金子忠政『蛙の域、その先』(土曜美術社出版販売、2012年06月20日発行)
金子忠政『蛙の域、その先』は、表題作がおもしろい。
何のことかわからない部分もあるのだけれど、詩なのだから、私は気にしない。書き出しの3行がかっこいい。リズムがある。自分のなかにあるどうしようもないもの、燃焼しきれないものを肯定し、その反動(?)で燃焼してしまうものを「嘘をついている」と否定する。この肯定と否定の緊密な強さがいい。「燃焼」という音もいい。「きさま」という音もいい。
「がつがつの息をついで/もう一息/ はぁ、はぁ、はぁ」のリズムもいい。「はぁ、はぁ、はぁ」に「意味」がないのもいい。「意味」のかわりに、「意味」を超える「肉体」の手触りがある。この手触りこそ、ほんとうのリズムかもしれない。
だからね、どことは言わないが、「肉体」の手触りが稀薄な行は、何かおもしろくない。
ということはちょっと無視しておいて。
肯定と否定の緊密な結びつき--という部分に戻る。肯定と否定が結びつくというのは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。肉体がある。おもしろいものがある。別ないい方をすると、「わかる」けれど、きちんと自分のことばでいいなおすことのできない何か、金子のことばを頼りに、ふいに見てしまう何か、聞いてしまう何か、触ってしまう何か、嗅いでしまう何か、というものがある。ことばではなく、「肉体」がつかんでしまう何かがある。
で、それが結晶したのが、
蛙。路上で死んでいる蛙。車にひかれ、ぺしゃんこ。その屍。--あ、見たことがある。鼻を近づけたことはないが、立ち上ってくるものに鼻をそむけたことがある。触ったことはないが、足でけったことがあるかもしれない。踏んでしまって、ぎょっとして靴底をアスファルトでこすったことがあるかもしれない。と、なんでも書けそうなくらい、そういう蛙の屍を私の肉体は覚えている。覚えているが、いままで、私はそれをことばにしたことはなかった。
おもしろいのは、金子が蛙の合唱(?)を聞きながら、草野心平のようにその生きている蛙と共震するのではなく(共震しているのかもしれないけれど)、死んでしまった蛙を目の前に呼び出していることだ。そこには存在しないものを、しかも死んでしまったものを、「絶句」にしろ、絶望にしろ、なんでもいいのだが、いのちの盛りから引き出して向き合わせていることだ。
いま頻りに鳴いている蛙。こいつらだって、車にひかれれば一瞬で死んでしまう。さあ、それはどいつだ。--をさらに通り越して、「屍はどこにある?」
変でしょ? 鳴いている蛙。それが田んぼだと仮定して、蛙が鳴いているのだから、そこに屍はあるはずがない。あるはずがないから、その屍に「路上に引き出されるべき」という修飾語をつけている。「矛盾」を正当化(?)というか、論理化(?)するために、「頭」を働かせて、ことばを動かしている。
こういう「頭」のことばというのは、私は、本来好きではないのだが、この1行にはとても引きつけられた。
それは「路上で死んでいる蛙の屍」というものが「頭」で覚えていることではなくて、肉体で覚えていることだからだと思う。「……されるべき」というような「論理」を肉体は覚えていない。けれど、死んだ蛙というなまなましい存在は、ことばではなく、肉体で覚えている。ことばにすることを拒んだまま、肉体のなかに隠れている。
それが突然引き出されてきて、ことばとして動くので、その瞬間には肉体が引き裂かれた感じがする。「頭」ではなく。
「頭」でいまの1行を整理しなおすと、
ということになると思う。「主語」は蛙であって蛙の「屍」ではない。「主語」が蛙(生きている)からこそ、その前の「「絶句せよ、絶句せよ」と/また鳴く/不眠の青蛙」と一致して、「文章」になる。
でも金子は「蛙はどこにいる?」ではなく「屍はどこにある?」と書く。
そこに、飛躍がある。「主語」が入れ替わる飛躍がある。生と死の対立(矛盾)を乗り越えて動く「ことばの肉体」がある。
先に私は、「頭のことば」ということ少しを書いたが、「頭のことば」であっても、それが「ことばの肉体」となって動くとき、それは「肉体」に働きかけてくる。だから、きっとおもしろいのだろう。「ことばの肉体」とならず、ただ「頭のことば」のまま動くと、頭が刺戟されるだけで、うーん、めんどうくさい、わからない、わからなくたっていいや、わからななくたって生きていけるからね。ほら、微分・積分なんてつかわなくたって生きていけるでしょ? という具合。
