詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「自傷」

2013-02-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「自傷」(「孔雀船」81、2013年01月15日発行)

 秋亜綺羅の詩の特徴は、ちょっと感じさせることである。その「ちょっと」を言い直し、説明するのはなかなかむずかしいのだけれど。
 「自傷」の書き出し。

脳ずいから垂れ下がってくる影に
時計じかけの時計を仕掛けた

 1行目はとてもあいまい。何のことかわからない。何だろうなあ、と思わせる。そして2行目。変だね。時計じかけの爆弾(時限爆弾)というのはあるね。それからタイマーつきもの日常の器具。これも時計じかけと呼ぶことはできるかな。でも、時計が時計じかけというのはどういうこと? 時計は時計だけで動いているから時計。時間になったら動く時計って、まるで目覚まし時計。
 で、この「変」という感じが繰り返されると、ことばの「有効範囲(?)」が妙にあいまいになる。「意味」がなくなる。「もの」と「ことば」の関係が切断された感じがする。「ことば」がどこへ動いていいかわからない、を経て、どこへ動いてもいいのだという感じになる。このどこへ動いてもいいを「自由」と呼ぶなら、秋亜綺羅のことばは「自由」を手に入れるヒントを教えてくれるのかもしれない。
 あ、先走りしすぎたね。
 ちょっと感じさせるのつづき。たとえば、次の展開。

鍵をかけない部屋の砂漠で眠りにつけば
夢を見ている夢を見ます
蜃気楼の蜃気楼を蜃気楼する

 「蜃気楼」ということばが繰り返される。「蜃気楼する」という奇妙な動詞も出てくるのだけれど、そうか蜃気楼の蜃気楼というものがあるとすれば、それは蜃気楼を蜃気楼したものなんだな、と変な具合に納得してしまう。「夢を見ている夢」というのは体験したことがあると思う。夢がそうであるなら、蜃気楼という幻(?)の蜃気楼があってもいいと思う--という具合に納得してしまう。
 いままでつかっていたことばを(いままで知っていることばを)、そのままつかわなくてもいいんだ、ということもわかる。そして、いままでとは違ったつかい方をするとき何かが「わかる」。
 で、この「わかる」。
 たぶん自分の外側にあるものではない。自分のなかにある力、ことばをこんなふうにして、他人の思っていることとは関係なく「自由」につかうことができる、ということがわかる。

 時計が時計じかけというのは変だけれど、そういうものがあるとことばで考えることができる。蜃気楼の蜃気楼があるということも、考えることができる。(私は蜃気楼そのものを直接見たこともないのだけれど、そういうことを考えることができる。)
 で。
 さっき書いた「わかる」と「考える」が、このとき「一体」になる。「できる」という運動のなかで「一体」になる。秋亜綺羅にとって「わかる」ということは「考える(ことができる)」ということなのだ。そして、その「できる」という可能性--それが「自由」ということなのだ。
 「ことばの肉体」がかってに動くのを許す。このときの「かってに」というのは「流通言語」とは無関係に、ということなのだが。

 また、先走りしてしまった。秋亜綺羅のことばには伝染力があって、読んでいると、ついつい「考え」が暴走する。
 詩に戻って、秋亜綺羅のことばの特徴に戻って、ことばを動かしてみる。
 秋亜綺羅のことばは、ちょっと変。たとえば、

世界中のコンピュータは絶えまなく
IとOで計算をつづけているのでしょう

 「1(イチ)と0(ゼロ)」ではなくて「I(アイ)とO(オー)」。誤植ではなく、秋亜綺羅はそう書いている。コンピュータは「1(イチ)と0(ゼロ)」で情報処理しているのは世間の常識なので、それが「I(アイ)とO(オー)」と言われると、ちょっと変だね、間違いじゃない?と思わせる。
 この「変」は「時計じかけの時計」「夢を見ている夢を見る」「蜃気楼の蜃気楼を蜃気楼する」ということばと、どこか似ている。どこが似ているか--たぶん、知っていること(肉体が覚えていること)とどこか重なるけれど、どこかずれているということだね。そして、ずれていながら、その「ずれ」の指し示していることを「頭」ではっきり理解できることだね。
 ここに「頭」が登場してくるところ、「考える」という運動を刺戟してくるところが、まあ、秋亜綺羅のことばの特徴だ。
 で、その考えるという運動、頭への刺戟は、次のように展開する。

きょうはきのうのコピーです
生きています
さむいし
さみしい
わたしはコピーです
I(わたし)をO(ゼロ)にしてしまえば
LIVEはLOVEになる

 O(オー)と0(ゼロ)はとても似ている。それを踏まえた上で、秋亜綺羅はO(オー)にあえて「ゼロ」とルビをふって、さっきのように書くのだけれど。
 巧妙だね。
 そのずらしかたが、なんというのだろう、誰でも知っているレベルでのずらしである。英語のIが「わたし」であることを知らない人はたぶんいない。「LIVE」が「生きる」であること、「LOVE」が愛・愛するであることを知らない人はたぶんいない。
 そういう誰もが知っている範囲でずらす。ずれを利用しながら、ずれていないもの(「流通言語」の意味)もいっしょに見せてしまう。
 「ほんとう」と「うそ」が出会っているのだ。

 現代詩を定義して「異質なものの出会い」と言った人がいる。シュールレアリスムの定義だったかもしれないが、まあ、どっちでもいい。ポイントは、何かいままで出会わなかったものが出会ったとき、そこに「新鮮」がある。詩があるということ。
 で、秋亜綺羅はその「出会い」を「ほんとう」と「うそ」の出会いにする。そうして、「うそ」をつく自由というものをさらりと見せる。そのとき「うそ」のなかに、ほんとうは見たかったもの、知りたかったもの、体験したかったもの--夢がかいま見える。だからこそ、そこに「自由」を感じるのかもしれない。
 で、このときの「ほんとう」と「うそ」をどうやって人は判断するか(見わけるか)というと、いままで自分が「考えてきたことば」に照らし合わせて判断する。(見わけるよりも、たぶん判断するという抽象的なことばが秋亜綺羅っぽい。--私は「見わける」といいたいのだが、たぶん、秋亜綺羅は「見わける」とは言わない。ここが、私と秋亜綺羅の違いなのだが……。また脱線した。)
 秋亜綺羅は、言い換えると「考える人」(頭で判断する人)ということになる。
 で、私は「頭」というものを疑っているのだが(信じていないのだが)、秋亜綺羅のすごいところは、その「頭」を暴走させてしまわないこと。他人の「頭の範囲(?)」を熟知した上で、「頭」を「頭」と感じさせない領域を知り尽くした上で、「頭」を動かし、ことばを動かすところだ。
 コンピュータが「1と0」で動いていることは誰もが「頭」で知っている。「肉体」としてその電子の動き(?)を体験している人はいないだろうが、そういう処理(?)が行われていることを「頭」で知っている。「IとO」が「1と0」に似ていることも知っている。「I」が私であることも知っている。「LIVE」「LOVE」という英語も知っている。日本語のように知っている。「頭」で知らないことを、そこにもって来ない。あまりにも知りすぎていて「頭」で考えているということを感じさせない領域で「頭」を動かしている。
 「肉体」になってしまっている、つまり無意識でも動くものになっている「頭」の領域でことばを動かしている。
 こういうことができるから、

さむいし
さみしい

 という「肉体」そのもののようなことばの「ずれ」もいっしょに動かすことができるのだ。






透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
コメント
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