山本博道「母とぼくの夏のおわりのある朝と夜」、金子鉄夫「ナオコ……」(「現代詩手帖」2013年02月号)
山本博道「母とぼくの夏のおわりのある朝と夜」は認知症の母親との暮らしを書いている。山本は母親の介護にずいぶん疲れている。
こんなふうにつづいていく。特徴は句読点がないことである。句読点がないが、私はかってに句読点をつけて読んでいる。どうしてそんなことができるかといえば、まあ、習慣だね。日本語は動詞で文章が終わるから、そこに句点「。」が入る。で、それは考えようによっては、そういう行為は、そこに書かれていることを自分の「肉体」で反芻しながら、句点「。」とともに、いま何をしてきたかを「意識(頭?)」で確かめることだ。
で、この作業というか、ことばを肉体と頭をつかって「ととのえる」という意識化は、だんだん面倒くさくなってくる。わざわざ句点「。」をいれなくても、肉体の動きが途中でかわれば、そのとき、まあ、「文章」は終わって、次の文章に入ったのだなと「頭」ではなく「肉体」がなんとなく納得する。
ということよりも。
そうやって文書を「肉体」で呼吸していると、ああ、だんだん、句点「。」なんてないのが「いま」なんだなあという気がしてくる。区切りがないのが「いま」であり、時間なんだなあと思えてくる。で、文章の意味を突き破って、たとえば「温かみのない母の身体」の「温かみのない」ということば、さらには「温かみ」ということばの手触りが、いつまでも私の「肉体」のなかに残っているに気がつく。「肉体」の「存在」を知らせる何かに触れている--その感じがいつまでも残っているのに気づく。
「肉体」に区切りがないように、「肉体」の運動にも区切りがない。あるいは区切りを超えて、そこに「ある」ものが「ある。「意味」は区切りを必要とするが、区切ってとらえたものは、そのときの便宜上の問題だな。句点「。」なんて、「うそ」だな。「頭」が自分自身を安心させるために作り上げた装置なんだなとわかってくる。そして、そういう「うそ」が幅をきかすから、「うそ」では処理できない「肉体」を逆に「認知症」と否定的にとりあつかうことで自分を守るんだろうなあ。
まあ、そういうことは、どうでもいいか。
だらだらと句点「。」なしにつづく文章を読んでいくと、文章のつづき具合というか、意味の動きというか、それはどうでもよくなるね。つづいていくこと(つづいていること)が大事なのであって、それがつづいているかぎり「生きている」ということがわかってくる。何が起きたかはわからなくても、つづいているということは「生きている」ということ、というのが「肉体」にわかってくる。前に書いたことと重複するが、「温かみ(のない)」というような修飾語(それがなくても何をしたかという「行為のエッセンス」は伝わることば、付随的なことば)のなかに、何か「肉体」のほんとうのつながりが隠れているのに気づく。つまり、「意味」だけをおっているとき除外してしまうもののなかに「ほんとう」があることに気づき、ぞくっとする。「意味」という要約からはみ出してしまうものに触れて、「肉体」が何かを感じる。
こうなってくると、母が首吊り自殺していたという「夢(うそ)」なんかは、その「意味」を押し流されて、「意味」を失い、「肉体」の「いきつづける」しつこさ、その力の不思議さを輝かせるものになる。「うそ」の方が死んでしまって、--というのも、それは「ことば」にすぎないからね、「うそ」とは無縁の「肉体」が未来を切り開いていく。つまり「いきる」ということで、時間をつくっていく。「うそ」は時間をつくらないが、「肉体」というの「ほんとう」は時間をつくって、「いま」をただ存在させる。「過去」も「未来」も「いま」のなかに引き込み、どっちへ向かおうと「いま(存在)」なのだと語ってくる。こういう「いま」の「ひろがり(拡大・増殖)」を書くには句点「。」は邪魔なのだ。いらないのだ。
ハイデガーは「投企」などという面倒くさいことを言ったが、わざわざ何かを投げ出して、そこへ向かわなくても「時間」は生まれ、育っていく。句点「。」なんかいらないのだ。「切断」なんか必要としないのだ、私たちの「肉体」は。
