詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石井久美子「生き字引」ほか

2013-02-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石井久美子「生き字引」ほか(「火曜日」113 、2013年02月28日発行)

 石井久美子「生き字引」は亡くなった父のことを書いている。「火曜日」にはほかに2篇の作品があるが、その2篇も父のことを書いている。「生き字引」がいちばん印象に残った。

生き字引のような父だった
分からないことがあれば
いつ聞いてもめんどうがらず
丁寧に教えてくれた
最後にたいてい
「間違っているかもしれんで」
と言ってたっけな

突然旅立ってしまった
父の代わりとなる人がおらず
分からないこと
ネットで調べてみたりするけど
読んでもよく分からない

やっぱりお父さんの声で聞きたいよ
間違っていてもいいから

 「分かる」というのは不思議なことだと思う。「分かる」は「正しい」かどうかではなく、信じられるかどうか、納得できるかどうかなのである。そして、そのとき「信じられる」「納得できる」は、そのことばが語る「こと」ではなく、そのことばを語った「ひと」なのである。抽象的な「こと」ではなく、いま、目の前にいる「ひと」という肉体なのである。
 これは--なんというか、「非哲学的」「非論理的」な「事実」なのだが、だから、そこに「真実」がある。で、この「真実」を「愛」と呼んだりするのだが。まあ、そんなことを書いてしまうと、どこか「きれいごと」になってしまいそうだが。でも、書いたおきたいなあ。最後の「間違っていてもいいから」は、私の書いていることを叩き壊して、そこに生き残る。そう思うから。

 「間違っていてもいいから」。ひとはいつだって「間違い」か「正しい」かを問題にしない。というよりも、もしかすると「間違っている」からこそ、わかり、また信じるのかもしれない。
 父に聞いて「わかった」ことを誰かに言う。そして、その「答え」を、たとえば学校で教室で先生に、あるいは友だちに「それは間違っている」と指摘される。そういうことは、多くのひとが経験すると思う。そして、その瞬間、恥ずかしくなったり、「お父さんは、もう、でたらめばかり言って信用できない」と思い、家に帰ってお父さんに苦情を言う、ということもするかもしれない。そういうとき、「お父さん」がしっかりと「わかる」。「肉体」として生きている実感が、「肉体」のなかに生まれてくる。そして、生きつづける。この「実感」に「間違い」はない。絶対的に「正しい」。だから、教えてもらったことが「間違っている」としても、それを越えることができるのだ。

 石井の詩は、いわゆる「現代詩」ではないかもしれない。けれど、いいなあ、こういう実感が正直にあふれてくる詩は。



 村中秀雄「ことばは」は、「わからない」。

ことばは
どちらかと言えばやさしく
いばっているより裸木のあの
わかりやすさがいい。
アルプスの峰のように
厚い氷のカーテンを重ねた冬の雲が
南の空を--
天が荒れ狂っても
じっとしておれば怖くないんだ、と
黙って輝いている

 「わからない」のだけれど、いいかえると、「流通言語」になるように、主語と述語の関係を明確にし、「意味」を散文化して言いなおすことはできないのだけれど。
 冬の裸の木のように、ただそこに存在する、そういう「ことば」でありたい。何があってもじっとしていれば大丈夫。荒れ狂う天気も過ぎ去る。「ことば」はたえることができる。たえて、生き残る。何も言わず、黙っている冬の裸の木、その木にも、聞こえないけれどほんとうは「声」がある。「ことば」がある。その力を、村中は、こういう詩を書くことで「共有」している。共有することで、村中は木が「わかる」。
 それはもしかしたら、石井の父が言ったように「間違っているかもしれん」ことだけれど、それが間違っていたとしても、それはそれでいい。「わかる」ことが大事なのだ。

 あらゆることが、そうなのだと思う。詩を読む。その読み方は「間違っているかもしれない」。けれど、間違いなど、どうでもいい。「わかる」ということが大事なのであり、その「わかる」は他人には関係がない。読んだ人間が「わかる」と実感できるかどうかだけである。だから「わからない」という言い方でしか「わかる」ことができないということもある。言い換えると「間違える」という言い方で「わかる」ということもある。


幸せのありか―れお君といっしょに
石井久美子
編集工房ノア
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アカデミー賞・主演賞考

