石川逸子「消された物語」、増田耕三「蓮根」(「兆」157 、2013年02月05日発行)
石川逸子「消された物語」には、何かこころに残るものがある。
「うずくまっている」「ふうっと立ちあがる」「出を待っている」--そのことばのなかにある「肉体」。それは「物語」の肉体なのだが、同時に石川の肉体でもある。石川の肉体が覚えていることが、まだことばにならないまま、「物語」と共震している。
ほんとうは、石川は「物語」を探しているのではなく、というか、石川の肉体の外、風景のなかに物語をさがしているのではなく、自分自身が物語になろうとしているのだ。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」というものに、石川自身の肉体を分け与え、--言い換えると、そういうものの肉体を借りて、石川自身の内部から、肉体が覚えていることを引き出そうとしているのだ。
それは、「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」の声ではなく、石川自身の「肉体」が覚えている、石川自身の「声」のように、私には聞こえる。「行かないで!」と呼んだことがある。けれども、ふりかえりもしなければ、ほほえんでもくれなかった。そういう「こと」を石川は覚えている。
その覚えている「こと」をことばにして動かしたい。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」を借りて「物語」にしたい。作者になって、自分の肉体が覚えていることを、見つめてみたい。
「物語」は「行かないで!」に結晶している。「行かないで!」だけで、「物語」である。その「物語」さえ、「消されていった」。
そうは書いてみたも、ほんとうは違うね。
今度は「消されていった」という「物語」がのこる。肉体に刻まれる。そして、その「消されていった」という「物語」は「行かないで!」という「物語」のあいだを往復する。
あるいは「さまよう」。
*
増田耕三「蓮根」は、私には石川の詩と「一対」になっているように感じられた。
石川の作品では「出を待っていた」ものが、増田の作品では、増田の思いを突き破って出てくる。自己主張する。
「幾通りかの空洞が私を拒むように」の「拒む」は、増田の肉体を(増田は「心」と書いているのだが)拒むということだが、この「拒む」は逆に言うと(?)、増田とは違った何かを主張したいということだ。
それも「空洞」が。
「充実した何か」(何かでいっぱいの何か)ではなく、それが「空洞」であり、なおかつ、そこには入ることができない。それはほんとうは「空洞」ではなく、増田の知らないことばでいっぱいであり、そのぎっしりつまったことばが増田を拒んでいるのだ。増田が「空洞」と思い込み、入ろうとしているところから噴出したがっている。
そして、実際に、噴出する。
この「空洞の三十五年」。それは「空洞」ではなく、増田が信じている「物語」とは別の「物語」なのだ。
「行かないで!」と呼んだ女は、いま「三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます」と、じわり「腐敗」のように滲み出てくる。--と書くと、石川にも増田にも叱られそうだが、ふと「物語」と「ことば」が、ふたつの作品のなかで重なって見えるのである。
こういうことが起きるのは、たぶん「行かないで!」も「今でもあなたのことを恨んでいます」も、だれの肉体のなかにも残っていること、肉体が覚えていることだからだろう。肉体がおぼえていることは、いつでも、ことばになりたがっている。
石川逸子「消された物語」には、何かこころに残るものがある。
晩秋の一日
消された物語を さがしに さまよう
紅葉の森 目立たない路地裏
よごれたゴミ捨て場 K刑務所の運動場
だれもふりむかない祠 古い反故紙に
うずくまっている 物語
目をこらすと
ふうっと立ちあがる
まだ 出を待っている
登場人物たち 動物たち 切り株や草原
「うずくまっている」「ふうっと立ちあがる」「出を待っている」--そのことばのなかにある「肉体」。それは「物語」の肉体なのだが、同時に石川の肉体でもある。石川の肉体が覚えていることが、まだことばにならないまま、「物語」と共震している。
ほんとうは、石川は「物語」を探しているのではなく、というか、石川の肉体の外、風景のなかに物語をさがしているのではなく、自分自身が物語になろうとしているのだ。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」というものに、石川自身の肉体を分け与え、--言い換えると、そういうものの肉体を借りて、石川自身の内部から、肉体が覚えていることを引き出そうとしているのだ。
目をそらせば
たちまち消えていってしまう
「行かないで!」
呼べばふりかえり ほほえんでくれるのか
それは、「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」の声ではなく、石川自身の「肉体」が覚えている、石川自身の「声」のように、私には聞こえる。「行かないで!」と呼んだことがある。けれども、ふりかえりもしなければ、ほほえんでもくれなかった。そういう「こと」を石川は覚えている。
その覚えている「こと」をことばにして動かしたい。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」を借りて「物語」にしたい。作者になって、自分の肉体が覚えていることを、見つめてみたい。
かつて たしたに 在り
辛うじて
物語 として のこり
それも いつしか 消されていったのだね
「物語」は「行かないで!」に結晶している。「行かないで!」だけで、「物語」である。その「物語」さえ、「消されていった」。
そうは書いてみたも、ほんとうは違うね。
今度は「消されていった」という「物語」がのこる。肉体に刻まれる。そして、その「消されていった」という「物語」は「行かないで!」という「物語」のあいだを往復する。
あるいは「さまよう」。
容易に消えるペンながら わずかでも よみがえらせないか
ねがい さまよう 晩秋の一日
*
増田耕三「蓮根」は、私には石川の詩と「一対」になっているように感じられた。
裏庭のリュウキュウの根方に蓮根を埋める
おせち料理に使いそびれたものだが
黒ずんでもう食することもできない代物
鍬で穴を掘り二つの固まりを放り込む
正月という営みが人の心を乱すのか
ここ数日
心の襞のどこかがかきむしられるように騒いで
落ち着かない
もしかしたらそれは
台所の片隅に残されていた
蓮根の仕業だったのか
幾通りかの空洞が私を拒むように
静かに腐敗を深めて
私の心もまた
帰ることのできない道の途上に
迷い込んでしまったのだろうか
--三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます
埋めたはずの蓮根から
そんな言葉が漏れ聞こえるような気がした
石川の作品では「出を待っていた」ものが、増田の作品では、増田の思いを突き破って出てくる。自己主張する。
「幾通りかの空洞が私を拒むように」の「拒む」は、増田の肉体を(増田は「心」と書いているのだが)拒むということだが、この「拒む」は逆に言うと(?)、増田とは違った何かを主張したいということだ。
それも「空洞」が。
「充実した何か」(何かでいっぱいの何か)ではなく、それが「空洞」であり、なおかつ、そこには入ることができない。それはほんとうは「空洞」ではなく、増田の知らないことばでいっぱいであり、そのぎっしりつまったことばが増田を拒んでいるのだ。増田が「空洞」と思い込み、入ろうとしているところから噴出したがっている。
そして、実際に、噴出する。
--三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます
この「空洞の三十五年」。それは「空洞」ではなく、増田が信じている「物語」とは別の「物語」なのだ。
「行かないで!」と呼んだ女は、いま「三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます」と、じわり「腐敗」のように滲み出てくる。--と書くと、石川にも増田にも叱られそうだが、ふと「物語」と「ことば」が、ふたつの作品のなかで重なって見えるのである。
こういうことが起きるのは、たぶん「行かないで!」も「今でもあなたのことを恨んでいます」も、だれの肉体のなかにも残っていること、肉体が覚えていることだからだろう。肉体がおぼえていることは、いつでも、ことばになりたがっている。
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