--と書けば、逆だろうという「声」が私のなかから聞こえてくる。「切断」したら「肉体」は生きてはいけない。句点「。」で切断するという「認識」のあり方、「頭」の整理の仕方が間違っているのだ、と何かが叫ぶ。区切らないこと、句点「。」を拒絶することが、「存在」そのものへの「投企」なのだ、と山本は言っているのだろう。
なるほど、と私は思う。
*
金子鉄夫「ナオコ(マトリックス体質)、キミのうんこ、うんこみたいだなあってうれしくなってロール、ロール!」はタイトルを読んでも何のことかわからない。作品そのものを読んでも、まあ、わからない。
私がわかるのは、ここには句点「。」がないということ。それは山本の書いている詩と同じだが、句点「。」がなくても山本のことばには「肉体」にからんだ運動が一応、句点「。」らしきものを暗示したのに対し、金子のことばでは「肉体」が句点「。」を呼び寄せない。
そのかわり、おびただしい読点「、」があり、それは「肉体」そのものよりも、「呼吸」の感じを呼び覚ます。ちょっと簡略化していえば、金子のことばを読むとき、私の手足は動かない。けれど「呼吸」は動く。(山本のことばの場合、呼吸しているのを忘れる--意識しない。それは日常、私たちが「呼吸している」と意識せずに生きていることに似ている。)
金子のことばは「呼吸」を覚醒させる。「呼吸」しないと生きていけないということを思い出させる。
で、その「呼吸」って何?
「肉体」の外にある空気を「肉体」の内部に取り入れ、「肉体」の内部の汚れたものを「肉体」の外に出す--まあ、そんなことだね。
で、「肉体」の内部にある汚れたものって何?
考え方はいろいろあるだろうけれど、私は「肉体」がそれ自身で取り込んだもの以外と考えている。別なことばでいうと「頭」が「頭」のなかに取り込んだもろもろ。それが「肉体」を苦しめている--疎外している。だから、それをほうりだすのだ。捨て去るのだ。大声でわめいて、いらいらを発散するようなものだね。
大声でわめくとき、その「わめいたことば」にも意味があるかもしれないけれど、それ以上に「わめく」という「肉体」の運動によろこびというか、いきる力があるね。
「意味」などわからないけれど、金子の書いていることば、その読点「、」の呼吸をおっていくと、私にはそれが「肉体」につたわってくる。金子のことばを「頭」で共有することはできないが、呼吸を「肉体」で共有することはできる。
「ジャンク、ジャンク」「らんらん、らんらん」「腫れて、腫れれば」「襞、ひだひだ」「歯も、歯も」「dada, dada」「侵入、すぐ侵入」--しり取りをしながら、ことばが動いていく。ことばがことばを捨てていく。金子はことばを「獲得」するために書いているのではなく、捨てるために書いている。ことばを捨てる瞬間に、詩がある、のかもしれないなあ。
「内実」とか「作成された地図」というようなことばは、実際、捨てるしか使い道がないかもしれないなあ。引用の後の方に出てくるのだけれど「熱病」「胚胎」「存在論」「廃屋」「排出」「退屈」「標識」「網膜」「署名」「疵口」「増殖」「逆説」という、ああ、古くさい、60年代の詩のことばたち。「異化」というようなちょっと前のことばもあるけれど。それだって、古くさいなあ。
でも、いいさ。それを必死になって捨てる。まだことばになっていない何かを吸い込んで、「頭」が覚えていることばを捨てる。そのための、ひたすらの「呼吸」。「過呼吸」かな? あれは、苦しいらしい。だから「うんこ」というような、だれの「肉体」にも通じる「肉体」が「覚えている」ことばをときどきは思い出しながら、「呼吸」を「息」にかえる。
そういう「肉体(思想)」が、ここにはあるのかもしれないなあ。私がついていけるのは、まあその「呼吸」が「呼吸」であるということくらいなのだけれど。
山本博道「母とぼくの夏のおわりのある朝と夜」は認知症の母親との暮らしを書いている。山本は母親の介護にずいぶん疲れている。
わが家の廊下とは様相がすこし違う廊下の天井から吊るした紐で母
が首を吊っていたどうしてそんなことが認知症の母にできるのか不
思議に思いながら首の紐をほどいて温かみのない母の身体を下ろし
たが悔やまれたのはそこで目が覚めたことだった寝室のカーテン越
しに朝の光が射しこみ夏のおわりの一日がまたはじまろうとしてい
