詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沖縄知事選の報道

2018-10-01 11:35:50 | 自民党憲法改正草案を読む
沖縄知事選の報道
             自民党憲法改正草案を読む/番外233(情報の読み方)

 きのう(09月30日)の夜、私はフェイスブックで、こんな文章を書いた。

選挙報道は、各マスコミとも必死になって「結果」を速報しようとする。
各報道機関の「調査能力」をアピールするのに効果的だからである。
早く「当確」報道ができるのは、常日頃の取材が正確だからである。
通常の選挙ではNHKは真っ先に「当確」を報道している。
しかし、沖縄知事選では、出遅れた。
好意的に受け止めれば、台風報道を優先した、ということになるが、台風報道をしながら「字幕」で「当確」という報道をしたとしても、何ら、台風情報の妨げにはならない。
しかし、9時半過ぎ(だったと思う)まで報道しなかった。
これは、極めて異例なことだと思う。
どう報道するか、どういうコメントを放送するか、そのシナリオ書きに忙しかったのかもしれない。
つまり、予想を超える玉城の圧勝だったのだ。
想定外だったのだ。

これは何を意味するか。

言わずもがなだけれど、安倍政権への「打撃」を配慮しているのだ。
「事実」をいち早く「事実」として報道することをNHKは放棄している。
「脚色された事実」で世論を誘導しようとしている。

あすの各紙の報道を点検しないといけない。

 で、きょうの新聞。私の家の近くのコンビニには毎日新聞がなかったので、朝日新聞と読売新聞だけを読んだ。(ともに西部版・14版)。朝日新聞、読売新聞の順にの見出しを引用すると。

辺野古反対 玉城氏当選/沖縄知事選
政権支援の佐喜真氏破る/「オール沖縄」翁長氏後継
政権へ不信 工事に影響も

沖縄知事に玉城氏
辺野古反対を継承/与党支援の佐喜真氏破る

 読売新聞は同じ一面に宜野湾市長選の結果も掲載している。その見出しは

宜野湾市長は与党系/松川氏初当選

 朝日新聞は、宜野湾市長選は社会面に掲載されている。
 見出しを読む限り、特に「疑問」もないのだが、記事を読んでいくと、こんな部分が出てくる。読売新聞の「前文」である。

玉城氏は知事選での過去最多の得票となった。

 しかし、これは見出しにはとられていない。なぜだろうか。(朝日新聞には、記事もない。読み落としかもしれないが。)読売新聞は3面の「スキャナー」という分析記事で「沖縄県知事選の主な候補者と勝敗」というグラフを載せている。1998年から2014年までの得票が書かれている。それによると、これまでの最高は1998年に稲嶺が獲得した「37万4833票」。前回の翁長は「36万820 票」。そして、今回玉城が獲得したのは「39万6632票」だった。これに対して佐喜真は「31万6458票」。
 選挙の勝敗は「票差」で見ると、「圧勝」というわけではない。前回の翁長は仲井真に「10万票差」をつけている。その差に比較すると「圧勝」という感じはしないかもしれない。しかし、「圧勝」と呼ぶべきだろう。それまでの知事が獲得できなかった票を獲得して当選したのだから。

 で、ここから思うのだが。
 事前に掲載された各紙の情勢分析では、各紙とも「玉城、佐喜真」の順で見出しを取っていた。均衡しているように見えるが、玉城が有利だと匂わせていた。でも、それは「均衡」「接戦」という感じではなかったのではないか。もしかすると、その段階で「圧勝」するということがわかっていたのではないか。
 その調査結果と、選挙当日の「出口調査」が一致した(あるいは、それを上回った)からこそ、朝日新聞は、午後8時の開票直後に、「玉城当確」とネット報道した。
 なぜ事前の情勢分析(世論調査分析)で「玉城が大きくリードしている」という見出しをとらなかったのか。
 私は「妄想」する。
 もしかすると、「玉城圧勝の勢い」というような見出しにしてしまうと、宜野湾市長選に影響する。辺野古反対の玉城が圧勝するのなら、宜野湾市長にも野党候補の仲西に投票しようと思う人が出るかもしれない。知事と市長が足並みをそろえて反対すれば、状況がかわるかもしれない。沖縄が、政府に対して完勝し、沖縄の要求をいままで以上に強くつきつけることができるかもしれない。そう想像する人が、雪崩をうつように仲西に投票するかもしれない。それを阻止しようとしたのではないか。ある種の「情報操作」が行われたのではないか。
 人はかならずしも「信念」で行動するわけではない。まわりの状況を見ながら、どうするかを決める。だから、「報道」というものは大事になる。

