大野直子「聖なる喧しさ」「蛍光イエロー」(「クレソンスープ」1、2013年02月06日)
大野直子「聖なる喧しさ」は北陸の冬を描写した文章である。雪国の冬は意外と喧しい。雪の前には雷が鳴る。この季節はブリのとれる季節でもあり、この雷が鳴るとブリがとれはじめるので、俗に「ブリおこし」とも呼ばれるのだが、そのころの海は荒く、海の音が数キロ先まで聞こえる。強い風に林が泣くように鳴る、と書いた後、
私は雪国で生まれ育ったので、雪の朝の「無音」「匂い」はとてもよくわかる。しかし「かすかな金属音」は「かすかな」はよくわかるが、「金属音」かどうか私は思い出せない。そのあとの「第九……」になると、あ、これが大野の個性なのだなあと感じる。私は第九などとは無縁の田舎で育ったので、そういうものは「肉体」が覚えていない。そうか、雪の静けさは音楽のなかで感じる静けさか。雪の朝には、音楽と静寂だけがあるのか。なるほど。
でも……。「脳のどこかで懐かしんでいる」。ここで、私はまた驚いてしまう。人間は「脳」で懐かしくなるのだろうか。どうもよくわからない。大野のことばに私が感じる違和感は、どうもこのあたりに「理由」がありそうである。何かを「脳」で理解している。第九を「脳」の音楽と言っていいかどうかわからないが、まあ、私には、暮らしとは無縁の、あとから「学校」で学んだ音楽である。「頭」で聴いた音楽である。--大野は、「頭」で聴いたから「脳」が懐かしむ、というかなあ……。よくわからない。
とはいうものの。
この文章はまだつづいていて、
ここに出てくる「からだがゆるんで」は気持ちがいい。とても納得が行く。雪かきをしているスコップの音。その音に「からだ(肉体)」が反応してしまう。自分では肉体を動かしていないのに、雪かきをする時の「肉体」の動きが「肉体」をゆする。そうすると、からだがそれを思い出し、覚えていることが動きだす。目覚めたばかりの硬いからだが、覚えている動きのなかでゆるくなる。この文章はいいなあ、と思う。
大野のことばには、とても「わかる」部分と、どうしてそうなのかなあ、と「わからない」部分がある。こんなことは、誰のことばに対しても起きることなのかもしれないけれど、そういうことが私には気になるのである。
詩も、少し、そういう感じがする。「蛍光イエロー」は柚子のことを書いている。
1連目がかっこいい。「柚子」は「隕石のかおり」か。うーん。鮮烈だ。しかし、この鮮烈は私の「肉体」が感じる鮮烈ではない。私は「隕石のかおり」をかいだことがないのでわからない。この「わからない」が鮮烈だ。刺戟的だ。「わからない」のはいつでも刺戟的だ。この「刺戟」は、言い換えると「脳(頭)」にやってくる刺戟だ。「肉体」はそういうものを「覚えていない」ので「わからない」としかいいようがないのだが、「頭」は「隕石」ということばを知っていて、「かおり」ということばも知っている。「頭」が知っているのに、「肉体」が知らないことがある--それが「柚子」という「肉体」でも知っているものと結びつき、「肉体」に「わかる?」と呼び掛けてくる。私の「肉体」が知らないものが「ある」ということが、「刺戟的」であり、「鮮烈」ということだ。私にとっては。
私が「頭」でしか知らないこと(第九、とか)を大野はしっかりと把握している。それを「肉体」となじませている、ということかもしれない。
2連目もすごい。
「小宇宙ごと搾りなさい」--搾るのは「肉体」、手である。手が、「頭」で知っている「宇宙」を搾る。「肉体」が宇宙より大きくなる。「光年のずれごと薫りなさい」。「光年のずれ」か。巨大だなあ。かっこいいなあ。「薫りなさい」は「柚子」に対する呼びかけだろう。自分の「肉体」で搾り、その反応を「柚子」の「肉体」によびかけて、求める。そのとき「宇宙」に対して「光年」ということばがきらめく。
「頭」と「肉体」が大野の場合、とても刺戟的に呼応している。私は何もわからないまま、その「ことば」を追いかける。はじめて聴いたことばをこどもが追いかけるように。
「二三・四三度」なんて、「肉体」は感じない。地軸のずれなど私は肉体で感じたことがないので、びっくりしてしまうが、それが「事実(ほんとう)」なら、追いかけるしかない。そういうことば(「事実」だけれど、「頭」で共有するしかないこと)と「感傷なんか 柑橘系のトゲにさされればいい」という「肉体」のささいな反応をひとつのことばのなかでとらえることが大野の特徴なのだろう。
大野直子「聖なる喧しさ」は北陸の冬を描写した文章である。雪国の冬は意外と喧しい。雪の前には雷が鳴る。この季節はブリのとれる季節でもあり、この雷が鳴るとブリがとれはじめるので、俗に「ブリおこし」とも呼ばれるのだが、そのころの海は荒く、海の音が数キロ先まで聞こえる。強い風に林が泣くように鳴る、と書いた後、