た寝ていただけで生きていた母を起こしパジャマを脱ぎなさいシャ
ツと股引とパンツを脱ぎなさいここに手を入れてこれを穿きなさい
こんなふうにつづいていく。特徴は句読点がないことである。句読点がないが、私はかってに句読点をつけて読んでいる。どうしてそんなことができるかといえば、まあ、習慣だね。日本語は動詞で文章が終わるから、そこに句点「。」が入る。で、それは考えようによっては、そういう行為は、そこに書かれていることを自分の「肉体」で反芻しながら、句点「。」とともに、いま何をしてきたかを「意識(頭?)」で確かめることだ。
で、この作業というか、ことばを肉体と頭をつかって「ととのえる」という意識化は、だんだん面倒くさくなってくる。わざわざ句点「。」をいれなくても、肉体の動きが途中でかわれば、そのとき、まあ、「文章」は終わって、次の文章に入ったのだなと「頭」ではなく「肉体」がなんとなく納得する。
ということよりも。
そうやって文書を「肉体」で呼吸していると、ああ、だんだん、句点「。」なんてないのが「いま」なんだなあという気がしてくる。区切りがないのが「いま」であり、時間なんだなあと思えてくる。で、文章の意味を突き破って、たとえば「温かみのない母の身体」の「温かみのない」ということば、さらには「温かみ」ということばの手触りが、いつまでも私の「肉体」のなかに残っているに気がつく。「肉体」の「存在」を知らせる何かに触れている--その感じがいつまでも残っているのに気づく。
「肉体」に区切りがないように、「肉体」の運動にも区切りがない。あるいは区切りを超えて、そこに「ある」ものが「ある。「意味」は区切りを必要とするが、区切ってとらえたものは、そのときの便宜上の問題だな。句点「。」なんて、「うそ」だな。「頭」が自分自身を安心させるために作り上げた装置なんだなとわかってくる。そして、そういう「うそ」が幅をきかすから、「うそ」では処理できない「肉体」を逆に「認知症」と否定的にとりあつかうことで自分を守るんだろうなあ。
まあ、そういうことは、どうでもいいか。
だらだらと句点「。」なしにつづく文章を読んでいくと、文章のつづき具合というか、意味の動きというか、それはどうでもよくなるね。つづいていくこと(つづいていること)が大事なのであって、それがつづいているかぎり「生きている」ということがわかってくる。何が起きたかはわからなくても、つづいているということは「生きている」ということ、というのが「肉体」にわかってくる。前に書いたことと重複するが、「温かみ(のない)」というような修飾語(それがなくても何をしたかという「行為のエッセンス」は伝わることば、付随的なことば)のなかに、何か「肉体」のほんとうのつながりが隠れているのに気づく。つまり、「意味」だけをおっているとき除外してしまうもののなかに「ほんとう」があることに気づき、ぞくっとする。「意味」という要約からはみ出してしまうものに触れて、「肉体」が何かを感じる。
こうなってくると、母が首吊り自殺していたという「夢(うそ)」なんかは、その「意味」を押し流されて、「意味」を失い、「肉体」の「いきつづける」しつこさ、その力の不思議さを輝かせるものになる。「うそ」の方が死んでしまって、--というのも、それは「ことば」にすぎないからね、「うそ」とは無縁の「肉体」が未来を切り開いていく。つまり「いきる」ということで、時間をつくっていく。「うそ」は時間をつくらないが、「肉体」というの「ほんとう」は時間をつくって、「いま」をただ存在させる。「過去」も「未来」も「いま」のなかに引き込み、どっちへ向かおうと「いま(存在)」なのだと語ってくる。こういう「いま」の「ひろがり(拡大・増殖)」を書くには句点「。」は邪魔なのだ。いらないのだ。
ハイデガーは「投企」などという面倒くさいことを言ったが、わざわざ何かを投げ出して、そこへ向かわなくても「時間」は生まれ、育っていく。句点「。」なんかいらないのだ。「切断」なんか必要としないのだ、私たちの「肉体」は。
--と書けば、逆だろうという「声」が私のなかから聞こえてくる。「切断」したら「肉体」は生きてはいけない。句点「。」で切断するという「認識」のあり方、「頭」の整理の仕方が間違っているのだ、と何かが叫ぶ。区切らないこと、句点「。」を拒絶することが、「存在」そのものへの「投企」なのだ、と山本は言っているのだろう。