 で、ここからもう一歩進めて、私は、こう考える。「政権支援の佐喜真氏破る」「与党支援の佐喜真氏破る」という見出しの代わりに、

知事選で過去最多の得票

 これを大きな活字で見出しにとったとき、読者はどう思うだろうか。沖縄県民は、今まで以上に「辺野古反対」に向けて意思表示をした、ということが鮮明になるのではないだろうか。いま、沖縄県民は政府に対して怒っている、その怒りは「過去最多(過去最大)」のものである、ということが伝わらないか。そして、その怒りは、政府にだけ向けられているのではなく、私たちすべての国民に向けられていると感じないだろうか。
 「政権へ不信 工事に影響も」というような「ひとごと」の見出しではなく、もっと、沖縄県民に寄り添った見出しが必要な日ではなかったのか。そういう「報道」が必要だったのではないか。

知事選で過去最多の得票

 これが見出しにない新聞は、沖縄県民に冷たい。それは同時に、日本国民に冷たいということだと、私は考えている。国民に何困ったことが起きても、国民が団結して何かを訴えても、それには知らん顔をして政権に寄り添うのではないか。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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永井章子『出口という場処へ』

2018-10-01 10:25:06 | 詩集
永井章子『出口という場処へ』(澪標、2018年09月30日発行)

 永井章子『出口という場処へ』には「出口」ということばがたくさん出てくる。どこかに入り込んでしまう。そして出口がわからなくなる。たとえば「手を浸すと」では美術館に入り、青い色にみとれているうちに閉館を告げられるが、「出口」がわからなくなる。若い女が「ついて来てください」と言う。
 でも、永井がほんとうに迷い込んだのは「美術館」ではなく、一枚の絵、「青い色」なのだ。だから、

後ろをついて歩きながら
思い切ってたずねる
「青色についての説明はないのですね?」

 「出口」は「場所」であるかもしれないけれど、それよりも「出て行く」という動詞の「方法」なのだ。永井のなかに「道」ができない限り、永井は出て行くことはできない。何から? 「青い色」? 青い色に染まってしまった彼女自身から?
 「橋を渡って」には、こんな行がある。

それまでの私は 前に進むために いつも出口を探していました とにか
く ここから出なければ 何も始まらない そんなことばかり思ったもの
でした

 「出口」は「前に進む」と言い換えられている。
 でも、人間は、そんなに簡単には「前に進む」ということができない。こころがどっぷりとつかってしまったものからは、簡単には「出て行けない」。何かに入り込む(どっぷりとつかりこむ)ということは「道」を失うことだから。
 もし、「出口」が見つかり、そこから永井が出て行ったとき、取り残された「青い色」はどうなるのだろうか。「前に進み」ながら、きっと永井は、こんどはそれが気になるはずである。もし、出てしまったら(前に進んでしまったら)、あのときの「私(あるいは青い色)」はどこにいるのだろう。
 こんなことを考えてしまうのは、「待っています」を読んだからかもしれない。

あなたは きれいな蝶をもっている
私がまだ若い 気の遠くなるほど昔のこと 僧形をした人に言われました
たしか 出口と書かれたすぐ側で だったように思います

 この「出口」は「駅の出口」なのだが……。
 駅の出口に来ながら、永井は「蝶のための出口」を探している。蝶は永井のからだのなかにいる。僧形の人に言われたときから、永井のからだのなかにいる。いつのまに入り込んだのか、あるいはいつのまに生まれたのか、永井にはわからない。
 蝶を「詩」の比喩と読むこともできる。美しいなにか。飛んで行くことを願っているなにか。でも、蝶は、それを永井に訴えかけてこない。「ここから出して」「出口はどこ」とは言わない。言わないけれど、そのことが逆に永井を突き動かす。永井は知らず知らずに蝶になって「出口はどこ」と言ってしまう。

