丸山真由美『停留所(バスストップ)』(編集工房ノア、2013年02月01日発行)
丸山真由美『停留所(バスストップ)』は詩集のタイトルがとても古くさい。「停留所」だけでも古くさいのだが「バスストップ」というルビがさらに古くさい。詩も「新しい」感じはしない。
しかし。つかわれなくなったことばのなかには、ときにはっとする美しさがあって立ち止まってしまう。「可愛いフリル」(これもタイトルがよくない、と思う。)
ミシンの前に腰かけ
エプロンの裾にフリルを付ける
ひさしぶりに針を持つ
女てえものは針仕事をしてる姿なんざ
いっとうようござんすね(落語で言ってた)
ちくちく縫って糸を引き絞る
絞った糸を軸にして
フリルの布はあっちをむいたり こっちをむいたり
ととのえながら本体にとじあわせしつけをする
「しつけをする」。あ、そうか、「しつけ」は、これか。行儀・作法の「躾け」ということばくらいしかいまは聞かないけれど、何かをつくるために下準備をすること、特に裁縫ではそういうことを「しつけ」と確かにいうなあ。「しつけ糸」ということばをいまでも私は聞く。「しつけ」をしないとつぎに進めない。そういう針仕事をしながら「しつけ」を、たとえば親から教えられたものとしてではなく、自分の肉体に「覚え込ませる」。「もの」を「しつける」ことで、自分の「肉体」そのものを「しつける」。そういうつながりがあるなあ。
「女性詩」というより、「女の詩」。こんなふうに書くと女を「家事」に閉じ込めてしまいそうで申し訳ないが、自分の肉体と「もの」とのあいだを往復しながら、自分の肉体を「もの」のように整然とととのえていく生き方(思想)には、やはり不思議な力がある。
きのう読んだ中上哲夫の作品には、中上の「肉体」と「川(自然)」の断絶と、それを結びつける「思考(観察)」の力が働いていたが--そして、そこから私は「宇宙」と「孤独」というようなことまで考えたが……。
丸山は、「いま/ここ」で手に触れるものをとおして、そして「触れる」ことのなかで「もの」をととのえるだけではなく、「ととのえる」ということはどういうことかを「肉体」で「覚えている」のだと思う。
詩はつづく。
ほっほ これだけ下手間をかければ
きれいに仕上がることだろう
しごきをする
「しごき」。これは「厳しく訓練をする」でもなければ「体罰を加える」でもない。「しつけ糸」をまっすぐにしているのだ。ここでも丸山の肉体は、私が日常的にはつかわないことばを、「肉体」で「覚えた」ときのままの形でつかっている。
「しつけ」「しごき」。そのことばの奥には、丸山の「肉体」が動いている。丸山の「肉体」は「もの(布、フリル、糸)」に触れながら、その「もの」のなかで動く力(運動)を自分自身の「肉体」で感じている。「もの」をしつけ、しごくだけではなく、丸山は自分の「肉体」をしつけ、しごいている。(いま、こういうことばが日常的につかわれなくなったのは、そういう「肉体」のつかい方、「肉体」を「思想」にするやり方が消えたということなのかもしれない。)
こういう「仕事」のなかから「親密」ということばの意味が生まれてくると思う。「もの」に触れ、「もの」を生かし、「もの」に育てられる。--「この子は、やっと裁縫のしつけができるようになったんです」というように……。こういう「肉体(思想)」は、うーん、美しいと、思い出すのであった。
さらに詩はつづく。
思わず力がはいって
何たること
糸が素抜けてしまった
糸尻に玉止めはしたつもりなのに
ほどけて
水の泡
魂止めをしっかりしていなかったのかもしれない
あなたは足早に行ってしまった
握手もしないで
「あなた」を失ったことが、そして「魂」というものを、こんなふうに自分の「肉体」になじませて「思想」そのものにする。「魂」というものに触れることはむずかしいけれど(むずかしいと私は思っているが)、丸山はしっかりと「手」で触れていたのだ。「手仕事」をするように「あなた」に触れていたのだ。それが「握手」ということばに静かに生きている。
「ボタン」も美しい作品だ。坂道でボタンが落ちているのを見つけた。袖口のボタンだろうか。その後、服のボタンがとれていることに気づいた。新しいボタンを付けてみるがどれもにあわない。
ほどけた糸は空から
どこまでもながくたゆたい
ふわり
流され
まだあなたは
探しているのですか
ボタンをつけていた「糸」は「もの」である。けれども「もの」と「手仕事」を通じて生きることを覚えている「肉体(思想)」は、思わず「あなた」と呼んでしまう。そういう「もの」と「親密」な思想を、丸山は生きている。
「あなた」と「もの」が「親密」ということばのなかで「同格」というのは変かもしれないが、丸山は「あなた」も「もの」もわけ隔てせずに、自分の「肉体」として生きているのだ。「もの」を正しくつくることは自分を正しく育てること。「あなた」と生きていてこそ「私」は「生きている」を実感できる。
「もの」と「あなた」も、そのときともに「肉体」である。「肉体」が「魂」である。で、この「わけへだてのなさ」、すべての存在を自分の「肉体」と触れあう領域でつかみとる思想は、ときにかわいらしい表現を生み出す。「群舞」は2センチくらいのバッタを描いている。
エメラルドグリーン
80番手のミシン糸より細い脚
日々草に似た外来種の葉を食い荒らして
まだ乳歯なんだろう
一寸つまんではなしてやる
「乳歯」がいいなあ。バッタの乳歯か。うーん、見てみたい。乳歯だとわかると、うれしくなるだろうなあ。