そしてある朝突然、深い静けさはやって来る。雪である。しかし不思議だ。雪の積もった朝の静寂は、ふだんの静寂とは違う。その無音には、匂いがあり、かすかな金属音があり、人を威圧する気配がある。例えば、第九などを聴いている時に、大音響の中なのに誰もいない丘に一人佇んでいるような気持ちになるのと似ている。愛おしい寂しさである。静けさは布団の中までしんしんと降ってきて、狙われた小鳥のように身をこわばらせているのだけれど、脳のどこかでそれを懐かしんでいる。
私は雪国で生まれ育ったので、雪の朝の「無音」「匂い」はとてもよくわかる。しかし「かすかな金属音」は「かすかな」はよくわかるが、「金属音」かどうか私は思い出せない。そのあとの「第九……」になると、あ、これが大野の個性なのだなあと感じる。私は第九などとは無縁の田舎で育ったので、そういうものは「肉体」が覚えていない。そうか、雪の静けさは音楽のなかで感じる静けさか。雪の朝には、音楽と静寂だけがあるのか。なるほど。
でも……。「脳のどこかで懐かしんでいる」。ここで、私はまた驚いてしまう。人間は「脳」で懐かしくなるのだろうか。どうもよくわからない。大野のことばに私が感じる違和感は、どうもこのあたりに「理由」がありそうである。何かを「脳」で理解している。第九を「脳」の音楽と言っていいかどうかわからないが、まあ、私には、暮らしとは無縁の、あとから「学校」で学んだ音楽である。「頭」で聴いた音楽である。--大野は、「頭」で聴いたから「脳」が懐かしむ、というかなあ……。よくわからない。
とはいうものの。
この文章はまだつづいていて、
やがて、スコップの音。ふっと、からだがゆるんで、町のあちこちから雪かきの音が鳴りはじめる。
ここに出てくる「からだがゆるんで」は気持ちがいい。とても納得が行く。雪かきをしているスコップの音。その音に「からだ(肉体)」が反応してしまう。自分では肉体を動かしていないのに、雪かきをする時の「肉体」の動きが「肉体」をゆする。そうすると、からだがそれを思い出し、覚えていることが動きだす。目覚めたばかりの硬いからだが、覚えている動きのなかでゆるくなる。この文章はいいなあ、と思う。
大野のことばには、とても「わかる」部分と、どうしてそうなのかなあ、と「わからない」部分がある。こんなことは、誰のことばに対しても起きることなのかもしれないけれど、そういうことが私には気になるのである。
詩も、少し、そういう感じがする。「蛍光イエロー」は柚子のことを書いている。
てのひらの凹みで
ゆっくりと自転する柚子
柚子には隕石のかおりがする
小宇宙ごと搾りなさい
光年のずれごと薫りなさい
二三・四三度のマジックだ
宙では 軸のずれがこれほどまでにあらわ
胸が空くほどの自由
氷と蒸気が隣り合わせをする星
感傷なんか 柑橘系のトゲにさされればいい
無口だけれど
手を洗いたくなるほどの黄色
小さな爆弾
細胞がひとひら
包丁に吸いついた
1連目がかっこいい。「柚子」は「隕石のかおり」か。うーん。鮮烈だ。しかし、この鮮烈は私の「肉体」が感じる鮮烈ではない。私は「隕石のかおり」をかいだことがないのでわからない。この「わからない」が鮮烈だ。刺戟的だ。「わからない」のはいつでも刺戟的だ。この「刺戟」は、言い換えると「脳(頭)」にやってくる刺戟だ。「肉体」はそういうものを「覚えていない」ので「わからない」としかいいようがないのだが、「頭」は「隕石」ということばを知っていて、「かおり」ということばも知っている。「頭」が知っているのに、「肉体」が知らないことがある--それが「柚子」という「肉体」でも知っているものと結びつき、「肉体」に「わかる?」と呼び掛けてくる。私の「肉体」が知らないものが「ある」ということが、「刺戟的」であり、「鮮烈」ということだ。私にとっては。
私が「頭」でしか知らないこと(第九、とか)を大野はしっかりと把握している。それを「肉体」となじませている、ということかもしれない。
2連目もすごい。
「小宇宙ごと搾りなさい」--搾るのは「肉体」、手である。手が、「頭」で知っている「宇宙」を搾る。「肉体」が宇宙より大きくなる。「光年のずれごと薫りなさい」。「光年のずれ」か。巨大だなあ。かっこいいなあ。「薫りなさい」は「柚子」に対する呼びかけだろう。自分の「肉体」で搾り、その反応を「柚子」の「肉体」によびかけて、求める。そのとき「宇宙」に対して「光年」ということばがきらめく。
「頭」と「肉体」が大野の場合、とても刺戟的に呼応している。私は何もわからないまま、その「ことば」を追いかける。はじめて聴いたことばをこどもが追いかけるように。
「二三・四三度」なんて、「肉体」は感じない。地軸のずれなど私は肉体で感じたことがないので、びっくりしてしまうが、それが「事実(ほんとう)」なら、追いかけるしかない。そういうことば(「事実」だけれど、「頭」で共有するしかないこと)と「感傷なんか 柑橘系のトゲにさされればいい」という「肉体」のささいな反応をひとつのことばのなかでとらえることが大野の特徴なのだろう。
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