詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒田夏子「abさんご」

2013-02-11 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
黒田夏子「abさんご」(「文藝春秋」2013年3月号)

 75歳、最高齢の芥川賞、横書き、ひらがなの多様……と話題が豊富なのだが。まあ、そんなことは関係ないなあ。読みはじめたら、そこにことばがあるだけ。
 この作品の特徴は「主語」の書き方にある。「私は」とか「黒田は」とか「父は」ということばのかわりに、

示されなおした者は、

目ざめた者は、

 という形(書き出しの1段落、 414ページ)。動詞が「者」を修飾することで、主語を区別している。なかには「きかれた小児は、」( 414ページ)という形をとるものもあるが、基本は「……者は」である。
 で、この「動詞」なのだが、動詞というのはちょっとおもしろい働きをする。他人の描写(小説のなかの登場人物の描写)であっても、それを読むと、読者の「肉体」が動く。私だけかもしれないが--まあ、そんなことはないだろうと思う。
 「肉体」が動くと、それは「登場人物」の「肉体」であるにもかかわらず、その瞬間「私の肉体」になる。動詞に合わせて肉体が動くことで、登場人物のガ「肉体」になって、読者と「一体(ひとつ)」になる。そうすると、たとえば「示されなおした者」がAであり、「目ざめた者」がBであったとしても、ABの区別は「頭」がすることであって、肉体的には区別がない。ABは見分けがつかなくなる。融合してしまう。「者」という同一のことばが、その融合に拍車をかける。これがこの小説のおもしろさの基本、ことばの基本である。
 この「融合」にさらに拍車をかけるように、

 ごくうすい絹だったか紙だったか、あるいは絹のも紙のもあったのか、卵がたのも球にちかいのも、淡い水いろをおびたのもそうでないのも        ( 412ページ)

 という具合な描写がつづく。ふつうなら「もの」をくっきりと描くところを、逆にあいまいにする。どちらでもいいように書いてしまう。その結果、この文章からは「もの」そのものは消えて、「ごくうすい」とか「淡い」とか「おびた」とかいう「状態」をあらわす属性だけが浮かび上がる。それが「もの」の共通項だからである。ひとはだれでも「個別」のものを覚えると同時に「共通」のものを覚える。そして繰り返される「共通」のもののほうが、繰り返された分だけ「肉体」に入ってくる。別なことばで言うと「印象」だけが「肉体」に入ってきて、「事実」は「肉体」にはもちろんのこと、「頭」にも入って来ない。「頭」には「……だったか、あるいは……だったか」(そうである、そうではない)という断定を避けた「意識」だけが残る。
 こういう「印象」とか「意識」の状態(あり方)を何と呼ぶか。
 「まじる」という。
 「まじる」が黒田の書いている「肉体(思想)」のテーマというか、キーワードである。それはキーワードだから、ほんとうは書いてはいけないのだけれど、どうしても書かずには進めないときに、それが出てきてしまう。 412ぺーである。ちょっと長いがその1段落を引用しておく。

 それぞれにちがったはずの花の絵がらもまるでおぼろで、秋くさなのだかと似ていないではない配置がおもいえがかれても、木わくとのれんかんもつかないばかりか、夏ぶとんの染めもよう、掛け軸の筆のはこび、はてはずっとのちになって店さきで見かけただけのうちわの絵やだれかがだれかからうけとったようなうけとらないような絵はがきなどもまじってしまい、そんなはかない影のうちでも最もはかない稲科植物の葉ずえのとがりに消えこんでいく。