2013-02-28 11:50:14 | 映画
 先日米アカデミー賞の発表があった。主演男優賞は「リンカーン」のダニエル・デイ・ルイス、主演女優賞は「世界にひとつのプレイブック」はジェニファー・ローレンス。ジェニファー・ローレンスはほんとうにすばらしく、彼女が受賞してほんとうにうれしかった。ダニエル・デイ・ルイスについては「リンカーン」は予告編しか見ていないのだけれど、たぶん、そうだろうなあ、と思っていた。
 というのも。
 アカデミー賞は実在の人物を演じると受賞しやすいのである。最近だけでも「英国王のスピーチ」「サッチャー」「エリザベス女王」「カポーティ」。それから「アミン(大統領--タイトルは忘れた)」「レイ(レイ・チャールズ)」も実際にいた人物である。数え上げたらきりがない。あのロバート・デニーロも最初の賞は「レイジング・ブル」の実在のボクサーだった。「ゴッドファザー」さえも実在の人物。そして、その「演技」というのは、実は「そっくり賞」的な要素がある。
 で、思うのだけれど。「そっくり賞」って、演技?
 それに、その賞に対する評価は、演技そのものに対して?
 どうも、そこに演じられている「人物」への評価(再評価)が含まれているような気がしてならない。「ガンジー」というような偉大な人物(今回のリンカーンも同じ)にかぎらず、たとえばシシー・スペイシクが主演女優賞を受賞したのは、「炭鉱夫の娘」。私は知らないけれど、実在のカントリーシンガー(?)だった。ロバート・デュバルも誰かよく知らないが実在のシンガーを演じて受賞している。(私は見ていない。)これなんかは、その人を「私たちは忘れません」という評価が半分くらい含まれているように思えてしようがない。
 演技に感心すると同時に、その人が生きていたこと、そしてやりとげたことに対する評価が半分くらいまじっていない? まあ、それでもいいのだろうけれど。映画というのは、いろんな要素があって、その要素が絡み合って一つになっているものだから。

 ダニエル・デイ・ルイスにケチをつけるつもりはないのだけれど。
 私は主演男優賞・女優賞というような「人物(演技)」を対象とした賞の場合、やっぱり「役」じゃなく、「俳優」に賞をやる方がおもしろいと思う。私はミーハーなので、映画を見るときは、役--ストーリーのなかで動く役割ではなく、どうしても「個人」を見てしまう。
 具体的に言うと。
 「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。これは架空の王国の王女の物語だけれど、映画を見ているとき「王女」を忘れるでしょ? オードリー・ヘップバーンのきらきらした輝きに見とれてしまう。ストーリーは付録。こういう人こそ、賞にふさわしい。映画を活気づける大切な人だ。
 自分ではそういう人にはなれない。でもスクリーンを見ている間は、その人になってしまう。それが男でも女でも、性差も年齢も越えて、その人になってしまう。いいなあ。魅力的だなあ。ミーハーになってしまう。観客をミーハーにしてしまう俳優こそ「主演男優・女優賞」にふさわしい。観客をミーハーにしないような俳優はスターではない。
 だからね、ブラッド・ピットとか、キャーキャーさわがれる人が受賞すると、映画はもっとおもしろくなると思う。
 (あ、私自身は、今回のジェニファー・ローレンスはそんなに美人とは思わないけれど、これはまた別のことで……。)

 ちょっと話をもどすと。
 実在の人物は受賞に有利、というのは「コメディ」の苦戦にも通じる。「ビッグ」のトム・ハンクス、「テッド」のマーク・ウォールバーグ(今回)のような、とんでもない「おもちゃ」映画では、どんなに「演技」が秀逸であっても、演じられた人物(役)に対する評価が追加点にならないので、賞レースでは苦戦してしまう。「チャンス」のように「おもちゃ」映画ではなくて、かなり厳しい諷刺を含んだ映画(作品そのものも評価が高い作品)でも、ピーター・セラーズと主演男優賞をとれなかったからねえ。
 まあ、賞は映画を活気づけるためのお祭りだから、それはそれでいいのだろうけれど、なんだか「そっくり賞=アカデミー賞」という好きになれないなあ、というのが私の気持ち。アカデミー賞に比べると昔あった「スクリーン」「ロードショウ」の俳優人気投票の方がはるかにすばらしい名誉だと思う。
 「うまい」よりも「好き(かっこいい)」の方が、映画を見にゆく要素なのだから。






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