詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

桐野かおる『嘘八百』

2013-02-22 23:59:59 | 詩集
桐野かおる『嘘八百』(砂子屋書房、2013年03月05日発行)

 桐野かおる『嘘八百』はエッセイを読んでいるような感じ。詩を読んでいるという感じとはちょっと違う。エッセイと詩はどう違うのかといえば、まあ、「わざと」という感じがしないのがエッセイなんだろうなあ。「わざと」変なことばを使って、新しい感覚、感情、知性をつくりだしていく(生み出していく)というのが「現代詩」というものだろうなあ、と私は、なんとなく思っている。
 「西成仏」という作品も、エッセイ風である。アルコール中毒で入院していたYさんがある日飛び下り自殺をした。そのことが、ごくふつうに(?)書かれている。初めて聞くことばは書かれていない。

借金取りに生活保護費をまきあげられながらも
昼間から真赤な顔で千鳥足
やめるにやめられないのがアル中だけど
病院を隠れ蓑にしてきたのだから
自業自得としか言いようがない

 行分けになっていなかったら、つぶやきエッセイかもね。
 おもしろくないなあ、と思っていたのだが。
 最後の方(終わりの四分の一)。

(Yが死んだてホンマか わしらYに金借してるんや
どないかしてもらわなな)
と派手ななりの二人組がやってきた
追いかけたいのならどうぞどこまでも
あの世まででも
死ねばあなたたちのような人でも仏さま

逃げる仏に追う仏
あの世がどうなっているのかは
よく知らないけれど
この世から手を合わせてさしあげます

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏……
             (谷内注・「金借してるんや」は「金貸してるんや」か)

 この部分も、ふつうに口にすることばかもしれないけれど、私は「追いかけたいのならどうぞどこまでも/あの世まででも/死ねばあなたたちのような人でも仏さま」が、とてもおもしろいなあと思った。
 で、なぜおもしろいのか、と私は私の「肉体」に問いかけてみた。そうすると、省略があるからだと気がついた。桐野は生真面目な正確なのだと思う。だから思ったことはすべてことばにしている。そのために「説明」っぽく、その説明っぽさが、ことばをいっそうふつうに感じさせる。誰もが同じことを言っているように感じさせる。
 この3行も、とりたてて変わっているのではないけれど、ちょっと違うと感じるのはと、そこに省略があるから。

(Yさんを)追いかけたいのならどうぞどこまでも
あの世まででも(追いかけてください)
死ねばあなたたちのような(借金取りの)人でも(アル中で死んだYさんと同じように)仏さま
(あの世まで追いかけることができます)

 で、この省略。どうして省略したんだろう。わかりきっているからだね。桐野には、そういうことは言わなくてもわかりきっている。だから、それは「意識的に」省略したのではない。「無意識的に」省略してしまったのだ。
 たぶん、私が指摘しなければ、桐野は「省略した」とは思わないかもしれない。
 それくらいに、桐野には、ここに書かれていることが「肉体」にしみついているのである。「思想」になってしまっている。人は誰でも死んでしまえば「仏様」。アルコール中毒で死のうが、借金取りになって人を追い詰めようが死んでしまえば「同じ仏様」。
 そして、そういう「思想(肉体)」のあり方は、実は私にもしみついている。だから、それを「省略している」ということが、あれこれ考えなくても、私にすぐにわかった。
 「人は誰でも死んでしまえば仏様」という「思想」は、私自身何度も聞いて(聞かされて)知らず知らずに「肉体」が「覚えてる」。「覚えている」から、そこに省略されたことばを、私はすーっと思い出すことができたのである。
 私の肉体が「覚えている/こと」が、他人のことばの力で「いま/ここ」に引き出されてくる瞬間--その瞬間に、私はいつでも引きつけられる。あ、ここに「ほんとう」の人間がいる、と感じる。その「ほんとう」の人が、私に何かを思い出させてくれるのだと思い、ちょっと感動するのである。あ、出会えてよかったな、と思うのである。

 で。(と、ここで、私はいつものように「飛躍」する。)
 この「人は死んだら誰でも仏様になる」という「思想」--これを桐野は信じているのかな? 実は、私には、よくわからない。けれど、そういう「思想」を桐野は疑っていないと思う。ほんとうかどうか、桐野はそれを吟味したことがないと思う。心底疑うということをしたことがないと思う。
 そして、これが「肉体」の強さ、「思想」の強さだと思う。「思想」なんて信じなくてもいいのだ。疑わないければいいのだ。疑うということは「不安」になるというとだ。疑わないことで、「不安」を消してしまう。それが「肉体の思想」である。
 息をするのと同じ。心臓が動くのと同じ。そこに「考え」は入り込まない。どうして動くのかということを疑問に感じない。動いているのが心臓、動いているのが呼吸。それで充分。動きつづけてくれると「信じる」わけでもない。

 こういう「肉体」の無意識に通じる部分を、桐野のことばは、「省略」によって「共有」する。ふつう、何かを「共有」するとき、その何かを「提示」するのが一般的なのだけれど、「省略」することで、読者がかってに「共有」する何かを読者自身からひっぱりだす(肉体が覚えていることを思い出させる)という具合に、桐野のことばは動いている。その動きがほんとうに自然で、あ、いいなあ、と思うのだった。

 もうひとつ。(これが、ほんとうに書きたいことだと、私はいま気づいている。)
 この「肉体が覚えている/こと」が動きはじめたのは、実は、借金取りが突然やってきて、桐野のことばとはまったく違うことばをしゃべったから。想像していなかった他人の肉体が目の前にあらわれた。暴力的に自己主張している。それに抵抗するようにして、桐野の肉体はぐっと動いた。「体を張って」といういい方があるが、そういう乱暴な他人に対しては「体を張って」私は違うことを考えている。私はあなたとは違う、と言わなければならない。こういうとき、こまかな論理は邪魔になる。どっちにしろ、論理なんて、あいつらはきかない。だから、思っていることの要点だけをぱっと言ってしまう。このリズムによって、桐野のことばは詩になるのだ。
 詩は出会うはずのない未知のものが突然であったときに生まれる--というのは、こういうところにも隠れているのである。






桐野かおる詩集 1988―2002
桐野 かおる
文芸社
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