 ここに書かれた「花の絵」のように、主人公の「記憶」はあらゆるものと「まじってしまう」。母の記憶なのか、父の記憶なのか、母の死後に家族に入り込んだ女の記憶なのか--それはひっくりめて「私」の記憶なのか。もちろん書いているのが「私(私ということばは出てこないのだが、便宜上、そう書いておく)」なのだから、それはすべて「私の記憶」であって、「父の記憶」ではない。「父」が何かを思い出しているわけではない。
 で、いま、私の書いた文章は、ちょっとこんがらがるでしょ?
 私が覚えている父のことを「父の記憶」と私は書く。そして「父の記憶」ということばからはふたつのことが考えられる。「私が覚えている父」と「父自信が覚えていること」と。「父の記憶」ということばのなかで、ふたつがまじりあい、そしてそれはときには、まったく同じ「事実」を指すときもある。たとえば「私が幼いときに母は死んだのだが、そのときの父はやはり若かった」、「私(父)が若いとき、妻(娘の母)は死んだ」。幼い子供、若い父、若くして死んだ母--この「事実」は同じである。
 しかし「事実」が同じだからといって、そのとき感じたことが「ひとつ」ではない。つまり「同じ」ではない。それはあたりまえのことである。だが、その「ひとつではない」ことを、いざことばにすると、そのことばのなかで奇妙なことが起きる。「私が感じたこと」を書いても、それは「私」だけのものではなく、もしかしたら「父」が感じたことかもしれない。また「父」が感じたことであっても、あ、いま「父」はこんなことを感じていると思った瞬間から「私」のものにもなる。
 まじりあって、ひとつになって、「全体」になる。つまり、「生きている」ということの「世界」をつくりあげる。
 これを黒田は、一篇の小説にしているのである。そしてこの「まじる」を押し進めるのが「動詞+者」という形の主語の書き方なのである。
 「まじる」ということばは、私は目が悪いので読み落としたかもしれないが、もう一回410 ページに、「親族がいとなむ料理屋で、一そう目には二けんの使用人がいりまじってくらしていた。」という形でつかわれているが、ほかには書かれていない。「まじる」ということばをつかわずに、この小説が書かれたなら、さらにおもしろいものになったと思うけれど、そのキーワードをつかってしまったのが、この小説の「限界」でもあると私は思った。(「まじる」ということばがでてきた瞬間に、小説の構造が露呈し、「私小説(自分史文学?」が露骨に動きはじめる。)

 脱線しすぎたかな? 小説に戻る。--というか、「肉体」の問題に戻る。ことば、思想の問題に戻る。

示されなおした者は、

目ざめた者は、

 こういう「主語」を「動詞」で特定することばの運動では、おもしろいことが起きる。「動詞」というのは、「過去」のことを書いても「いま」の「肉体」を刺戟する。
 別な言い方をすると、この冒頭の段落に出てくる「示されなおした」という「時」と、「眼ざめた」という「時」は離れているのだが、その「あいだ(時間の隔たり)」は「肉体」のなかでは客観化できない。また「示されなおした」という「動詞」のなかには「示した」という「なおした」という「時」以前の「時」もふくまれていて、その「時」と「目ざめた」という「時」の関係は、もう、ほとんどどう客観化していいかわからない。
 「頭」では「示された(幼い時)」「示されなおした(現在の夢--現在の少し前)」「目ざめた(現在)」という具合に、線上に配列できるかもしれないが、そういう「こと」を思うとき、それはすべて「一瞬」のなかに統合されている。ことばは「一瞬」ではすべてを言えないので、便宜上、別々に動くだけで、ほんとうはいっしょに動いている。「肉体」が「動詞」を反芻するとき、そこには「いま」しかない。そして「いま」のなかで「過去」も「未来」もひとつになる。10年前の「過去」も1日前の「過去」も、「肉体」がそこで起きたことを「動詞」として反芻するとき、「時差」というものがなくなる。「あいまい」になる。この結果、黒田の「まじる」は「同時代的」でありながら、「通時代的」でもあるという具合に、「融合」の世界を広げる。
 「世界」は「いま」という時間でのみ「融合」するのではなく、時間を超えて、つまり過去とも未来とも「融合」する。いいかえると、その瞬間に「永遠」になる。「融合」するとこで、「永遠」が浮かび上がる。
 このことを、黒田は「肉体」でつかみとって、それをことばにしている。それが、この小説である。
 ここまでが、私の、この作品に対する「評価」。いいなあ、と思う点。

