中上哲夫「川について」(「現代詩手帖」2013年02月号)
中上哲夫「川について」には不思議な静かさがある。離れているものを、離れたままそっとつなぐ静かさがある。
「離れたものを、離れたまま」という印象は、たぶん、
この、倒置法の「文体」が影響している。
こう書き直すと、印象がずいぶん変わる。言った「こと」、信じた「こと」が「きみ」と「人びと」のなかに閉じ込められて、そこには人間がいることがはっきりするが、「こと」はあくまで人間がそうとらえるからそこに存在するのだということがはっきりするが、中上の書き方は違う。
「きみが言う」「人びとが存在した」と言って、そのあとに「切断」がある。句点「。」がある。それから、引き返すようにして「言った/内容(こと)」、「信じていた/内容(こと)」が語られる。
「こと」が、「きみ」や「人びと」から独立して存在する。
「こと」を私はこれまで「肉体」と結びつけて考えてきた。「肉体」が動く。何かが起きる。その動詞とともにある「こと」。動詞によって引き起こされる「こと」。
中上の書いていることは、それとは微妙に違う。
「川がさかさに流れている」「(川が)波立って鮭の群れをつれてくる」。この文では、「主語」が「私」ではない。そこで動いているのは「私の肉体(人間の肉体)」ではない。私は、そこで起きている「こと」を自分の「肉体」では反芻できない。
私の「肉体」でないものが、「人間の肉体」でないものが、そこで動いている。こういう自分の「肉体」ではない動き、その動詞を、私は何によって把握し、納得しているのかなあ。
どうして、その動きを理解できるのかなあ。
これはもしかすると、道にだれかが倒れていて、腹をかえてうずくまっているのをみて、あ、このひとは腹が痛いのだとわかること以上に不思議なことかもしれない。自分の痛みでもない腹の痛み--それを感じることができるのは私にも腹が痛くて、腹を抱えて呻いた経験があるからだ。そういう「こと」を「覚えている」からだ。
でも、私は「川が逆流する」ときの「水の運動」を、あるいは「鮭が川をさかのぼる」ときの「鮭の運動」を自分の「肉体」そのものとして体験したことはない。それでも、それが「わかる」。
この「わかる」には、何か、とんでもない飛躍がある。
水が流れてくる。その水のなかに立ったことがある。そのとき「肉体」は「水の流れ」というものを「覚える」。「肉体」を押してくるものを「覚える」。そしてたとえば川上に向かって歩くとき、水の抵抗を感じる。その水の抵抗は、水の抵抗なのか、「肉体」の抵抗なのか--その両方なのか。
私たちは「肉体」以外のものに触れながら、「肉体」の運動の可能性を「覚える」のかもしれない。自分ではできない可能性を学ぶ。夢を見るのかもしれない。夢を「覚える」のかもしれない。
そのとき、私たちはまた、自分の「肉体」ではない、「ものの肉体」の力を「覚える」。「もの」にも「肉体」がある。力がある。それと人間の「肉体」は出会い、ちょっとした「非情」を感じる。人間の思いなどとは関係なく存在する「肉体」の、その自立に、さっぱりとした力を感じる。「自然の力」といってもいいのかなあ。
何か、それは人間の「肉体」の、「肉体」にしがみついているものを洗ってくれる。不思議な自立する力。そのために、さっぱりした感じがする。どんなにものが、たとえば川の水が激しくぶつかってきても、その激しさには何か清潔なものがある。人間の「肉体」とは無縁な、何かがある。
実際に「人間の肉体」と「水の肉体」は接しているにもかかわらず、離れている。離れているにもかかわらず、接している。--自立、独立という感覚(分離という感覚)といっしょに。
そこに孤独の、あるいは宇宙の(自然の)美しさがある--というのは、うーん、飛躍なのだが、そう思ってしまう。
