまな秋」というものが、充実した秋(ひまではない秋)の反動(?)のように見えてくる。「なる」が強烈になればなるほど、その影に「失われる」という意識が生まれてくる。この喪失感--それを「抒情」と呼ぶことができる。
 で、藤のことばは、

あれから午後はきまって不運な山彦のこだまをきいた
透明な秋の行き来が去って
ことばもうわずりかなしみの道となるだろう

 「不運」「透明」が「去って」、「かなしみ」に「なる」。センチメンタルの構造とはこういうことなのかなあ。

 「交差点」の書き出しには「なる」がないけれど、やはり「なる」という世界を書いているように思える。

少しだけ待つとそこから何かが始まっていく
戻り道の景色が動きはじめた
空虚なあいまができて
しばらくどうするか迷っている

 少しだけ待つと、そこから何かが変化し、べつのものに「なる」。景色も動いて、べつなものに「なる」。空虚なあいまができて、の「できて」は「なる」と同じである。空虚なあいまに「なって」ということである。
 ここに「あいま」ということばが出てくるところが、藤の、おもしろいところである。私は「さいごの秋」で「なる」によって、最初の存在が「消える」と書いたけれど、ほんとうは「消えない」。それは「意識」として残っている。そして「消えない」ことで「最初の意識」と「なったあとの意識」のあいだに、「あいま」をつくる。
 「最初の何か」と「それが変わって何かになった何か」のあいだ--それを藤は「空虚」と呼んだり、「あいま」と呼んだりするのだけれど、その「あいま」の特徴は、きっと「透明」ということになるだろう。「透明」で「美しい」。だから、それが「抒情」に転化するのである。
 で、そのときの「透明」「美しい」は、やはり「意識」なのだ。意識が透明で、美しいのだ。消えない意識といまある意識の「あいま」で形にならないまま存在する意識は、形がないから「透明」であり、形に固定されないから「美しい」。藤の詩は「意識の詩」である。
 意識の詩であるから、ほんとうはある「存在(もの)」に「なる」ではなく、「なる」という動詞によって「意識」に「あいま」をつくりだし、そこに「透明な美しさ(悲しさ)」を繰り広げるというのが藤のことばの基本的な動きのように思える。
 「あとがき」の書き出しの3行。

ことばの苦境を越えられず
花びらの水滴にひきよせられる
世紀の長さにたちつくすただの能弁は形骸に放置されたままだ

 「ことばの苦境」と「花びらの水滴」、その「あいま」は「世紀の長さ」であり、そこには「形骸」が放置されている。「形骸」ということばは「美しい」ものを指し示すとはかぎらないが、藤はそれを「透明/美しい」ものと見ているような感じがつたわってくる。藤のことばが指し示す「形骸」は、きっと「腐肉」のようにどろどろしていない。枯れてしまった木のように、肉も血もすべて消え去った「骨」のように乾いている。不純なものを取り払って意識として純粋な骨組みになってしまった何かである。--と私は想像してしまう。






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書肆侃侃房
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キャスリン・ビグロー監督「ゼロ・ダーク・サーティ」(★★★★)