なるほど、と私は思う。
*
金子鉄夫「ナオコ(マトリックス体質)、キミのうんこ、うんこみたいだなあってうれしくなってロール、ロール!」はタイトルを読んでも何のことかわからない。作品そのものを読んでも、まあ、わからない。
発光、黴るコードひねりつぶしてジャンク、ジャンクなめまい、らんらん、らんらんに綱渡り脳、脱いでサワサワよろこびあふれるラブ、内実からさかしまに腫れて、腫れれば暴かれるトラウマちっくに作成された地図、その裏側で襞、ひだひだみだれて出会ってしまったナオコ(マトリックス体質)、キミは「痒いわぁ痒いわぁ」と赤味、帯びた疑問符アトピーを掻きむしりながら「歯も、歯もどこかへいっちゃったの奥歯からないの」って覗きこませた口腔内はdada, dadaの密林が騒ぐから侵入、すぐ侵入するナオコ
私がわかるのは、ここには句点「。」がないということ。それは山本の書いている詩と同じだが、句点「。」がなくても山本のことばには「肉体」にからんだ運動が一応、句点「。」らしきものを暗示したのに対し、金子のことばでは「肉体」が句点「。」を呼び寄せない。
そのかわり、おびただしい読点「、」があり、それは「肉体」そのものよりも、「呼吸」の感じを呼び覚ます。ちょっと簡略化していえば、金子のことばを読むとき、私の手足は動かない。けれど「呼吸」は動く。(山本のことばの場合、呼吸しているのを忘れる--意識しない。それは日常、私たちが「呼吸している」と意識せずに生きていることに似ている。)
金子のことばは「呼吸」を覚醒させる。「呼吸」しないと生きていけないということを思い出させる。
で、その「呼吸」って何?
「肉体」の外にある空気を「肉体」の内部に取り入れ、「肉体」の内部の汚れたものを「肉体」の外に出す--まあ、そんなことだね。
で、「肉体」の内部にある汚れたものって何?
考え方はいろいろあるだろうけれど、私は「肉体」がそれ自身で取り込んだもの以外と考えている。別なことばでいうと「頭」が「頭」のなかに取り込んだもろもろ。それが「肉体」を苦しめている--疎外している。だから、それをほうりだすのだ。捨て去るのだ。大声でわめいて、いらいらを発散するようなものだね。
大声でわめくとき、その「わめいたことば」にも意味があるかもしれないけれど、それ以上に「わめく」という「肉体」の運動によろこびというか、いきる力があるね。
「意味」などわからないけれど、金子の書いていることば、その読点「、」の呼吸をおっていくと、私にはそれが「肉体」につたわってくる。金子のことばを「頭」で共有することはできないが、呼吸を「肉体」で共有することはできる。
「ジャンク、ジャンク」「らんらん、らんらん」「腫れて、腫れれば」「襞、ひだひだ」「歯も、歯も」「dada, dada」「侵入、すぐ侵入」--しり取りをしながら、ことばが動いていく。ことばがことばを捨てていく。金子はことばを「獲得」するために書いているのではなく、捨てるために書いている。ことばを捨てる瞬間に、詩がある、のかもしれないなあ。
「内実」とか「作成された地図」というようなことばは、実際、捨てるしか使い道がないかもしれないなあ。引用の後の方に出てくるのだけれど「熱病」「胚胎」「存在論」「廃屋」「排出」「退屈」「標識」「網膜」「署名」「疵口」「増殖」「逆説」という、ああ、古くさい、60年代の詩のことばたち。「異化」というようなちょっと前のことばもあるけれど。それだって、古くさいなあ。
でも、いいさ。それを必死になって捨てる。まだことばになっていない何かを吸い込んで、「頭」が覚えていることばを捨てる。そのための、ひたすらの「呼吸」。「過呼吸」かな? あれは、苦しいらしい。だから「うんこ」というような、だれの「肉体」にも通じる「肉体」が「覚えている」ことばをときどきは思い出しながら、「呼吸」を「息」にかえる。
そういう「肉体(思想)」が、ここにはあるのかもしれないなあ。私がついていけるのは、まあその「呼吸」が「呼吸」であるということくらいなのだけれど。
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