詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓「霜踏んで」

2013-02-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
永島卓「霜踏んで」(「コオサテン」2013年02月10日発行)

 詩は不思議である。ことばである。ことばには意味がある。だから、どうしても意味を追って読むのだけれど、その途中で意味を追っていることを忘れてしまう。
 永島卓「霜踏んで」。

気付けば問いかけられた声を改めて耳にして
長い年月を費やしてしまっていた
微かに震えつづけてきたのを
いつもカラダとココロに被ってくる小さな空
風雨と青天の予報を手にしていても
予想通りの道はまだ工事中で
地盤沈下してゆくばかりであった
家族や仲良しクラブの隣人達だってきっと
劇中劇の役者に化けたかったに違いない
空の極みはまだまだ誰も知らない創造の世界なのか
腫物に恐る恐る触るときのおののきに
口上巧みに逃げきってしまうことへの後味の
背の水を浴びながらもの言わぬ沈黙でなお
溜池の除草をしている変わり目ない日常
きっと眼の水晶体が混濁していて
剥離されてゆく製品の磨きの努めが飛んでしまったのか
届かぬ背を癒すこともなく捩じ向けた
はるか水平線に映る波の皺を数えていると
合図もなく意思をもった一本の矢が
今日から今日の日付を翔び越えて
目の届かない的も光りもない無数の霜踏んでいて

 よくわからないが、誰かから非難された(ある行為の意味を「問いかけられた」)ことがあって、それがもう一度「長い月日」ののちに同じように繰り返されたときの感じを書いているのだろうと思う。こういうことは、たいてい誰でも経験し「肉体」で覚えていることだから、いちいち「論理的」に意味を説明しなくても、なんとなくことばのリズムで伝わってくる。まあ、そんなものを思い出す必要もないのだけれど、知らず知らず思い出してしまう。感じてしまう。道に倒れて腹を抱えている人間を見ると、その人は腹が痛いのだと、自分の痛みでもないのにわかってしまうようなものである。
 こういうのは、一種の「呼吸」である。肉体がかってに反応してしまう。意識して「呼吸」をする人はふつうはいない。ときに意識的に「呼吸」することもあるが、人間はたいてい無意識に呼吸している。
 ちょっと書きたいこととずれてきたが……。

 永島の詩を読むと、そのことばのリズム、その「呼吸」に何か吸い込まれる。息遣いに感染してしまう。何を書いていたか--あ、裏切り、背信、そういう指摘と問いかけ、それに対する反応だったか。まあ、そうだと仮定して、

腫物に恐る恐る触るときのおののきに
口上巧みに逃げきってしまうことへの後味の
背の水を浴びながらもの言わぬ沈黙でなお

 このリズム。この3行は、具体的にはどういうことなのか。「流通言語」で言いなおすとどうなるのか。「流通言語」でなくてもいい。自分の(谷内の)ことばで言いなおすとどうなるのか。--ということを、私は、一瞬忘れてしまう。意味を理解するということを忘れてしまう。
 腫れ物に触る。それが自分のものであっても他人のものであってもいいが、何か気持ちが悪いと同時に、それが破裂するところを見たい、膿が飛び出るところを見たいという矛盾した気持ち(おののき--えっ、おののきって矛盾だっけ?)。その「矛盾(おののき)」を感じてしまう。
 それとは反対に、そういう腫れ物にはさわらず、ことば巧みに(口上巧みに)言い逃れてしまうときの、肉体に残るいやあな感じ(後味?)、その背後に押し寄せてくる無言の批判(もの言わぬ沈黙?)。
 えっ、じゃあ、永島は「腫物」に触ったの? 触らずに逃げたの? あ、そういう「意味」は大切なのかもしれないけれど、そういう「意味」を突き破って、腫れ物に触るときの矛盾した気持ち、それから逃げるときのやはり矛盾を抱えた気持ち(触ればよかった、という後悔)のリアルな感じが、「肉体」に伝わってくる。
 永島の「呼吸」を私の「肉体」が「呼吸」してしまう。
 こういうときに、私は、詩を感じる。
 きのう読んだ川上明日夫のことばでは、私には、こういう感じがまったくしない。「呼吸」がまったくあわない。人工的な「呼吸」のリズムが立ちはだかっていて、ぎょっとしてしまう。

