詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上明日夫「蔵」

2013-02-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川上明日夫「蔵」(「木立ち」114 、2012年12月25日発行)

 川上明日夫「蔵」を読みながら、「声」があわない、呼吸が合わないなあと思う。というより、合わせようがない、と私は感じる。

そんなに飾らなくても生きていけたものを
光の ここは
呟きのとほいところだから

おもうはそんなことばかり
いいものも わるいものも
息を あつめて
ただ
隠されることで生きている
繕われることで生きている


 「主語」がわからない。「生きていけたものを」の「主語」は死んでしまった人だろうか。「おもう」の「主語」は死ななかった人、生き残った人であり、その生き残った人が「生きていけたものを」と思っているのか。そして、生き残った人は「隠されることで生きている/繕われることで生きている」とも思っているのか。
 「おもう(思う)」ということのなかで「生きていけたものを/隠されることで生きている/繕われることで生きている」が「ひとつ」になっているのか。
 で、そのとき「ここ」って、どこ?
 「思う」という「こと」のなかに「いいものも わるいものも」も「ひとつ」になる。それは「生きていけたものを/隠されることで生きている/繕われることで生きている」が「ひとつ」ということと同じである。
 で、そのとき「ここ」って、どこ?
 死んだ人と生きている人(川上)が出会う「ここ」、--言い換えると、死んだ人のことを思い、その人と「出会う/こと」が「ここ」なのだろう。「ここ」のなかに「こと」がある。そう思うと、これはとても深い詩である。何かを言おうとして、うまく言えないのだけれど、それでもなお言ってしまう、そのときに「ことば」が意味を越えて動いていくという感じがつたわってくるすばらしい詩のように感じられる。
 ところが「ここ」が「呟きのとほいところ」と言いなおされるとき嘘が噴出してくる。(私には「嘘」に思える。)「出会い」という「こと」のなかに起きている「こと」に「遠い」はありえない。(川上は「とほい」と書いている。「遠い」ではないのかもしれないが、「とほい」ということばを私は知らないので「遠い」と読んでしまう。)あらゆる「こと」は直接性ゆえに「こと」なのである。
 せっかく出会ったものが、その出会いという「こと」が分離していく。もし、そういう分離が死ならば、わざわざ「出会い」を演出する必要はない。
 「生きていけたものを/隠されることで生きている/繕われることで生きている」や「いいものも わるいものも/息を あつめて」というのは、生者と死者の出会いの瞬間にあらわれる「こと」なのだろうが、それが「とほい」ものとして分離される。そこに、人間の悲しみ、生きることの悲しみがある。あ、いやだなあ、この安直な抒情。
 ほんとうに川上は「ここ」を感じているのかなあ。書いてあることばは実感なのかなあ。実感のもつ「声」が聞こえない。

 どうにも、こうにも、私にはわからない。「意味」がわからないのではなく、「意味」はなんとかわかるのだが(わかっているつもりだが)、それが「声」に聞こえない。詩は「意味」ではないから、「内容」「論理」などわからなくてもいいと私は思っている。「声」が聞こえればいいとおもっている。その「声」が聞こえてこない。

 いや、違う。
 実は、「声」が聞こえる。そしてそれが問題である。ふつうは感じないところに(感じる必要がないところに)、「声」を強烈に感じる。
 それは、



 独立して1行を形成している。これは何かといえば、「念押し」なのである。「と」をつかうことで、川上は「川上」と「おもっていること」をつなぐ。「と」によって、川上が「動詞」になる。「と」がないと、川上は「おもうこと」もできない。
 私の書き方は、わかりにくいかもしれない。
 次の部分を引用すれば、いくらか説明がしやすくなるかもしれない。

黄泉と常世のそんな辺 うららなみじまい
の 汀を
しずかに波だてれば
そこから艀が
一艘の小舟に 水勢に ゆるやかにもたれ
ほどけてゆく
紐のようなものでした


 この1行に独立した「ね」と「と」は同じものである。それまでに語られたこと、「ね」は1文字で同格である。そして、その「ね」によって川上は川上自身を刻印する。その前のことばは、単なる描写である。川上が「おもっていること」ではない。「ね」という刻印をすることで、そのまえのことばが「おもっていること」になる。
 同じように、「と」ということばによって、そのほかのことばは川上の「おもっていること」になる。
 そんな短いことばで、川上は川上の「肉体(声)」を存在させる。こんな引っ込み思案の「肉体(声)」にあわせることなど、私はできない。親身になれない。
 「黄泉と常世の……」以下の数行は美しいが、そしてその美しさを守ろうとする意識が川上のどこかにあって、「ね」ということばでわざと分離させるのだろうけれど、そういう具合に「おもっていること」がいったん分離されると、そこに「肉体」がなくなり、「風景」になる。川上の「肉体」がつかんだものではなく、だれかがつかんだものを聞きかじり、伝聞でつたえているのと区別がつかない。
 もちろんこの区別のなさから「生き残ったもの(川上)」と「生きていけたもの(死んだもの、川上以外のだれか)」の「肉体の融合」を導き出すこともできないではないけれど、私の感覚の意見は、それに反対している。
 「声」が弱音すぎて、気持ちが悪い。

 あることを、ほんとうに見て、見て、見抜いて、肉体を目そのものにして、それを見たのなら、こんなことばにはならない。「波だてれば」の「れば」が、実際の見たものではないということを証明している。実際に見てはいないものであっても、そこに「見る(見たい)」という肉体の欲望があればいいのだが、それもない。「紐のようなものでした」の「でした」(過去形)が、「肉体」を遠ざける。
 見てもいなければ、見たいわけでもない。というのも、それは「ここ(いま)」ではなく、「過去」のことばだからだ。
 「ここ(いま)」を消し去っているくせに、「ここ」と言う。何か言うことがあるふりをして「と」「ね」と言う。「こと」のなかに入り込んで、そこからことばを動かすのではなく、「こと」から離れた場所で、離れていながら「ここ」と呼ぶことで「頭」だけ「そこ」に置いている。そしてその「分離」された悲しみを「抒情」と呼んでいる。そんな気がして気持ちが悪い。そりゃあ何だって離れてしまえば美しく切ないさ。
 この「肉体」の見せ方はずるいと思う。私は本能的に、そう思う。



川上明日夫詩集―白い月のえまい淋しく (北陸現代詩人シリーズ)
川上 明日夫
能登印刷出版部
コメント
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