 以下は、批判。
 こういうことは、小説では珍しいのかもしれないけれど、詩ではたくさん書かれている。「肉体」のなかで「時間」が入り混じり、その反映として「複数の人物」が融合する。融合しながら「世界」を目の前にあらわさせるというのは、そんなに不思議なことではない。また「融合」をとおして「永遠」を描くというのは、詩のもっとも基本的な形である。(だから、私は、何の驚きもなく、この小説を読むことができた。)
 現代の詩人たちと黒田の違いは、そういう文体をどれだけ続けることができるかである。詩人たちは、黒田のような文体で 100枚書くことはできない。そういう意味では黒田には詩人をはるかに上回る筆力がある。ただし、黒田の小説も15の「コンテンツ」に分かれているから、これは「小説」ではなく「散文詩集」ということにすれば、まあ、詩とは大差がない。
 ひらがなの問題も、現代の詩人たちが多用している方法と差はない。
 で、ひらがなの問題に関して別のことをいうと……。「選評」のなかで奥泉光が「読者はひらがなをいちいち漢字に変換して読み進むことを強いられるので、人によっては苛々するかもしれない。」と書いていた。まあ、奥泉は苛々しながら読んだのだろうけれど。あ、読み方が間違っている、と私は思う。ひらがなを漢字に変換して「意味」を読みとるという具合に読んでは、この小説を読んだことにはならない。
 たとえば「一そう目、二そう目」というような表現が出てくる。これは「一層目、二層目」かもしれない。そう読むと「建物の1階、2階」という具合に把握しやすくなる。しかし、そうではなく、わからないまま「一そう目、二そう目」ということばを「肉体」で生きてみないと、この小説は動かない。
 子供時代を思い出せばいい。大人が何かことばを話している。「一そう目、二そう目」。「そう」がわからない。でも「一」と「層」はわかる。それを頼りに、「一そう目、二そう目」ということばが出てくる現場に何度か出会う。そうすると、あ、「そう」は重なった何かだな、とわかってくる。建物には階が重なっている。そうか、「一そう目、二そう目」は「一階、二階」か……。それが「わかる」ためには、「意味がわからないけれど、音ならわかるという、その音」を「音」として繰り返し繰り返し書く(読む/聞く)ことで肉体に溜め込むことが大切。漢字に変換して「頭」で整理しなおしていたのでは黒田のことばを読んだことにはならない。黒田が懸命に作り上げた「文体」を読んだことにはならない。奥泉の読み方は、奥泉の「文体」で黒田を読むという方法にすぎない。そんなめんどうなことをするから時間がかかるのである。「文学」というのはもともと「個人語」で書かれた「外国語」なのだ。翻訳するのではなく、そのまま直接「ことば」にふれることを繰り返して、ことばが「肉体」のなかで「もの」として存在感を持つまで待つしかないものなのである。そして、それが「わかった」後は、やはり「一そう目、二そう目」ということばを引き続き信じるのが「文学」の読み方である。「一階、二階」と読み替えていたのでは「文学」にならない。(あ、黒田批判ではなく、奥泉批判になってしまった。)
 読み返すのではなく、読み返さずに突き進むことが、この小説の「思想(肉体)」に触れる方法である。

 詩との関係で言えば、たとえば、選評でだれかが書いていたが「傘」を「点からふってくるものをしのぐどうぐ」というように書かれてもぜんぜんおもしろくない。「どうぐ」ではなく、ここも「者」にしてしまえばいいのだ。「者」も「もの」にしてしまえばいいのだ。そうすると「人間」と「もの」がいっそう入り混じり、世界の「融合」がよりなまめかしくなる。

 もうひとつ。私は、この小説にベケットの影響を感じた。そして、その影響が、消化されきっていない。

言いたかったのが、どれをほしいとかほしくないとかではなく、いまえらびたくない、えらべるはずがない、えらぶ気になってからえらびたい、えらぶ自由をいっしゅん見せかけただけちらつかせるようなのではなく、決めない自由、保留の自由、やりなおせる自由、やりなおせるつぎの機会の時期やじょうけんの情報もほしいということだったとさとるまでに、とりかえしのつかない千ものえらびのばめんがさしつけられては消えた。

  390ページの、この「えらぶ」をめぐる言い直しの方法はベケットそのものである。違いは、ベケットは言いなおしてもけっして「前」へは進まない。「いま」という「時間」の重力のなかにどんどん沈んでいく。黒田の「肉体(思想)」でそういうことが起きれば、それはベケットを超えることになるかもしれないが、「前」に進んでしまえば、それまで書いてきた「融合」が大なしてある。
 また別なことばで別なことを言いなおすと。「自由」ということばが頻繁に出てくるが、この「自由」は「肉体」ではつかめない。「もの」ではないからだ。それは概念であり「頭」のことばである。こういう「頭」のことばは、「入り混じらない」。「まじる」ことを拒絶して「頭」野ことばは誕生したのだから、こんなものを「動詞+者」という形で動くことばの世界に持ち込んでは、せっかくの「動詞+者」という主語が死んでしまう。「頭」のことば、その融合を書くのなら、「動詞+者」というような文体はつかうべきではない。
 私はこの部分では、思わず、むかっと腹が立ってしまった。
 この部分では、ごちゃごちゃとあいまいなことを書いているようで、書かれていることはきわめて「論理的」である。「……だったか、……だったか、あるいは……」という前半の文章と比較するとそのことがよくわかる。
 このベケットの影響を受けた部分は、あまりにも異質で、作品から分離している。こんな具合にベケットをまねするふりはやめてほしい。






abさんご
黒田 夏子
文藝春秋
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウェス・アンダーソン監督「ムーンライズ・キングダム」(★★★★★)

