詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

タヴィアーニ監督「塀の中のジュリアス・シーザー」(★★★★★)

2013-02-17 19:08:19 | 映画


監督 パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ、ファビオ・カヴァッリ 出演 コジモ・レーガ、サルヴァトーレ・ストリアーノ、ジョヴァンニ・アルクーリ

 1時間とちょっとの非常に短い映画である。だが、まるで5時間の映画を見たような充実感がある。大傑作。今年のベスト1--と、もう言い切ってしまうのだ、私は。
 映画のストーリーは単純である。イタリアの刑務所に服役している囚人たちがシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を演じる。「ブルータス、お前もか」の台詞が有名な、あの芝居。そのオーディションから始まり、上演までを描いている。途中の、刑務所のなかでの稽古がどきどきするほどおもしろい。
 芝居と映画はどこが違うかというと、芝居というのは役者が「過去」を背負って舞台に上がらなければならない。そして、そこでは「現在」だけが演じられる。実はこの場面にはこういう背景がありました、という具合にフラッシュバックを挿入するわけにはいかない。映画はいつでも「過去」をフラッシュバックで挿入できるが、芝居はそういうわけにはいかない。だから舞台役者は舞台に上がったとき、そこに「過去」をもっていなければならない。台詞で「過去」を説明しはじめると、それは「劇」ではなく、つまらない「学芸会」になる。役者は、語られることのない「過去」を感じさせなければならない。舞台に立つ前に、演じられる前の「過去」を体験していないといけない。そう感じさせなければいけない。こういう滲み出る「過去」を「存在感」などと呼んだりする。映画でも「存在感」は必要だが舞台ほどの絶対条件ではない。
 と、寄り道をしてしまったが……。
 この「シーザー」を演じる役者たちは囚人である。ということは、つまり、もうとんでもない「過去」をもっている。ふつうの人が体験したことのない「過去」をもっている。隠したい過去といってもいい。「存在感」はすでにある、といっていい。隠そうとしても、それは滲み出てくるし、だいたい囚人が芝居をすると聞けば、観客はそこに「ありもしない過去」さえ押し付けてみてしまうものである。こういうのを「偏見」というのだけれど、まあ、「偏見」を捨てられないのが人間である。
 で、その囚人たちが芝居の練習をしはじめると、たいへんなことが起きる。隠していたはずの「過去」がふいに噴出してくるのである。シェークスピアが書いたはずの「ことば」なのに、それが自分自身の肉体のなかから聞こえてくる。肉体が覚えていることが、シェークスピアによってひっぱりだされてくる。ブルータスを演じる役者は、「胸を切り開いて精神を取り出したい」という台詞を言おうとした瞬間、ことばをなくしてしまう。そのままそっくりではないが、同じ意味のことを「仲間」に言ったことがあるからだ。それは、たぶん服役仲間の誰にも語ったことのない「秘密」だ。それが、芝居を稽古しているなかで噴出してしまう。「自分」が知られてしまう。
 これは、たぶん彼らにとってはたいへんなことだろうと思う。刑務所のなかにも友情はあるだろうが、それは私たちの「日常の友情」とは違っているだろう。特に重大な犯罪者の場合、刑務所にいるからといっていのちの安全が守られているわけではない--というのは犯罪映画の見すぎによる偏見かもしれないけれど、まあ、「人間性」を知られてしまっては、生きていきにくい。「弱み」を見せたくないというのが彼らの本心のような気がする。それを隠したままでは「芝居」がつづけられない。
 ふつうの役者は「過去」を感じさせるために苦労するが、ここでは囚人達は「過去」が噴出してくるために、困惑してしまうのである。そして困惑をとおして、シェークスピアのことばを「自分のことば」にしてしまう。「肉体」にしてしまう。
 「隠したい過去」は稽古をすればするほど噴出してくる。「本心」が噴出してくる。そのひとの「人間性」が出てきてしまう。そして、その「人間性」が出てくれば出てくるほど、「役」が完成されていく。つまり、登場人物になってしまう。最後は、台詞を書いたのがシェークスピアとは思わなくなってしまう。自分の「声」だと信じて、それを生きてしまう。
 この、「過去」と「現実(芝居を演じる)」と「役(虚構)」が交錯しながら「一体」になってしまう感じがすごいのである。芝居の稽古、芝居の登場人物を見ているというより、彼らの「人生」そのものが動くのを見ているようなのだ。芝居なのだから嘘であるはずなのに、嘘のままではおわらない。ほんとうになってしまう。
 囚人達が芝居を演じるのではなく、まるで芝居の登場人物が囚人になってあらわれてくる。そして苦悩を語りはじめるという感じである。シェークスピアが、そこにいる囚人達に「あてて」芝居を書いたような感じをさらに越えて、彼らがシェークスピアにさえ思えてくる。
 これだけですごいなのだが、ちょっと最初に戻って、芝居と映画の違いから見ていくと……。(いままでは、どちらかというと芝居の視点から見てきたことになると思う。)

