瀬崎祐「洗骨」(「風都市」25、2013年冬発行)
瀬崎祐「洗骨」には一か所奇妙なところがあり、とても気になる。
ひらがなの多い作品である。「音」が肉体のなかに入ってきて、肉体を動かす。ことばに肉体が反応して、肉体そのもののなかに肉体の運動がうまれる--そのときの感じが、区切りがなくて、とてもいい。黒田夏子の「abさんご」のように、奇妙な言い回しもなく、自然なひらがなの力(効果)を感じる。「みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ」には「みる」「とける(とけだす)」「まつ」という動詞があって、そのうち「とけだす」だけは「主語」が違うのだけれど、その「わたし」ではないものをのみこむようにして動詞が肉体を刺戟するので、--あ、掘り起こす主体である「わたし」は、実は掘り出される「わたし」であって、掘り出されるために「とけだしていく」のをまっていたのかなあ、とも思えてくる。「主語」が、肉体の中であいまいに融合する。
そういう感覚に至った後で、
ね、髪が伸びた「わたし」は、骨を掘り起こす(で、いいのかな?)「わたし」なのか、骨を掘り起こされる「わたし」なのか、どっちともとれるでしょ? 主語が「肉体」のなかで「ひとつ」になって、区別がつかない。「主語」がどっちかわからないのに、「髪がのびた」「爪がのびた」の「動詞」が「肉体」のなかで動き、そのときの「主語」がさらに「骨を掘るわたし/骨を掘られるわたし」ではなく、「髪/爪」という肉体の部位に限定されながら肉体と結びつくので、ますます「肉体」が私(谷内)の「肉体」と重なり、ああ、変だなあ--実は、ああ、いいなあ、なのだが、という「矛盾」した感じになってきて、ちょっとわくわくするのである。
ところが、そのあと、
なぜ「待つ」という漢字がここに出てくるのだろう。それまでひらがなだった動詞がなぜ漢字になったんだろう。これが私にはよくわからない。とても奇妙に感じる。
実は、いま引用した詩の1連目のなかほど、「みえないところ……」と「わたしの髪がのびた」のあいだには、
という行があるのだが、その「怨念」「情念」という硬いことば(観念的なことば)と「待つもの/待たれるもの」の「待つ」と漢字で書かれたことばが響きあって、どう言っていいのかわからないのだけれど、冷たい違和感を覚えるのである。「怨念」「情念」は肉体の中ではからみあってどっちがどっちかわからない。けれど頭で整理して漢字にしてしまうとまったく別のものに「見えて」しまう。それが、とても「冷たく」感じられる。こういうことは単なる感覚の意見というものではあるのだけれど。
区別のつかなくなっていた肉体が、突然、「頭」で整理されなおされるような、そんなあいまいなところへ引き込まれては駄目、と叱られたような気がするのである。「みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ」のような、誰が誰だかわからない、どっちでもいい、いや、掘り出すわたしであると同時に掘り出されるわたしだったらいいのになあと、肉体で感じていることを、「待つもの/待たれるもの」ということば(表記?)のように、明確に区分しないと駄目と叱られたように感じるのだ。
「掘り出すわたし/掘り出されるわたし」と「待つもの/待たれるもの」はどう違う? 同じじゃない?と言われると少し困るのだが--というのは、「掘り出すわたし/掘り出されるわたし」は、私が瀬崎のことばを読むときに私がつくりだした「便宜上」のことばであって(私が「頭」でつくりあげたものであって)、ほんとうは瀬崎のものではないからね。--つまり、ここでは、私は「私の頭」と「待つもの/待たれるもの」と書いた「瀬崎の頭」と向き合っているのであって、それまでのように、「私の肉体」と「瀬崎の肉体(同時にほりだされる死者の肉体)」と融合している(一体になっている)わけじゃないからね。
書けば書くほど、面倒くさくなるのだが(肉体で起きていることと頭で起きていることを、いちいち印づけて書かないとごっちゃになるからね--肉体の中ではわかりきっていることなのに、それを頭のことばで整理するのはとても面倒なのだ)、まあ、そういうことが起きる。