これはいま引用した1連目と2連目の関係についてもいえる。「いま/ここ」にある「川の肉体」と中上が思い出している「川の肉体」は同じではない。離れている。しかもそれは「距離」的に離れているだけではない。2連目の「川の肉体」は川崎洋の「ことばの肉体」のなかで流れているのである。
中上の(あるいは中上の妻?の)「肉体」とはかけ離れたところにあって、かけ離れることによって接触している。接続している。
自分の「肉体」とは離れたものに触れた瞬間の驚き、その驚きのなかで自分の「肉体」をふと思い出した驚き--その断絶と接続の、不思議な呼吸が「……、と。」という倒置法のことばの動きのなかにある。また連と連との構成、1行の空白を挟んでことばが向き合う動きのなかにある。倒置法と、連と連との呼応の、不思議な「往復」運動が、人間が何かしら自分とは直接「肉体関係」のないものと同時に存在するときの、その「宇宙」、「宇宙の孤独」を感じさせてくれる。
詩は、このあとアマゾン川の「満潮」による逆流、中上の「冠動脈」の弁の障碍(?--動脈の逆流?)のようなことが語られるのだが、そういう「肉体」のなかの「逆流」と「逆流する川」が呼びあって(呼応し合って)、中上の「宇宙」をすこし複雑にする。
そのことについてきちんと私のことばはついていけない。どう書いていいかわからない。
この詩には、私がこれまで考えてきた「肉体」の問題とは少し違った--けれどもどこかで通じているはずの別の問題が隠れているのを感じる。それは最初に書いたように、なんだか離れながら、同時に存在するものなのだけれど。
うまく私のことばは動かない。
また、いつか、思いついたら考えるしかないなあ。
中上哲夫「川について」には不思議な静かさがある。離れているものを、離れたままそっとつなぐ静かさがある。
ふしぎだわ、と窓ぎわに立って外をながめているきみが泡粒のよう
いう。川がさかさにながれている、と。海から逆に。そして、ほら、
見てというのだ。点滴を受けているベッドのわたしに向かって。
むしろ、川は海から山へと流れるものだと信じていた人びとがかつ
て存在した。北の大地に。秋になると、波立って鮭の群れをつれて
くるのだ、と。確か、川崎洋さんの詩で読んだような気がするのだ
けど。
「離れたものを、離れたまま」という印象は、たぶん、
川がさかさにながれている、と。
秋になると、波立って鮭の群れをつれてくるのだ、と。
この、倒置法の「文体」が影響している。
川がさかさにながれている、と「きみが言う」。
秋になると、波立って鮭の群れをつれてくるのだ、と「信じていた人びとが存在した」。
こう書き直すと、印象がずいぶん変わる。言った「こと」、信じた「こと」が「きみ」と「人びと」のなかに閉じ込められて、そこには人間がいることがはっきりするが、「こと」はあくまで人間がそうとらえるからそこに存在するのだということがはっきりするが、中上の書き方は違う。
「きみが言う」「人びとが存在した」と言って、そのあとに「切断」がある。句点「。」がある。それから、引き返すようにして「言った/内容(こと)」、「信じていた/内容(こと)」が語られる。
「こと」が、「きみ」や「人びと」から独立して存在する。
「こと」を私はこれまで「肉体」と結びつけて考えてきた。「肉体」が動く。何かが起きる。その動詞とともにある「こと」。動詞によって引き起こされる「こと」。
中上の書いていることは、それとは微妙に違う。
「川がさかさに流れている」「(川が)波立って鮭の群れをつれてくる」。この文では、「主語」が「私」ではない。そこで動いているのは「私の肉体(人間の肉体)」ではない。私は、そこで起きている「こと」を自分の「肉体」では反芻できない。
私の「肉体」でないものが、「人間の肉体」でないものが、そこで動いている。こういう自分の「肉体」ではない動き、その動詞を、私は何によって把握し、納得しているのかなあ。
どうして、その動きを理解できるのかなあ。