 これが映画なのは--というか、芝居の稽古を撮りながら「映画」そのものになっているのはなぜかというと。
 芝居と映画では「肉体」の見せ方が違う。芝居では、どんなに前の席でも役者の細部は見えない。映画はそうではなくて、実際に見ることのできない細部をスクリーンいっぱいに広げて見せることができる。
 シェークスピアのことばが囚人のなかでよみがえるのは芝居そのものでもつたえることができるが、そのことばが肉体にどんなふうに動いているかは芝居よりも映画の方がうまくつたえられる。
 「目を見ろ」という台詞が出てくるが、その目のなかに、シェークスピアの書いた裏切りではなく、シェークスピアの書いた困惑や苦悩ではなく、囚人達の「過去」が動くのを、映画はそのままスクリーンに切り取る。一瞬の、かげり、迷い、ひらめき……。それが動く瞬間をカメラはとらえ、スクリーンに映し出す。そうすると、まるで目の前で「彼」を見ている気持ちになる。
 「台詞」を抜きにして、「肉体」そのものが語る「ことばにならない声」を、見ていて感じ取ってしまう。私はこの映画に登場する彼らのような裏切りや犯罪をしたつもりはないけれど、そのときの困惑、苦悩が、そのまま「ことば」を越えて伝わってくる。
 目だけではない。たとえばブルータスとキャシアスがシーザーの戴冠式を見ている。窓から二人が覗いているのを見て、演出家は「ブルータスは窓から覗かない。それを見たくないはずだ。どうする?」と問いかける。そうすると、ブルータスは窓を背にして、窓のしたにしゃがみ込む。
 このとき。
 そのしゃがみこむ肉体をとおして「彼」の「過去」があらわになる。そういうことが彼には実際にあったのだ。だれかの何かを見たくない、隣でだれかがそこから見えるものを説明する。けれど、それを見たくないとき、背を向けてしゃがみこんだということが。そして、その「肉体」は、私の「肉体」にも響いてくる。彼が演じていることが、そのときの「気持ち」が「肉体」として私の「肉体」にそのままつたわってくる。
 この「肉体」の動きは芝居でもつたわるけれど、それを完成された形ではなく、映画のなかで、そういう「肉体」を彼に発見させるという「過程」を見せることで、「過去」が濃密になる。「過去」が遠いものではなく、いま、ここにあるものとして、強烈に噴出してくる。
 あ、その「彼」って、ブルータス? シーザー? それとも「囚人」? わからないまま、そこに「人間」を見てしまう。名前も肩書も関係なく、ただ人間はこんなふうに生きているということを肉体で感じてしまう。

 あまりにおもしろすぎて、興奮しすぎて、私はまだ何を書いていいのかよくわからないが、わからなくても、書きたくて書いてしまうのだ。
 タヴィアーニ兄弟は、私にとってはルノワールと同じで、人間をまるごと受け入れる監督に思えるが、その許容力(包容力)の大きさは、この映画でさらに広がったように思える。過去の作品をまた見直したいと思った。
                        (2013年02月17日、中州大洋3)





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