丸山真由美『停留所(バスストップ)』は詩集のタイトルがとても古くさい。「停留所」だけでも古くさいのだが「バスストップ」というルビがさらに古くさい。詩も「新しい」感じはしない。
しかし。つかわれなくなったことばのなかには、ときにはっとする美しさがあって立ち止まってしまう。「可愛いフリル」(これもタイトルがよくない、と思う。)
ミシンの前に腰かけ
エプロンの裾にフリルを付ける
ひさしぶりに針を持つ
女てえものは針仕事をしてる姿なんざ
いっとうようござんすね(落語で言ってた)
ちくちく縫って糸を引き絞る
絞った糸を軸にして
フリルの布はあっちをむいたり こっちをむいたり
ととのえながら本体にとじあわせしつけをする
「しつけをする」。あ、そうか、「しつけ」は、これか。行儀・作法の「躾け」ということばくらいしかいまは聞かないけれど、何かをつくるために下準備をすること、特に裁縫ではそういうことを「しつけ」と確かにいうなあ。「しつけ糸」ということばをいまでも私は聞く。「しつけ」をしないとつぎに進めない。そういう針仕事をしながら「しつけ」を、たとえば親から教えられたものとしてではなく、自分の肉体に「覚え込ませる」。「もの」を「しつける」ことで、自分の「肉体」そのものを「しつける」。そういうつながりがあるなあ。
「女性詩」というより、「女の詩」。こんなふうに書くと女を「家事」に閉じ込めてしまいそうで申し訳ないが、自分の肉体と「もの」とのあいだを往復しながら、自分の肉体を「もの」のように整然とととのえていく生き方(思想)には、やはり不思議な力がある。
きのう読んだ中上哲夫の作品には、中上の「肉体」と「川(自然)」の断絶と、それを結びつける「思考(観察)」の力が働いていたが--そして、そこから私は「宇宙」と「孤独」というようなことまで考えたが……。
丸山は、「いま/ここ」で手に触れるものをとおして、そして「触れる」ことのなかで「もの」をととのえるだけではなく、「ととのえる」ということはどういうことかを「肉体」で「覚えている」のだと思う。
詩はつづく。
ほっほ これだけ下手間をかければ
きれいに仕上がることだろう
しごきをする
「しごき」。これは「厳しく訓練をする」でもなければ「体罰を加える」でもない。「しつけ糸」をまっすぐにしているのだ。ここでも丸山の肉体は、私が日常的にはつかわないことばを、「肉体」で「覚えた」ときのままの形でつかっている。
「しつけ」「しごき」。そのことばの奥には、丸山の「肉体」が動いている。丸山の「肉体」は「もの(布、フリル、糸)」に触れながら、その「もの」のなかで動く力(運動)を自分自身の「肉体」で感じている。「もの」をしつけ、しごくだけではなく、丸山は自分の「肉体」をしつけ、しごいている。(いま、こういうことばが日常的につかわれなくなったのは、そういう「肉体」のつかい方、「肉体」を「思想」にするやり方が消えたということなのかもしれない。)
こういう「仕事」のなかから「親密」ということばの意味が生まれてくると思う。「もの」に触れ、「もの」を生かし、「もの」に育てられる。--「この子は、やっと裁縫のしつけができるようになったんです」というように……。こういう「肉体(思想)」は、うーん、美しいと、思い出すのであった。
さらに詩はつづく。
思わず力がはいって
何たること
糸が素抜けてしまった
糸尻に玉止めはしたつもりなのに
ほどけて
水の泡
魂止めをしっかりしていなかったのかもしれない
あなたは足早に行ってしまった
握手もしないで
「あなた」を失ったことが、そして「魂」というものを、こんなふうに自分の「肉体」になじませて「思想」そのものにする。「魂」というものに触れることはむずかしいけれど(むずかしいと私は思っているが)、丸山はしっかりと「手」で触れていたのだ。「手仕事」をするように「あなた」に触れていたのだ。それが「握手」ということばに静かに生きている。
「ボタン」も美しい作品だ。坂道でボタンが落ちているのを見つけた。袖口のボタンだろうか。その後、服のボタンがとれていることに気づいた。新しいボタンを付けてみるがどれもにあわない。
ほどけた糸は空から
どこまでもながくたゆたい
ふわり
流され
まだあなたは
探しているのですか
ボタンをつけていた「糸」は「もの」である。けれども「もの」と「手仕事」を通じて生きることを覚えている「肉体(思想)」は、思わず「あなた」と呼んでしまう。そういう「もの」と「親密」な思想を、丸山は生きている。
「あなた」と「もの」が「親密」ということばのなかで「同格」というのは変かもしれないが、丸山は「あなた」も「もの」もわけ隔てせずに、自分の「肉体」として生きているのだ。「もの」を正しくつくることは自分を正しく育てること。「あなた」と生きていてこそ「私」は「生きている」を実感できる。
「もの」と「あなた」も、そのときともに「肉体」である。「肉体」が「魂」である。で、この「わけへだてのなさ」、すべての存在を自分の「肉体」と触れあう領域でつかみとる思想は、ときにかわいらしい表現を生み出す。「群舞」は2センチくらいのバッタを描いている。
エメラルドグリーン
80番手のミシン糸より細い脚
日々草に似た外来種の葉を食い荒らして
まだ乳歯なんだろう
一寸つまんではなしてやる
「乳歯」がいいなあ。バッタの乳歯か。うーん、見てみたい。乳歯だとわかると、うれしくなるだろうなあ。
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谷内 修三 | |
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