これはもしかすると、道にだれかが倒れていて、腹をかえてうずくまっているのをみて、あ、このひとは腹が痛いのだとわかること以上に不思議なことかもしれない。自分の痛みでもない腹の痛み--それを感じることができるのは私にも腹が痛くて、腹を抱えて呻いた経験があるからだ。そういう「こと」を「覚えている」からだ。
でも、私は「川が逆流する」ときの「水の運動」を、あるいは「鮭が川をさかのぼる」ときの「鮭の運動」を自分の「肉体」そのものとして体験したことはない。それでも、それが「わかる」。
この「わかる」には、何か、とんでもない飛躍がある。
水が流れてくる。その水のなかに立ったことがある。そのとき「肉体」は「水の流れ」というものを「覚える」。「肉体」を押してくるものを「覚える」。そしてたとえば川上に向かって歩くとき、水の抵抗を感じる。その水の抵抗は、水の抵抗なのか、「肉体」の抵抗なのか--その両方なのか。
私たちは「肉体」以外のものに触れながら、「肉体」の運動の可能性を「覚える」のかもしれない。自分ではできない可能性を学ぶ。夢を見るのかもしれない。夢を「覚える」のかもしれない。
そのとき、私たちはまた、自分の「肉体」ではない、「ものの肉体」の力を「覚える」。「もの」にも「肉体」がある。力がある。それと人間の「肉体」は出会い、ちょっとした「非情」を感じる。人間の思いなどとは関係なく存在する「肉体」の、その自立に、さっぱりとした力を感じる。「自然の力」といってもいいのかなあ。
何か、それは人間の「肉体」の、「肉体」にしがみついているものを洗ってくれる。不思議な自立する力。そのために、さっぱりした感じがする。どんなにものが、たとえば川の水が激しくぶつかってきても、その激しさには何か清潔なものがある。人間の「肉体」とは無縁な、何かがある。
実際に「人間の肉体」と「水の肉体」は接しているにもかかわらず、離れている。離れているにもかかわらず、接している。--自立、独立という感覚(分離という感覚)といっしょに。
そこに孤独の、あるいは宇宙の(自然の)美しさがある--というのは、うーん、飛躍なのだが、そう思ってしまう。
これはいま引用した1連目と2連目の関係についてもいえる。「いま/ここ」にある「川の肉体」と中上が思い出している「川の肉体」は同じではない。離れている。しかもそれは「距離」的に離れているだけではない。2連目の「川の肉体」は川崎洋の「ことばの肉体」のなかで流れているのである。
中上の(あるいは中上の妻?の)「肉体」とはかけ離れたところにあって、かけ離れることによって接触している。接続している。
自分の「肉体」とは離れたものに触れた瞬間の驚き、その驚きのなかで自分の「肉体」をふと思い出した驚き--その断絶と接続の、不思議な呼吸が「……、と。」という倒置法のことばの動きのなかにある。また連と連との構成、1行の空白を挟んでことばが向き合う動きのなかにある。倒置法と、連と連との呼応の、不思議な「往復」運動が、人間が何かしら自分とは直接「肉体関係」のないものと同時に存在するときの、その「宇宙」、「宇宙の孤独」を感じさせてくれる。
詩は、このあとアマゾン川の「満潮」による逆流、中上の「冠動脈」の弁の障碍(?--動脈の逆流?)のようなことが語られるのだが、そういう「肉体」のなかの「逆流」と「逆流する川」が呼びあって(呼応し合って)、中上の「宇宙」をすこし複雑にする。
そのことについてきちんと私のことばはついていけない。どう書いていいかわからない。
この詩には、私がこれまで考えてきた「肉体」の問題とは少し違った--けれどもどこかで通じているはずの別の問題が隠れているのを感じる。それは最初に書いたように、なんだか離れながら、同時に存在するものなのだけれど。
うまく私のことばは動かない。
また、いつか、思いついたら考えるしかないなあ。
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