 永島の書いていることは、何か矛盾しているかもしれない。意味にはならない何かかもしれない。それなのに、それをそのまま私は「呼吸」してしまう。
 --と書いただけでは、あまりにも、漠然としているか……。

腫物に恐る恐る触るときのおののきに
口上巧みに逃げきってしまうことへの後味の
背の水を浴びながらもの言わぬ沈黙でなお

 この3行のリズム。ここにある不思議な矛盾。その矛盾とは、

おののきに(おののきゆえに)口上巧みに逃げきってしまう
そのことへの後味の(悪さを・感じている)背中へ……

 ちょっと永島の詩のことばに私のことばを補いながら書き直してみたのだが、永島のことばは、散文の構造を逸脱している。簡単に言うと、散文がもっている(あるいは「流通言語」がもっている)修飾節の構造の論理を逸脱している。もっと簡単に言うと、行の分け方が非論理的、ことばが行渡りをしている。
 つながるべきことばが改行によって分断されながら、その分断を越えて接続していく。ことばの論理(意味の構造)と改行(息継ぎ、呼吸の構造)に、何か「無理」がある。無理のある部分を、いいかえると「矛盾」を強引に突き破って(押し動かして)進んでいく感じがある。
 そこに力がある。力が働いている。意味にならない力、肉体そのものの、存在する力が働いている。
 この力を「呼吸」として、私は感じるのである。ジョギングなんかしていて、そばを通るひとの、苦しいのだけれどその苦しみを楽しみながら(?)、さらにスピードを上げるときの「呼吸」の強さのようなものだ。ついついつられていっしょに足が動くでしょ? 抜かれる? 抜かれたくない。ついていく。いや、引き離してやる。あの感じ。自分のなかに肉体の強さ、力が点火される。
 ことばを読んでいると、自分のことばのなかに何かそれが伝染してくる。
 この強引さ(?)を別のことばでいえば、「粘着力」なのである。矛盾したものを、なおくっつけて動いていく。矛盾を自覚しながら、なおそれをひきずって動いていく。だからこそ、かつての批判(問いかけ)がまた繰り返されるということを引き起こすことにもなるのだが……。
 この粘着力は永島の場合あまりにも強くて、その結果、

もの言わぬ沈黙

 というような「重複表現」を引き寄せることにもなる。「もの言わぬ」なら、それが「沈黙」。でも、そう言ってしまう。意味を重ねてしまう。さらに、それだけでは足りずに「なお」とつづける。
 「なお」って何? 「なお」でつづいていくものと、その前との「意味」上の関係はどうなっている?
 こういうことは問いかけても無意味。問いかけによって、ことばを切断し、ととのえなおすことは無意味。人間は、何かを「切断」して生きているのではなく、何かを「接続」して生きているのである。そしてその何かの中心には「自分の肉体(いのち)」がある。肉体が欲するものを接続して生きる。
 というようなことを、私は、永島のことばのリズム、強引な行わたり(改行しながらの接続)、長々とした文体、それから「触るときのおののきに」「しまうことへの後味の」に見られる「の/(「お」という母音)」の響きのなかに感じてしまう。それを「呼吸」してしまう。

 で、(と、ここで私はとんでもない飛躍をする)。
 そういうことを象徴するのが3行目の「震えつづけてきた」の「つづける」という動詞である。永島はなんでも「つづける」のである。「つづける」ところから「いのちのリズム」が生まれる。「つづける」は「つなげる」。つまり「粘着力」だ。
 それは川上明日夫の「と」とか「ね」という独立した1行と比較するとき、リズムの違い、呼吸の違いとして実感できると思う。
 永島の詩は「踏んでいて」という中途半端な形でことばがおわっているが、それはおわっているのではなく、中断しているのでもなく、「つづいて」いるのである。つづいているけれど、まだはっきりとつづきが存在しない。永島の肉体のなかに「つづく」という力が満たされずに動いているかは、そういう形であふれているのである。



水に囲まれたまちへの反歌
永島 卓
思潮社
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