ああ、それなのに。
この詩の最後は、
屍は生きた蛙ではないから、ほんとうなら「ある」というのが正しい(?)表現だけれど、ここでは「いる」と間違えることで、ほんとうは「蛙は」どこにいる? 路上に引き出され(路上にでてきて)屍になってしまう蛙はどこに「いる」という具合なのだけれど。
これだと、見えてくるのが屍ではなく、生きている蛙。さっき指摘した「また鳴く/不眠の青蛙」になってしまう。それは「文法」的には正しいのかもしれないけれど、驚きがない。屍が死んでしまう。屍が生きて来ない。何か、矛盾を超えて、それでもそれを書くのだ、という感じがない。--矛盾こそが詩なのに。
「その先」のことではなく、最後の2行は、「その前」になってしまう。
「先」と「前」は日本語では混同されるけれど、いま書いた「その前」は「それ以前」。「その先」はこれから先、「その(その)以降」だね。「その前(それ以前)」は「過去」だからすでに存在している。「その先」は未来だから存在していない。(私はほんとうはそう考えてはいないけれど、便宜上、そう書いておく。)
金子は、詩のなかほどでは、そのまだ存在しない「未来」を肉体を突き破って出現させたのに、最後には、それを「頭」でととのえなおして、ありえない「その先」ではなく、予測可能なものにしてしまった。「頭」のなかではなんでも予測できるというか、空想できる。
「肉体」はそうではなくて、「覚えていること」を思い出すだけである。
この「頭」と「肉体」の関係が、ちょっと……。
なんといえばいいのかなあ。まあ、「頭」がよすぎるのだろうなあ、金子は。肉体でつかみ取ったことを、自然に「頭」でととのえなおしてしまうのだろうなあ。
きのう読んだ秋亜綺羅もとても「頭」のいい詩人なのだが、秋亜綺羅はとてもずるくて、「頭」が完全にことばをととのえる前に、わざと不完全なととのえ方のときに詩にほうりだす。そして読者を混乱させる。「その先」を読者にまかせる。金子は「その先」を自分で整理してしまう--という違いがあるのかもしれない。
でも、批判はしたけれど、「蛙の域、その先」はいろいろな可能性がきらめいている詩だと思う。思うからこそ、不満も強くなる。
金子忠政『蛙の域、その先』は、表題作がおもしろい。
きさま、
燃焼しうるものは
嘘をついている
俺の中の不燃物
燻ろう、燻ろう、だけ、
それだけを、懸命に
がつがつの息をついで
もう一息
はぁ、はぁ、はぁ
夜気が気管にしみ入り
青白い月がつきまとう
靄が立ちこめた夜に
「絶句せよ、絶句せよ」と
また鳴く
不眠の青蛙
(路上に引き出されるべき屍はどこにある?)
何のことかわからない部分もあるのだけれど、詩なのだから、私は気にしない。書き出しの3行がかっこいい。リズムがある。自分のなかにあるどうしようもないもの、燃焼しきれないものを肯定し、その反動(?)で燃焼してしまうものを「嘘をついている」と否定する。この肯定と否定の緊密な強さがいい。「燃焼」という音もいい。「きさま」という音もいい。
「がつがつの息をついで/もう一息/ はぁ、はぁ、はぁ」のリズムもいい。「はぁ、はぁ、はぁ」に「意味」がないのもいい。「意味」のかわりに、「意味」を超える「肉体」の手触りがある。この手触りこそ、ほんとうのリズムかもしれない。
だからね、どことは言わないが、「肉体」の手触りが稀薄な行は、何かおもしろくない。
ということはちょっと無視しておいて。
肯定と否定の緊密な結びつき--という部分に戻る。肯定と否定が結びつくというのは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。肉体がある。おもしろいものがある。別ないい方をすると、「わかる」けれど、きちんと自分のことばでいいなおすことのできない何か、金子のことばを頼りに、ふいに見てしまう何か、聞いてしまう何か、触ってしまう何か、嗅いでしまう何か、というものがある。ことばではなく、「肉体」がつかんでしまう何かがある。
で、それが結晶したのが、
(路上に引き出されるべき屍はどこにある?)