2013-02-11 20:00:29 | 映画
監督 ウェス・アンダーソン 出演 ブルース・ウィリス、エドワード・ノートン、ビル・マーレイ、フランシス・マクドーマンド、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・シュワルツマン、ジャレッド・ギルマン、カーラ・ヘイワード

 芸達者な役者たちが、実につまらない役(?)を演じている。映画のストーリーも、まあ、くだらない。ローティーン(12歳)の少年と少女が、世間が気に入らないのでふたりで駆け落ちする。それをみんなが探し回る。それだけ。
 人生の「深み」が描かれているわけではない。出ている役者たちも、うまいのだか、へたくそなのだか、よくわからない感じ--ぼーっとしている。ぼーっとした、たよりない演技をしている。
 でも。
 おもしろい。
 このおもしろさを、最後の最後で監督が説明している。--まあ、こういう説明はなくてもいいのだけれど、この映画はあった方がいいだろうね。最近は、こういう「映画文法」でつくられる映画がないので、ついつい説明したんだよね。
 その説明を私がここで繰り返すと。
 「映画」とは映像と音楽でできている。(台詞もあるが、なくても映画は成り立つね。)で、そのとき映像も「音楽」であると、とても楽しい。
 音楽というのは、ひとつの「主題」がある。それをさまざまな楽器で演奏する。舞台の上の楽器が全部鳴り響くときもあるけれど、少しずつ合奏されることもある。で、音楽は、単独の楽器でも可能だけれど、いろいろ集まった方が豊かな響きになる。そして、そのときただ楽器が集まればいいというのではない。やはり、その瞬間、その瞬間のタイミングがある。
 この「音楽」の特質と、この映画の役者たちの演技が、重なる。
 「主演映画」ならそれぞれが「自己主張」するのだけれど、ブルース・ウィリスもエドワード・ノートンもビル・マーレイもフランシス・マクドーマンドもティルダ・スウィントンも、ここでは頼りない大人という「脇役」。存在感が欠けている。ぼーっとしている。そして、その存在感が欠けて、ぼーっとしていて、頼りないということは、つまらないようでいて、いやあ、
 それが出会って絡み合うときに、役者の存在感ではなくて、その場の「空気」が不思議と厚みをもってくる。ひとりひとりでは物足りないのに、集まると、そこに一人一人がもっている「音」は単調なのに、違う「音」と出会うことで、そこにひとりではつくりだせなかった「音」(和音)がふいに立ち現れてくる。
 とっても、おかしい。
 人間はみんな、おろかで、何か欠けている。それは天才である少年と少女も同じ。何でもできるようでもできないことがある。そのできないことを、他人が助ける--というのではないが、いっしょにいると、ひとりではつくりだせない何かがふっと湧いてくる。
 これは、魔法だね。
 そういう「音楽」がいつもやっている魔法を、映像(映画)でやってみたのが、この作品。つまらないというか、欠けているというか--そういうものがあるからこそ、その欠けているものと他の欠けているものが出会うと、そこに新しい何か、いままで存在しなかったものがあらわれる。
 で、こういうとき、リズムがとても大切。
 映画が終わった後の「種明かし」ではていねいに、音楽がはじまる前に、まずメトロノームが登場する。同じリズムを守って、いろいろな色の音が積み重なる。そうして、ひとつの「曲」になる。映画はリズムを守るために、達者な役者たちの「過去」を消して(存在感を消して)スクリーンにほうりだす。リズムに乗るために、事故の主題を消し去って軽々と動く、いわば「紙芝居」のような(あるいは学芸会のような)肉体になっている。監督の過激すぎる欲求に、みんなが完璧に答えている。で、それがとても完璧なので、映画はあっというまに終わる。ややこしい「人生哲学」なんかはほうりだして、ただ、終わる。
 とってもしゃれている。おしゃれ度 100点の映画です。
                        (2013年02月11日、天神東宝2)



ザ・ロイヤル・テネンバウムズ [DVD]
クリエーター情報なし
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする