詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾静明「呼ばれる」ほか

2013-02-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾静明「呼ばれる」ほか(折々の」28、2013年03月01日発行)

 松尾静明「呼ばれる」は美しい詩だ。

背骨を渡るような声を落としながら
雁の群が北へ帰っていく

餌を啄(ついば)んでいて
ふいに 呼ばれたのだ
遠い声に

呼ばれて
契約のようなものが体に満ちて
約束のようなものが沼沢地を飛び立たせ

 呼ぶ声について、松尾は「遠い」としか書いていない。そして、その声に「呼ばれた(呼ばれる)」と書いている。餌をついばんでいる、という「能動」が、「呼ばれる」という「受動」に変わる。そして、それを松尾は自然に受け止めている。「聞いた」という「能動」を省略して「呼ばれる」という「受動」のかたちで雁を描写する。
 美しい--と感じるのは、ここに何かがあるからだ。
 「呼ばれる」、そして気づく。「肉体」が「覚えていること」を思い出す。そういうことが松尾の体験のなかにもあり、その体験を松尾は雁と無意識のうちに共有しているのだ。「遠い」と思わず書いてしまうのは、それは外から聞こえる声ではなく、「肉体」の内部から聞こえる声だからかもしれない。
 肉体の「内部」なら、なぜ「遠い」のか。たとえば空のかなたから聞こえるかすかな声と比較すると肉体の「内部」の声は「近い」はずである。それを「遠い」と定義するのは矛盾していないか。--矛盾している。だから詩なのである。矛盾している。だから美しいのである。
 声(音)は本来、空気の振動であり、それが鼓膜をつたわって聞こえる。ところが肉体の内部の声は空気を震わせることができない。だからほんとうは存在しない。それは「声(音)」ではないのだ。「聞こえない」はずである。けれど、「声(音)」のように聞こえる。「聞こえる」ように感じる。だから、それを「呼ばれている」と言いなおす。「聞こえる」ということばが成り立たないので、「呼ばれる」と言うしかないのである。この「聞こえない」と「呼ばれる」のあいだにある飛躍--それが詩である。
 それはまた、「肉体」そのものである。無意識(本能)の思想である。

さきほどまで餌をあさっていたこの場所が
どういう場所だったのかを問う間もなく

 「無意識の思想」は「問う間もなく」ということばに集約されている。無意識の思想、肉体の思想(本能)は「問う」というようなことはしない。なぜ、心臓は止まらないか。どうやって人間は呼吸するか--そういうことは、肉体は「問わない」。問わずに、本能で動く。そこに本能という思想がある。問わないから間違えることもない。それと同じように、雁は「問わない」、そして間違えないのである。その「問わない」ということを、松尾は、ここでは共有している。それは「問わない/肉体(思想)」を共有するということである。
 肉体は間違えて生きるということをしない。間違えて心臓を動かしたり、間違えて呼吸をするということはしない。肉体の無意識、その内部の「声(命令/本能)」は絶対的に正しい。
 この「正しい」に達すると、ことばは「肉体」を忘れたかのように動いていく。それまでの描写の約束を忘れたかのように、自由に動いていく。松尾の意識(頭)を通らずに、ことばが、ことばの肉体で動いていく。その部分が、また、非常に美しい。

稜線のむこうには
しずかな言葉が深く横たわっていて
安息の日のように薄い明るさが広がっていて
そこを
信じるやわらかな動悸が
たくさんの焦点となって目ざしていく

 このとき、松尾は「雁」そのものである。



 同じ号に英理恵「一つになって」がある。遊びにきた孫を新幹線のホームで見送る。

この手で抱き上げた小さな肉体
瞳だけはしっかり見開いて
いつまでも祖母の瞳を見つめていた
二人の瞳は一つになった
あの時とおなじ瞳がこちらを見ている

 からだに気をつけて元気でね!
 身体に気をつけて元気でね!

ことばは一つになって
夏の名残の白い雲の中へ
とけ込んでいった

 英が書いている「一つになって」ということ、赤ん坊と祖母が「本能」で「一つになる」ということが、松尾の詩でも起きているのである。松尾と雁は「一つになって」、ことばを動かしたのだ。それは雁が聞いた「遠い声」を雁になって松尾が聞いたからこそ、書くことのできたことばである。
 一つと一つが出会って、ふたつにならずに「一つになる」というのは矛盾した(間違った)算数だが、間違っているから、そこに「頭」ではとらえることのできない「ほんとう/本能」があるのだ。




松尾静明詩集 (日本詩人叢書 (97))
松尾 静明
近文社
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デヴィッド・O・ラッセル監督「世界にひとつのプレイブック」(★★★+★)

2013-02-24 20:51:40 | 映画

監督 デヴィッド・O・ラッセル 出演 ブラッドリー・クーパー、ジェニファー・ローレンス、ロバート・デ・ニーロ

 ジェニファー・ローレンスの演技に目が釘付けになる。「あの日、欲望の大地で」のときからうまいと思い、「ウインターズ・ボーン」ですごいと思い、この作品では、もうただただびっくり。
 予告編ではレストランでブラッドリー・クーパーと口論になるシーンとダンスをするくらいしかないのだが、その口論のシーンに、あ、すごいと思った。そして本編で見ると……。
 主人公はブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスの二人だが、どちらに重点が置かれているかといえば男の方。妻の浮気に現場を目撃し、浮気相手の男に暴力を振るい、精神科の治療を受けている男が、平常心を取り戻し立ち直るというストーリーなのだが。
 そのメインのストーリーが「狂言回し」に見えてしまう。
 ジェニファー・ローレンスは夫が急死したショックから、会社の同僚全員とセックスし、それが原因で会社を首になったという、びっくりする役どころなのだが、その同僚全員とセックスするということなど、別にどうということはない、と感じさせてしまう。過去の体験など、それがどんなに常軌を逸していようが、あまり大したことではない。というと、変だけれど、彼女のように同僚全員とセックスしてしまうというような体験はふつうの人はしないから、それがどんなに常軌を逸していても、肉体で想像しても追いつかないので、結局わからない。肉体でわからないことに対して、私たちは(私だけ?)、親身になることはできない。
 はずである。
 ところが、ジェニファー・ローレンスに引きつけられる。
 もちろん、会社の同僚全員とセックスをしてしまうというようなことがいったいどういうことなのか、わからないけれど--言い換えると、そういうことは私は肉体のどこを探しても「覚えていない」のでわからないとしか言いようがないのだけれど、ジェニファー・ローレンスの、「どうせ私の悲しみなんてだれもわかってくれない」という気持ちが痛切につたわってくる。「どうせ私の思っていること、感じていることなんて、だれもわかってくれない」という感じ--これなら、私は肉体で覚えている。そして、その「わかってくれないと」というのは、あとから考えれば大したことではないのだけれどね。
 あ、少し脱線したかな。
 結婚して2、3年(だったかな?)で夫を事故で亡くすというのはたいへんなことだ。その反動で会社の同僚全員とセックスしてしまうというのも常識はずれのたいへんなことである。けれど、そのたいへんなことを、「とてもたいへん」と呼ぶことで枠の外へ出してしまうのではなく、だれにでもある悲しみ、だれにでもあるのだけれどわかってもらえない苦悩という感じで表情にだし、観客を引きつけるというのは、うーん、すごいなあ。
 映画の途中に、ジェニファー・ローレンスは、「自分のしたこと、自分の過去は全部受け入れている」というようなことを口にするが、まさにそれ。自分の過去を全部受け入れている人間の「つらがまえ」がある。全部受け入れながらも、その全部を同じように受け入れてくれるひとがいない、私のことなどだれもわかってくれないという悲しみにはがまんできない、という一種の矛盾(?)のようなものを、突然内向する視線と、悲しみが内向した瞬間に、それが他人への怒りとなって爆発する--その、これも矛盾(?)としか言いようのない感情の動きで具現化する。(悲しみが怒りになるというのは矛盾だけれど、悲しみのために怒るというようなことは、だれでも肉体で覚えているでしょ?)--これが、ほんとうに、びっくりしてしまう。
 演技ではなく、そこに、そういう人間がいるのだと思ってしまう。目が釘付けになるというのは、こういうことを言う。ジェニファー・ローレンスは、私の基準(?)でいうと、美人というわけではないのだけれど、美人であるかどうかは関係なくなる。目が離せないのだ。
 ジェニファー・ローレンスはアカデミー賞の主演女優賞の候補にあがっているが、彼女が取らなかったら、アカデミー賞の意味はないだろう。他の俳優たちも主演男優、助演男優、助演女優賞の候補になっているらしいが、これはジェニファー・ローレンスの演技のおかげだね。彼女がすばらしいのでいっしょにそこにいる人間まで、あ、こういう人間がいるなあ、と感じてしまうのだ。

