詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「(日々は汝が織りし布をほどく……)」ほか

2013-02-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「(日々は汝が織りし布をほどく……)」ほか(「エウメニデス Ⅲ」43、2012年10月25日発行)

 翻訳というものを私はしたことがないのでわからないのだが、ときどき「ことば」は「辞書」どおりではない、「頭」を裏切るものではないか、という気がする。というか、「頭」で理解、整理したとおりのことばでは「肉体」になじまないことがあるのではないか。「肉体」は「頭」とは違うことばを覚えているので、辞書ではなく「肉体」のなかへことばを探しに行かなくてはいけないのではないかと思うことがある。
 ヨシフ・ブロツキイ「(日々は汝が織りし布をほどく……)」をたなかあきみつが訳している。

日々は汝が織りし布片をほどく。
その布片は眼前で、手もとで身をすくめる。
緑の糸は青い糸を追って、
灰色に褐色に何色でもない色になる。
すでにもうそのバチスト織の切端がどうやら見えるらしい。
画家はひとりとして並木道の終点を描かないだろう。
すなわち、洗濯するや花嫁のドレスはたちまち縮む、
だからこそ身体はこれ以上漂白されない。
チーズはひからびたか、あるいは呼吸を圧迫したか。
あるいは横顔からして鳥はカラスなのに、心臓部はカナリア。
ところがおろかなキツネは、喉をかじりながら、
血はどこか、テノール歌手はどこか斟酌しない。

 なかほどに「すなわち」「だからこそ」ということばが出てくる。原文はどういうことばなのか。それはよくわからないが、どうも違う訳があるのではないか、という気が私にはする。私の「頭」ではなく、「肉体」がそう主張している。(←「感覚の意見」というやつである。)
 詩の前半の織物は何だろうか。ある織物をほどいて、その糸を漂白して、新たに「バチスト」を織るというのだろうか。それともすでにあるバチストの一枚の布を花嫁のドレスのために裁断していくことを「ほどく」と呼んで、ドレスをつくる一連の作業を描いているのか。
 よくわからないが、花嫁と布を「ほどく」とが密接に関係しているらしいことは、そこに繰り広げられる「動詞」から推測できる。もしかすると「汝が織りし布片」とは「布」ではなく花嫁の「いのち」そのものかもしれない。いままでの「いのち」とは違った「いのち」に生まれ変わる。それが「花嫁」になるということ。
 その「変化」のターニングポイントとして「すなわち」があるのだが。
 ロシア語では「すなわち」だとしても、日本語でこういうとき「すなわち」というのかなあ。「すなわち」とは「即ち、則ち」なのか。「色即是空/空即是色」ということばがふいに思いつくが、そうすると、この「すなわち」をはさんで前半の5行と後半の5行はいつでも入れ替わることができる。何をどう表現するかは、まあ、一種の「方便」になる。--というといいかげんだが、結婚前夜(初夜前夜)の緊迫した恐怖というか不安が震えるように伝わってくる。--そう思うと、「すなわち」はてかなかいいことばだと思う。
 のだけれど、そうすると……。
 その次の「だからこそ」。うーん、これが私にはほんとうにわからない。さらに、そこにつまずくと、「……か、……か」という並列。「あるいは」「なのに」「ところが」と次々につまずいていく。いいかえると「すなわち」から遠くなる。
 私の感覚では、日本語の「すなわち」は何か論理を超越していて(色即是空、がその代表)、それは単なるイコールではなく、何か矛盾しているものを肯定するときに「すなわち」がつかわれる。「すなわち」のなかには、「だからこそ」も「あるいは」も含まれている。
 原文も読まずに(読んでもわからないのだけれど)こういうことを書くのは変なのだけれど、たなかはロシア語のことばに忠実でありすぎて、何か「誤読」しているような、「誤訳」しているような気が私にはするのである。
 詩の中心にある「すなわち」をいったん肯定すると、後半は、私の感覚では、

すなわち、洗濯するや花嫁のドレスはたちまち縮む、
すなわち、身体はこれ以上漂白されない。
すなわち、チーズはひからび、すなわち、呼吸を圧迫した。
すなわち、横顔からして鳥はカラス、そして心臓部はカナリア。
すなわち、おろかなキツネは、喉をかじりながら、
血はどこか、すなわち、テノール歌手はどこか斟酌しない。

