藤維夫「さいごの秋」ほか(「SEED」31、2013年02月20日発行)
藤維夫の詩はいつでも書き出しが魅力的だ。「さいごの秋」は、
とはじまる。1行目が特にいい。まねしたくなる。盗みたくなる。で、そういう気持ちが強すぎて、実は何が書いてあるかわからない。でも、この「わからない」けれど、「これがいい」と感じるのが詩なのだ。そこには何か新しいものがあって、それが新しいからことばで説明できない。つまり「わからない」ということになる。
「わからない」とはいいながら、「わかる」こともある。「秋が終わって」というのは「わかる」。「ひまな秋」というのも、それが藤の言いたいことかどうかわからないけれど、何もすることがなくてひまなんだろうなあと思う。つまり、「わかった」気持ちになる。何かやることがすんでしまって、ひまになった。することがあるあいだはそれが「秋」のテーマ(?)だったが、それが終わると秋が終わったような気になって。そして、ひまになったのだけれど、季節はまだ秋だ……。
「秋」という「ことば」のなかに、違う秋がある。いま、その違うものが出会っている。あ、これが詩なんだね。異質なものが出会う。異質であるけれど、まったく違うわけではなくて何かを共有することで、さらに「異質」がはっきりするような、何かの出会い。微妙な「違い」。繊細な違い。この、微妙、繊細が藤の詩の特徴である。
2行目には、「無口」という同じことばがある。でも、それは1行目の「秋」と同じように、同じだけれど「違う」。空が無口になり、さらに無口になる。無口の度合いが強くなる。--と書いてきて、気がつくのだが、藤のことばの「違い」というのは最初からあるのではなく、「なる」ということばといっしょに生まれてきている。
「なる」は、変化である。これは、いいことなのか、悪いことなのか--というのは変な質問の仕方だけれど。
きっと「なる」ということは、それまでの何かを失うことだ。失って、別なものに「なる」。充実したものに「なる」のではなく、充実が「終わる」。それは「消える」ということかもしれない。--喪失ということかもしれない。
「なる」のなかには「失われる」が「ある」。共存している。「なる」と書きながら、ほんとうは「ならない」のである。
秋が終われば、秋にはならない。ふつうは冬になる。その冬になるまでのあいだ、「ひまな秋」というものが、充実した秋(ひまではない秋)の反動(?)のように見えてくる。「なる」が強烈になればなるほど、その影に「失われる」という意識が生まれてくる。この喪失感--それを「抒情」と呼ぶことができる。
で、藤のことばは、
「不運」「透明」が「去って」、「かなしみ」に「なる」。センチメンタルの構造とはこういうことなのかなあ。
「交差点」の書き出しには「なる」がないけれど、やはり「なる」という世界を書いているように思える。
少しだけ待つと、そこから何かが変化し、べつのものに「なる」。景色も動いて、べつなものに「なる」。空虚なあいまができて、の「できて」は「なる」と同じである。空虚なあいまに「なって」ということである。
ここに「あいま」ということばが出てくるところが、藤の、おもしろいところである。私は「さいごの秋」で「なる」によって、最初の存在が「消える」と書いたけれど、ほんとうは「消えない」。それは「意識」として残っている。そして「消えない」ことで「最初の意識」と「なったあとの意識」のあいだに、「あいま」をつくる。
「最初の何か」と「それが変わって何かになった何か」のあいだ--それを藤は「空虚」と呼んだり、「あいま」と呼んだりするのだけれど、その「あいま」の特徴は、きっと「透明」ということになるだろう。「透明」で「美しい」。だから、それが「抒情」に転化するのである。
で、そのときの「透明」「美しい」は、やはり「意識」なのだ。意識が透明で、美しいのだ。消えない意識といまある意識の「あいま」で形にならないまま存在する意識は、形がないから「透明」であり、形に固定されないから「美しい」。藤の詩は「意識の詩」である。
意識の詩であるから、ほんとうはある「存在(もの)」に「なる」ではなく、「なる」という動詞によって「意識」に「あいま」をつくりだし、そこに「透明な美しさ(悲しさ)」を繰り広げるというのが藤のことばの基本的な動きのように思える。
「あとがき」の書き出しの3行。
「ことばの苦境」と「花びらの水滴」、その「あいま」は「世紀の長さ」であり、そこには「形骸」が放置されている。「形骸」ということばは「美しい」ものを指し示すとはかぎらないが、藤はそれを「透明/美しい」ものと見ているような感じがつたわってくる。藤のことばが指し示す「形骸」は、きっと「腐肉」のようにどろどろしていない。枯れてしまった木のように、肉も血もすべて消え去った「骨」のように乾いている。不純なものを取り払って意識として純粋な骨組みになってしまった何かである。--と私は想像してしまう。
藤維夫の詩はいつでも書き出しが魅力的だ。「さいごの秋」は、
秋が終わってひまな秋になる
空は無口になり駅が遠すぎるからさらに無口になる
とはじまる。1行目が特にいい。まねしたくなる。盗みたくなる。で、そういう気持ちが強すぎて、実は何が書いてあるかわからない。でも、この「わからない」けれど、「これがいい」と感じるのが詩なのだ。そこには何か新しいものがあって、それが新しいからことばで説明できない。つまり「わからない」ということになる。