 それにしても、こんなに若くて「過去」を感じさせる演技力はすごいなあ。スクリーンにあらわれたときから、「過去」をもっている。会社の同僚全員とセックスしてしまったというような衝撃的な「過去」を語らなくても、「過去」を感じさせる。そして、その「感じさせる過去」は実際の「過去」より、もっと強い力で肉体に迫ってくる。
 で、その結果として「いま」、彼女の肉体のなかでどんな感情が動いているかもわかるのだが。

 こういうことをていねいに伏線として描く「脚本」もなかなかいい。ジェニファー・ローレンスは、ブラッドリー・クーパーの妻の手紙を捏造する。そのなかに「サインが見える/見えない(見落としている、だったかな?)」というようなことばが出てくる。それを、ある瞬間、ジェニファー・ローレンスが口にする。ブラッドリー・クーパーは、声でそのことばを聞いたときには気がつかないのだが、捏造された手紙のなかに「サイン」ということばを見つけ、あ、これはジェニファー・ローレンスが書いたのだと気がつく。そして、その瞬間に、彼女のこころそのものを知る。彼女のこころの「サイン」に気がつく。そのこころに動かされる、という具合である。ここからブラッドリー・クーパーはほんとうに変わりはじめる。(これ以後のブラッドリー・クーパーの演技も、とてもすばらしい。生まれかわった、ということが、とてもよくわかる。クライマックスのダンスのあと、彼が妻に語ることばはいっさい説明されないが、何を言ったかは観客にはわかる。ジェニファー・ローレンスだけには、それがわからないのだけれど。)
 「サイン」というものは、そういうものなのかもしれない。あるひとにははっきりわかる。そして、別なひとにはまったくわからない。逆に受け取られることもある。それは、ある意味では、ありふれたことであるう。
 サインということばは、ありふれたことばだが、どんな過去も、あるいは悲しみも、そういう「ありふれたもの(こと)」なのだろう。ありふれているけれど、あるいはありふれているからこそ、他人にわかってもらえるようで、わかってもらえない。他人からはときどき「ささいなこと」に見えるのだ。誰もが自分で体験するときはそのささいなことがとても重大なことなのだけれど。
 で、この映画のもうひとつ、きめのこまかい点は、いま書いた「サイン」のくだり。これを「ことば」だけで描いていないということ。ブラッドリー・クーパーが捏造された妻の手紙を声に出して読むシーン。声に出すのだから文字など見えなくていいのに、ちゃんと文字をスクリーンで見せている。これはもちろん、その手紙が手書きではなく、タイプで書かれているから「偽造」であるという暗示もあるのだが、その暗示だけなら全体を一瞬見せればすむ。それなのに、この映画はキーワードの「サイン」をきちんと映像で紹介している。身と目へ、きちんと情報をつたえている。こういうことも、この映画を手堅いものに仕上げているのだと思う。

 散点の★★★+★は、ジェニファー・ローレンスの演技ゆえにこの映画が充実しているということをはっきりさせたくて、+★という表記にしてみた。
                        (2013年02月24日、天神東宝1)

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