蛙。路上で死んでいる蛙。車にひかれ、ぺしゃんこ。その屍。--あ、見たことがある。鼻を近づけたことはないが、立ち上ってくるものに鼻をそむけたことがある。触ったことはないが、足でけったことがあるかもしれない。踏んでしまって、ぎょっとして靴底をアスファルトでこすったことがあるかもしれない。と、なんでも書けそうなくらい、そういう蛙の屍を私の肉体は覚えている。覚えているが、いままで、私はそれをことばにしたことはなかった。
おもしろいのは、金子が蛙の合唱(?)を聞きながら、草野心平のようにその生きている蛙と共震するのではなく(共震しているのかもしれないけれど)、死んでしまった蛙を目の前に呼び出していることだ。そこには存在しないものを、しかも死んでしまったものを、「絶句」にしろ、絶望にしろ、なんでもいいのだが、いのちの盛りから引き出して向き合わせていることだ。
いま頻りに鳴いている蛙。こいつらだって、車にひかれれば一瞬で死んでしまう。さあ、それはどいつだ。--をさらに通り越して、「屍はどこにある?」
変でしょ? 鳴いている蛙。それが田んぼだと仮定して、蛙が鳴いているのだから、そこに屍はあるはずがない。あるはずがないから、その屍に「路上に引き出されるべき」という修飾語をつけている。「矛盾」を正当化(?)というか、論理化(?)するために、「頭」を働かせて、ことばを動かしている。
こういう「頭」のことばというのは、私は、本来好きではないのだが、この1行にはとても引きつけられた。
それは「路上で死んでいる蛙の屍」というものが「頭」で覚えていることではなくて、肉体で覚えていることだからだと思う。「……されるべき」というような「論理」を肉体は覚えていない。けれど、死んだ蛙というなまなましい存在は、ことばではなく、肉体で覚えている。ことばにすることを拒んだまま、肉体のなかに隠れている。
それが突然引き出されてきて、ことばとして動くので、その瞬間には肉体が引き裂かれた感じがする。「頭」ではなく。
「頭」でいまの1行を整理しなおすと、
路上にでてきて(引き出されて)、死んでしまう運命(死んでしまうべき)、屍になってしまう運命(屍になってしまうべき)の蛙は、どこにいる?
ということになると思う。「主語」は蛙であって蛙の「屍」ではない。「主語」が蛙(生きている)からこそ、その前の「「絶句せよ、絶句せよ」と/また鳴く/不眠の青蛙」と一致して、「文章」になる。
でも金子は「蛙はどこにいる?」ではなく「屍はどこにある?」と書く。
そこに、飛躍がある。「主語」が入れ替わる飛躍がある。生と死の対立(矛盾)を乗り越えて動く「ことばの肉体」がある。
先に私は、「頭のことば」ということ少しを書いたが、「頭のことば」であっても、それが「ことばの肉体」となって動くとき、それは「肉体」に働きかけてくる。だから、きっとおもしろいのだろう。「ことばの肉体」とならず、ただ「頭のことば」のまま動くと、頭が刺戟されるだけで、うーん、めんどうくさい、わからない、わからなくたっていいや、わからななくたって生きていけるからね。ほら、微分・積分なんてつかわなくたって生きていけるでしょ? という具合。
ああ、それなのに。
この詩の最後は、
路上に引き出されるべき
屍はどこにいる?
屍は生きた蛙ではないから、ほんとうなら「ある」というのが正しい(?)表現だけれど、ここでは「いる」と間違えることで、ほんとうは「蛙は」どこにいる? 路上に引き出され(路上にでてきて)屍になってしまう蛙はどこに「いる」という具合なのだけれど。
これだと、見えてくるのが屍ではなく、生きている蛙。さっき指摘した「また鳴く/不眠の青蛙」になってしまう。それは「文法」的には正しいのかもしれないけれど、驚きがない。屍が死んでしまう。屍が生きて来ない。何か、矛盾を超えて、それでもそれを書くのだ、という感じがない。--矛盾こそが詩なのに。
「その先」のことではなく、最後の2行は、「その前」になってしまう。
「先」と「前」は日本語では混同されるけれど、いま書いた「その前」は「それ以前」。「その先」はこれから先、「その(その)以降」だね。「その前(それ以前)」は「過去」だからすでに存在している。「その先」は未来だから存在していない。(私はほんとうはそう考えてはいないけれど、便宜上、そう書いておく。)
金子は、詩のなかほどでは、そのまだ存在しない「未来」を肉体を突き破って出現させたのに、最後には、それを「頭」でととのえなおして、ありえない「その先」ではなく、予測可能なものにしてしまった。「頭」のなかではなんでも予測できるというか、空想できる。
「肉体」はそうではなくて、「覚えていること」を思い出すだけである。
この「頭」と「肉体」の関係が、ちょっと……。
なんといえばいいのかなあ。まあ、「頭」がよすぎるのだろうなあ、金子は。肉体でつかみ取ったことを、自然に「頭」でととのえなおしてしまうのだろうなあ。
きのう読んだ秋亜綺羅もとても「頭」のいい詩人なのだが、秋亜綺羅はとてもずるくて、「頭」が完全にことばをととのえる前に、わざと不完全なととのえ方のときに詩にほうりだす。そして読者を混乱させる。「その先」を読者にまかせる。金子は「その先」を自分で整理してしまう--という違いがあるのかもしれない。
でも、批判はしたけれど、「蛙の域、その先」はいろいろな可能性がきらめいている詩だと思う。思うからこそ、不満も強くなる。
詩集 蛙の域、その先 (現代詩の新鋭) | |
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