 という感じに「肉体」に響いてくる。あらゆるところに「すなわち」があると見えてくる。ロシアでは「色即是空」というようなことばは「日常的」には耳にしないだろうから、「すなわち」の意味も違ってくるだろうけれど、意味もわからずに「色即是空」ということばを耳にし、口にしてきた私の「肉体」には、あれもこれも、「すなわち」に見えるのである。ぜんぜん違うものがなぜ「すなわち、これ」などということは、違うから「すなわち、これ」でつないでしまうのだとしかいいようがないのだが。
 前半も、

日々は汝が織りし布片をほどく。
すなわち、その布片は眼前で、手もとで身をすくめる。
すなわち、緑の糸は青い糸を追って、
すなわち、灰色に褐色に何色でもない色になる。

 という感じ。
 「もの」それ自体はそれぞれ独立して別の名で呼ばれる。けれど実体は別の名で呼ばれるもの、矛盾したものと「同じ」。つまり「A即是B」という感じじゃないのかなあ、と私の「肉体」は言っている。
 「論理」をあらわすことばは、「頭」のなかでは正確に動くけれど、それを「肉体」に引き下ろし、「ことばの肉体」にするときには、一呼吸置いて「肉体」がなじむまで待つ必要があるのかなあ、などと空想した。
 まあ、これは、単なる思いつきだけれど。



 訳詩ではなく、たなかは日本語でも詩を書いている。(変な言い方かな?)「禁漁区--ハンス・ベルナールの惑星」。ハンス・ベルナールの人形のように、どこか解体されていて、それでいてつながっている。
 その3連目。

かつて夜行列車の始発駅ならどこでも
ピアノの黒鍵は鳥籠の格子に同調しない
わざと踏みはずされた
Jugendstilもどきの音階は
何度も単独行のアキレス腱をはじく
コンクリートの打ちっぱなしの場所での
輪回し遊びが少女Balthus をワープして
感電しのふちへ追いやるように
鳥獣禁漁区を夜どうし旋回する嬌声たち
あるいは嫌気性の植物群に
さらされる漕座ではもちろん
波やうねりに充分な注意が必要である

 何のことかわからないのだが、これを読んで、さっき読んだ訳詩のことを思うと、田中の「くせ」のようなものがなんとなく私の「肉体」につたわってくる。
 私はことばを読むとき「動詞」を中心に読んでしまう。「動詞」のなかには「こと」があり、その「こと」というのは「肉体」が別の存在であっても(日本人であっても、ロシア人であっても)、基本的に同じに働くと考えているからである。
 で、この部分を「動詞」を中心に読んでいくと、その「主語」がどうも「人間」ではない。「ピアノの黒鍵は……同調しない」「音階は……アキレス腱をはじく」。で、「黒鍵」と「アキレス腱」は「韻」を踏むことで「同じ・鍵(腱)」になる。
 「名詞(もの)」をぶつけ合って、そこに詩を誕生させるという手法が見えてくる。(診察台の上のミシンとこうもり傘の出合い、だね。)
 ほんとうの「動詞」、人間の「肉体」が動くときの「動詞」は、その「もの」を引き合わせるという形で動いていて、そのとき「主語(私=たなか)」は陰に隠れているので、うーん、これは、つまり「頭」で書いて、「頭」で読む詩なんだなあ。
 たなかは余分な(?)「肉体」をまじえないので、これはこれで「完結」しているのだけれど。

 このとき、その「頭」と「頭」(「もの」と「もの」)を「動詞」に頼らずにつなげるのだとしたら。
 そこに「音楽」があるべきだと、私は思う。
 抽象的にしか言えないのだけれど(私は音楽の専門家ではないし、だいたいたいへんな音痴で自分では何も音楽に関することはできないのだが)、ことばが「音」になって、それが「音楽」として響くなら、そのときことばは「肉体」に直接働きかけてくる。たとえそれが「頭」のことばであるにしても。
 そうなるといいのだがなあ、と思う。--これは、私の「欲望」であって、たなかがことばでやろうとしていることとは関係ないかもしれないけれど、そう思った。



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ふらんす堂
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