2013-02-23 12:33:19 | 映画


監督 キャスリン・ビグロー 出演 ジェシカ・チャステイン

 ビン・ラーディンの居場所をつきとめたCIAの女性職員を描いた「実話」である。この女性の変化が、なかなか克明で興味をそそられる。アカデミー賞の候補にあがっているが、「世界でひとつのプレイブック」の女優(予告編しか見ていないが、肉体がスクリーンから飛び出してくる)とどちらかが主演女優賞を取るだろうという感じの、非常に深みのある演技である。
 監督がキャスリン・ビグローが女性であるからかもしれない。(私は、この監督の「ハード・ロッカー」は、そんなに感心しなかったのだが、その感覚になれていなかったのかもしれない。)監督が女性だから……というのは、まあ、偏見の類だろうけれど、男の監督の場合は、たぶん、違う女性像が描かれたと思う。たとえばジョディ・フォスターがいつも演じるようなCIA職員になったのでは、と。
 ジェシカ・チャステインは最初、現場の様子にとまどっている。ビン・ラーディンとつながりがあると思われる男を拷問。それが最初の「現場」である。彼女が男を拷問するわけではないのだが、その場にいること自体が苦痛なのである。そして苦痛を感じながら、それも「仕事」だとも思うのである。
 ここから出発して、同僚の女性がテロの被害にあって死んでしまうということを体験し、彼女のなかで何かがかわる。ビン・ラーディンは彼女にとって、どこか別の場所にいる「架空」の存在ではなく、親友を殺した首謀者なのである。「親密感」というと奇妙だが、親友を殺害されることで、彼女にとってはビン・ラーディンはとても「接近」した存在になったのである。「直接的」になったのである。「直接性」を発見したといえばいいかもしれない。
 この「直接性」が、たぶん、この映画のひとつのテーマである。「直接性(直接的)」というのは、ことばで書いてしまうと簡単だが、なかなか説明のむずかしいことがらである。で、この「直接性」を映画ではどう描いているか。
 男の視点と対比することで浮かび上がらせる。
 あ、女性からは男のふがいなさ、「直接性」の回避はこんなふうに見えるんだなあ、と思いながら見ていたのだが。
 つまり、ビン・ラーディンの隠れ家が見つかったらしい、そこにビン・ラーディンがいるらしい、とわかったあとの会議。攻撃を仕掛けるべきか、捕獲に向かうべきか、という議論をするとき。男たちは情報を分析して「60%の可能性」という。イランの大量破壊兵器情報のときより資料がとばしいから。男たちは、主人公が集めてきた情報を「情報」としか見ない。その向こうにビン・ラーディンがいるか、いないかを「情報」から推測しようとする。出発点が「情報」なのである。ところが主人公は逆なのだ。出発点はビン・ラーディンの存在であり、それにあわせて「情報」を「証拠」としてととのえる。--帰納法と演繹法のように、向き合い方が違うのだ。隠れ家には三人の女性がいる。だから、確認されている二人の男以外にもうひとりの男がいる可能性がある。その男はしかしビン・ラーディンであるかどうかはさらにあいまいである。見えないものの存在を特定することはできない。男たちがそう考えるのに対して、主人公は、そこにはビン・ラーディンがいる。その証拠には、二人の男の相手としての二人の女以外に、もうひとりがいる。絶対に姿をあらわさないのがビン・ラーディンなのであるから、それはビン・ラーディンである。見えないがゆえに、それはビン・ラーディンである。
 「見えないゆえに、存在する」というのは「直感」というものだろうけれど、その「直感」の「直」こそが彼女にとっては「直接性」の「直」なのである。
 で、この主人公は、「ビン・ラーディンがそこにいる確率は?」と、問われたときとてもおもしろいことをいう。「 100%いる。けれど、 100%というとみんなが逆に不安がるから95%いる、と主張したい」。5%のあいまいさ、「間接性」--推測の余地を男たちに「わざと」提示するのである。男なんて、結局、直接触れることを避けている。直接性を回避しているという厳しい批判がそこにはある。それはまた「直接性」を生きる女の自信でもある。実に毅然としている。スクリーンに最初に登場してきたときの弱々しさはまったくない。
 で、「直接性」を回避しているCIAのトップ陣(男)にへの強い批判があるからこそ、この監督は、終盤に「直接性」を生きている現場の兵士たちにたいへん温かい目を向けている。隠れ家急襲の準備、実際の行動を、それまでの主人公をそっちのけにして、実にていねいに、緊密に、粘着力のある映像でスクリーンに展開する。(「ハード・ロッカー」も、思い返せば、「直接性」を生きた男を描いていた。)ビン・ラーディンを殺害したあと、そこにある「証拠(資料)」をどんな具合に整理しながら集めるかというような、「本筋」とは関係ないようなところまでしっかり描いている。こういう「直接性」を生きる人間がいて、事実が動いている。事実は、作戦本部の「頭」のなかで組み立てられるのではなく、そこにある「もの」が直接つくりあげるものなのだ。
 男の監督の場合、こういう「直接性」の哲学までは、映画にならなかっただろうなあ、とつくづく思った。
                        (2013年02月21日、天神東宝4)

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