「わからない」とはいいながら、「わかる」こともある。「秋が終わって」というのは「わかる」。「ひまな秋」というのも、それが藤の言いたいことかどうかわからないけれど、何もすることがなくてひまなんだろうなあと思う。つまり、「わかった」気持ちになる。何かやることがすんでしまって、ひまになった。することがあるあいだはそれが「秋」のテーマ(?)だったが、それが終わると秋が終わったような気になって。そして、ひまになったのだけれど、季節はまだ秋だ……。
「秋」という「ことば」のなかに、違う秋がある。いま、その違うものが出会っている。あ、これが詩なんだね。異質なものが出会う。異質であるけれど、まったく違うわけではなくて何かを共有することで、さらに「異質」がはっきりするような、何かの出会い。微妙な「違い」。繊細な違い。この、微妙、繊細が藤の詩の特徴である。
2行目には、「無口」という同じことばがある。でも、それは1行目の「秋」と同じように、同じだけれど「違う」。空が無口になり、さらに無口になる。無口の度合いが強くなる。--と書いてきて、気がつくのだが、藤のことばの「違い」というのは最初からあるのではなく、「なる」ということばといっしょに生まれてきている。
秋が終わってひまな秋に「なる」
空は無口に「なり」駅が遠すぎるから「さらに」無口に「なる」
「なる」は、変化である。これは、いいことなのか、悪いことなのか--というのは変な質問の仕方だけれど。
きっと「なる」ということは、それまでの何かを失うことだ。失って、別なものに「なる」。充実したものに「なる」のではなく、充実が「終わる」。それは「消える」ということかもしれない。--喪失ということかもしれない。
「なる」のなかには「失われる」が「ある」。共存している。「なる」と書きながら、ほんとうは「ならない」のである。
秋が終われば、秋にはならない。ふつうは冬になる。その冬になるまでのあいだ、「ひまな秋」というものが、充実した秋(ひまではない秋)の反動(?)のように見えてくる。「なる」が強烈になればなるほど、その影に「失われる」という意識が生まれてくる。この喪失感--それを「抒情」と呼ぶことができる。
で、藤のことばは、
あれから午後はきまって不運な山彦のこだまをきいた
透明な秋の行き来が去って
ことばもうわずりかなしみの道となるだろう
「不運」「透明」が「去って」、「かなしみ」に「なる」。センチメンタルの構造とはこういうことなのかなあ。
「交差点」の書き出しには「なる」がないけれど、やはり「なる」という世界を書いているように思える。
少しだけ待つとそこから何かが始まっていく
戻り道の景色が動きはじめた
空虚なあいまができて
しばらくどうするか迷っている
少しだけ待つと、そこから何かが変化し、べつのものに「なる」。景色も動いて、べつなものに「なる」。空虚なあいまができて、の「できて」は「なる」と同じである。空虚なあいまに「なって」ということである。
ここに「あいま」ということばが出てくるところが、藤の、おもしろいところである。私は「さいごの秋」で「なる」によって、最初の存在が「消える」と書いたけれど、ほんとうは「消えない」。それは「意識」として残っている。そして「消えない」ことで「最初の意識」と「なったあとの意識」のあいだに、「あいま」をつくる。
「最初の何か」と「それが変わって何かになった何か」のあいだ--それを藤は「空虚」と呼んだり、「あいま」と呼んだりするのだけれど、その「あいま」の特徴は、きっと「透明」ということになるだろう。「透明」で「美しい」。だから、それが「抒情」に転化するのである。
で、そのときの「透明」「美しい」は、やはり「意識」なのだ。意識が透明で、美しいのだ。消えない意識といまある意識の「あいま」で形にならないまま存在する意識は、形がないから「透明」であり、形に固定されないから「美しい」。藤の詩は「意識の詩」である。
意識の詩であるから、ほんとうはある「存在(もの)」に「なる」ではなく、「なる」という動詞によって「意識」に「あいま」をつくりだし、そこに「透明な美しさ(悲しさ)」を繰り広げるというのが藤のことばの基本的な動きのように思える。
「あとがき」の書き出しの3行。
ことばの苦境を越えられず
花びらの水滴にひきよせられる
世紀の長さにたちつくすただの能弁は形骸に放置されたままだ
「ことばの苦境」と「花びらの水滴」、その「あいま」は「世紀の長さ」であり、そこには「形骸」が放置されている。「形骸」ということばは「美しい」ものを指し示すとはかぎらないが、藤はそれを「透明/美しい」ものと見ているような感じがつたわってくる。藤のことばが指し示す「形骸」は、きっと「腐肉」のようにどろどろしていない。枯れてしまった木のように、肉も血もすべて消え去った「骨」のように乾いている。不純なものを取り払って意識として純粋な骨組みになってしまった何かである。--と私は想像してしまう。
外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書) | |
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