で、それが次の連に影響する。
うーん。「ほりおこすわたし」が「ほりおこされるわたし」を客観的に描写してしまって、つまり「頭」でことばを整理してしまって--それがたとえ「ほりおこされるわたし」の「心情」に迫ったって、そして「みれん」ということばで定義されてもなあ……。
「怨念」「情念」と違い、「みれん」とひらがなで書くことで、それが「ほりおこすわたし」「ほりおこされるわたし」のどちらのものかわからないんようにしたつもりなのかもしれないけれど。
この最後の「と」がなんといえばいいのかなあ、「説明する人」(説明であること)を強烈に印象づける。融合しようとするものを、完全に分離するように動く。あ、「頭」がことばを動かしている、という印象がとても強くなる。
骨を掘り出している「指」が掘り出される指に説明している感じがして、もう「掘り出される骨」でもあるかもしれないという気持ちが遠くなる。
もし、「ほりおこす/わたし」「ほりおこされる/骨」という区別を明確にしたままことばを動かすのなら、1連目のひらがなは必然的だったのかなあ。ひらがなをつかうことで、「ほりおこす/わたし」「ほりおこされる/骨」の区別をなくし、相互をゆきかう「動詞」によって「肉体」そのもののなかにひとつの世界を出現させるのだったら、「待つもの」「待たれるもの」という漢字のつかい方が乱暴すぎたかなあ。そのために、あとの世界がまったく違ったものになってしまったのかなあ。
瀬崎祐「洗骨」には一か所奇妙なところがあり、とても気になる。
いつくしんでいた泥のなかにうめておいた
今宵に千回の夜をへてほりおこす
空では月がくもにかくされている
にぶい光りがもののかたちをあわくしている
みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ
ひらがなの多い作品である。「音」が肉体のなかに入ってきて、肉体を動かす。ことばに肉体が反応して、肉体そのもののなかに肉体の運動がうまれる--そのときの感じが、区切りがなくて、とてもいい。黒田夏子の「abさんご」のように、奇妙な言い回しもなく、自然なひらがなの力(効果)を感じる。「みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ」には「みる」「とける(とけだす)」「まつ」という動詞があって、そのうち「とけだす」だけは「主語」が違うのだけれど、その「わたし」ではないものをのみこむようにして動詞が肉体を刺戟するので、--あ、掘り起こす主体である「わたし」は、実は掘り出される「わたし」であって、掘り出されるために「とけだしていく」のをまっていたのかなあ、とも思えてくる。「主語」が、肉体の中であいまいに融合する。
そういう感覚に至った後で、
わたしの髪がのびた
わたしの爪がのびた
ときをまつ幾夜かには
女のためにみをひるがえすこともあった
ね、髪が伸びた「わたし」は、骨を掘り起こす(で、いいのかな?)「わたし」なのか、骨を掘り起こされる「わたし」なのか、どっちともとれるでしょ? 主語が「肉体」のなかで「ひとつ」になって、区別がつかない。「主語」がどっちかわからないのに、「髪がのびた」「爪がのびた」の「動詞」が「肉体」のなかで動き、そのときの「主語」がさらに「骨を掘るわたし/骨を掘られるわたし」ではなく、「髪/爪」という肉体の部位に限定されながら肉体と結びつくので、ますます「肉体」が私(谷内)の「肉体」と重なり、ああ、変だなあ--実は、ああ、いいなあ、なのだが、という「矛盾」した感じになってきて、ちょっとわくわくするのである。
ところが、そのあと、
待つものと待たれるものが
あわくからみあっていたのだろう
なぜ「待つ」という漢字がここに出てくるのだろう。それまでひらがなだった動詞がなぜ漢字になったんだろう。これが私にはよくわからない。とても奇妙に感じる。
実は、いま引用した詩の1連目のなかほど、「みえないところ……」と「わたしの髪がのびた」のあいだには、
からみあっていた怨念や情念もとけだしていき