あなたは きれいな蝶を持っている
それからは 手隙の時 その文言が浮かぶようになったのです
あなたは きれいな蝶を持っている
浮かぶと 我慢できずに駅の出口に来てしまいます
今も 出口と書かれた下に立っています

 まるで「出口」ということばがあれば、それを目指して蝶が永井の中から跳びだしてくる(逃れてくる)と思っているみたいだ。
 きっと永井は、自分が持っていると言われた蝶を見てみたいのだ。その「蝶」が飛んでゆく「道」を知りたいのだ。あるいは、「蝶」そのものになりたいのだ。自分から出て行き、自由に飛び回る「蝶」に。
 自分のために「出口」をさがすのではなく、蝶のために「出口」と「道」を探している。そして、それこそが自分のためでもある。「蝶」になるただひとつの方法である。

 ここから「手を浸すと」にもどってみる。
 永井は「青い色」を見た。見ることによって、「青い色」は永井をつつみこみ、また永井のなかにも入ってきた。内と外の区別がなくなった。「出口」も「入り口」もない。でも、もし、その永井のなかに入ってきた「青い色」が、もう一度永井の外に出たとしたら、それはどんな色になっているだろうか。
 わからない。

 うーん。
 永井の詩を、私はそんなに注意深く読んでいるわけではない。だから、「カン」で言うしかないのだが、永井は何か「哲学的」なことを、彼女自身のことばで語ろうとしている。多くの詩人は、西洋哲学(西洋思想)のことばを借りてきて「思想」を粉飾するが、永井は彼女の知っていることばだけを手がかりに考え、ことばを動かそうとしている。
 「出口」「前に進む(道をつくる)」「(なかに)持っている」。それを丁寧に見つめようとしている。
 私は「補助線」として「道」という東洋哲学のことばをつかったが、永井は、そういうことばにも頼らず、永井が「肉体」でつかんできたことばだけをつかっている。







*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(85)

2018-10-01 08:07:02 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
85 記憶

 猫はエジプト文明とともに人間のそばにいるようになった、と高橋は書いている。そして、こうつづける。

寄り集まってくる背中や首の 喜び逆立つ毛並を
歴史をいつくしむ手つきで 弱く 強く 撫でる
この感触をこの毛たちは いつまで憶えていようか
私の手のひらや 指のはらは 憶えて忘れないだろう

 「この毛たちは いつまで憶えていようか」に驚いた。
 「手のひらや 指のはらは 憶えて」いる、ということばのつかい方をするから、猫の毛が何かを覚えている、というのは「論理的」には成り立つ。ことばの運動としては、ありうる。
 この「論理」を読めばわかるが、私自身のことばを動かして、こういう運動ができるかといえば、私には「できない」というしかない。だから驚いた。私は(私のことばは)こんなふうには動かない。
 猫の目は、猫の手(脚)は、猫の舌は、あるものを覚えている、というのなら、私のことばも動くだろう。目、手、舌が動くとき、「肉体」のなかに動くものがある。それと同様なことが猫にも起きるだろうと、想像する。これは猫と「一体」になるということだ。
 で、ここから逆に考えるのだが。
 私の「毛」は何かを覚えているだろうか。私の「毛」は何も覚えていない。「毛」のなかには「感覚」がない。だから切られても痛くない。
 猫の「この毛たちは いつまで憶えていようか」に驚いたのは、猫に理由があるのではなく、「毛」に理由がある、ということになる。

 うーん。
 高橋は猫について考えるとき、「猫の毛」とまで「一体」になる。そして、その「一体感」は高橋の「毛」にまで影響を及ぼし、「毛」も何かを憶える(感じを記憶する)ものとしてとらえなおされている。
 高橋の猫への「一体感」は、それほど強い。

 人間には「猫派」と「犬派」がいるという。高橋は、完全な「猫派」なのだろう。
 犬について書くときは「文学」を利用して「ことば」のなかだけに閉じこもるのに、猫について書くときは「肉体」全部を使い、さらにふつうの人間が無感覚の領域にまで猫の感覚を広げていく。猫が高橋に乗り移り、猫そのものになる。
 高橋はかつて猫だったことがあるのかもしれない。

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