という行があるのだが、その「怨念」「情念」という硬いことば(観念的なことば)と「待つもの/待たれるもの」の「待つ」と漢字で書かれたことばが響きあって、どう言っていいのかわからないのだけれど、冷たい違和感を覚えるのである。「怨念」「情念」は肉体の中ではからみあってどっちがどっちかわからない。けれど頭で整理して漢字にしてしまうとまったく別のものに「見えて」しまう。それが、とても「冷たく」感じられる。こういうことは単なる感覚の意見というものではあるのだけれど。
区別のつかなくなっていた肉体が、突然、「頭」で整理されなおされるような、そんなあいまいなところへ引き込まれては駄目、と叱られたような気がするのである。「みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ」のような、誰が誰だかわからない、どっちでもいい、いや、掘り出すわたしであると同時に掘り出されるわたしだったらいいのになあと、肉体で感じていることを、「待つもの/待たれるもの」ということば(表記?)のように、明確に区分しないと駄目と叱られたように感じるのだ。
「掘り出すわたし/掘り出されるわたし」と「待つもの/待たれるもの」はどう違う? 同じじゃない?と言われると少し困るのだが--というのは、「掘り出すわたし/掘り出されるわたし」は、私が瀬崎のことばを読むときに私がつくりだした「便宜上」のことばであって(私が「頭」でつくりあげたものであって)、ほんとうは瀬崎のものではないからね。--つまり、ここでは、私は「私の頭」と「待つもの/待たれるもの」と書いた「瀬崎の頭」と向き合っているのであって、それまでのように、「私の肉体」と「瀬崎の肉体(同時にほりだされる死者の肉体)」と融合している(一体になっている)わけじゃないからね。
書けば書くほど、面倒くさくなるのだが(肉体で起きていることと頭で起きていることを、いちいち印づけて書かないとごっちゃになるからね--肉体の中ではわかりきっていることなのに、それを頭のことばで整理するのはとても面倒なのだ)、まあ、そういうことが起きる。
で、それが次の連に影響する。
骨には
まだいくらかのものがこびりついている
かざりすぎていたものはあっけなくうしなわれて
すてきれなかったものだけがこびりついている
ほそくよじれた神経繊維がとちゅうでとぎれながらも
まだなにかをつたえようとしている
ささくれだっていろがかわっている筋肉繊維はほそく
まだなにかをうごかそうとしている
それはみれんでしかないのですよ と
指がつたえようとする
うーん。「ほりおこすわたし」が「ほりおこされるわたし」を客観的に描写してしまって、つまり「頭」でことばを整理してしまって--それがたとえ「ほりおこされるわたし」の「心情」に迫ったって、そして「みれん」ということばで定義されてもなあ……。
「怨念」「情念」と違い、「みれん」とひらがなで書くことで、それが「ほりおこすわたし」「ほりおこされるわたし」のどちらのものかわからないんようにしたつもりなのかもしれないけれど。
それはみれんでしかないのですよ と
この最後の「と」がなんといえばいいのかなあ、「説明する人」(説明であること)を強烈に印象づける。融合しようとするものを、完全に分離するように動く。あ、「頭」がことばを動かしている、という印象がとても強くなる。
骨を掘り出している「指」が掘り出される指に説明している感じがして、もう「掘り出される骨」でもあるかもしれないという気持ちが遠くなる。
もし、「ほりおこす/わたし」「ほりおこされる/骨」という区別を明確にしたままことばを動かすのなら、1連目のひらがなは必然的だったのかなあ。ひらがなをつかうことで、「ほりおこす/わたし」「ほりおこされる/骨」の区別をなくし、相互をゆきかう「動詞」によって「肉体」そのもののなかにひとつの世界を出現させるのだったら、「待つもの」「待たれるもの」という漢字のつかい方が乱暴すぎたかなあ。そのために、あとの世界がまったく違ったものになってしまったのかなあ。
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