詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「追伸 平成へ」

2018-10-06 10:38:43 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「追伸 平成へ」(読売新聞、2018年10月06日朝刊)

 北川透「追伸 平成へ」は読売新聞の「連載企画」。インタビューを再構成したものである。このなかで、北川は、

詩がわからなくなってしまった--。これが平成の詩の問題です。

 と言っている。(聞き手・右田和孝)
 「平成」については、こんな具合に定義している。

 平成という時代は、明治、大正、昭和と比べて、あらゆる境界が曖昧になってしまったのです。(略)重大な出来事は、平成3年(1991年)12月のソ連崩壊です。旧来の枠組み、秩序が崩れてしまいました。

 ほんとうか。
 北川は「明治、大正、昭和と比べて」と書いているが、ほんとうに比べているか。私は歴史が苦手(大嫌い)で、よくわからないのだが、ソ連が崩壊し、旧来の枠組みが崩れたのなら、ソ連が誕生したときにも旧来の枠組みが崩れたのではないのか。そのとき、「詩がわからなくなった」か。あるいはソ連が成立することで、それまでわからなかった詩がわかるようになったのか。それを「比べて」みないと、簡単に「ソ連崩壊」を詩のわからなさの原因にはできないだろうと思う。

 詩がわからなくなってしまった--。これが平成の詩の問題です。国家とか、イデオロギーとか、ものごとの枠組みが崩れると、そういうものが作っている物語も同時に崩壊してしまいます。すると、色んなものが断片化し、それまではあたりまえにつながっていた文脈がつながらなくなります。

 「枠組み」は「物語」と言いなおされ、さらに「文脈」と言いなおされている。北川は、このとき「枠組み(物語)」を出発点として、「物語」が崩壊するから「文脈」がつながらなくなる、と言っている。
 私は、この視点には疑問を持っている。
 「文脈」が「物語」をつくることがあっても、「物語」が「文脈」をつくることはないと思う。「文脈」にしたがって「物語」ができる。「文体」と言ってもいい。ソ連を生み出した原動力のマルクスにしても、金の動きを記述するという「文体」が社会の構造を明らかにし、それが「思想(枠組み/物語)」を生み出したのだと思う。(私はマルクスを読んでいないので、まあ、カンでそういうだけなのだが。)

 それまでは、一つの枠組みの中での体験をもとにして、表現がなされてきました。高度な暗喩が駆使されていても、そのもとにはどういう体験があるのか、考えれば想像ができたわけです。戦争体験とか、安保闘争とか。

 これは、北川の「読み方」を語っているけれど、それをもとに「詩がわからなくなってしまった--。これが平成の詩の問題です」というのは、乱暴すぎると思う。さらにそれを「ソ連の崩壊」と結びつけるのは、私には納得できない。
 このインタビュー記事では、北川は最果タヒ、三角みづ紀を取り上げて批評している。彼女たちが何歳か知らないが、どう考えても「戦争体験」「安保闘争体験」とは無縁のひとたちである。彼女たちは「ソ連の崩壊」を「実感」として受け止めたかどうかわからないが(受け止めることができる年齢だったかどうかわからないが)、「ソ連崩壊」と「戦争体験」「安保闘争」を結びつけて考えたとは思えない。つまり、彼女たちは、最初から北川とは違った「物語(枠組み)/現実」を生きている。
 北川にとっては「枠組み(物語)」は崩れてしまったかもしれないが、彼女たちにとっては、「北川の想定している枠組み(物語)=崩壊する物語」など存在しない。出発点が、北川と最果、三角では違っている。このことを見落としていないか。


 物語が壊れ、体験自体が問題にならなくなると、それまでは読み解くことができていたものが、読み解けなくなってしまいました。

 こういう「抽象表現」は「具体的」に読み直す必要がある。ことばを補ってみる。

 「ソ連という物語」が壊れ、「戦争体験」「安保闘争体験」自体が問題にならなくなると、それまでは読み解くことができていたものが、読み解けなくなってしまいました。

 具体的に読み直すと、ここから「一般論」を引き出すことにはむりがあることがわかる。「戦争体験」「安保闘争体験」を、若い詩人たちは「体験」していない。「体験」していないことを、「体験」しているように「物語(枠組み)」の基礎にすることはできない。「壊れた」と北川は感じるかもしれないが、若い世代には、それは最初から存在していなかった。
 北川は、いま「物語は崩壊したという物語」のなかで、詩を見つめていないか。「戦争体験」「安保闘争体験」を、忘れてはならない「物語」として引き継ぐというのなら別の問題になるが、そうではないのなら、「戦争体験」「安保闘争体験」を「物語」と定義することには無理がある。現実からあまりにも離れてしまっている。「ソ連崩壊体験」は「戦争体験」「安保闘争体験」に比べれば、いささか「近い」がそれにしたって、遠い。

 「物語」が崩壊して、どうなったか。

「未知」の出現です。その未知を批評がどう解くか、向き合わなければならないわけだけれども、批評が受け止めることができなくなってしまいました。「批評の不在」です。批評が書かれなければ、詩だけでは、詩は伝わらない。

 私は、この部分にも疑問を持っている。「未知」はいつでも存在する。「未知」ということばではないが、たとえば谷川俊太郎は「未生」ということばを頻繁につかう。まだ生まれていない。それは「未知」以前でもある。それを「生み出す」のが詩。そうであるなら、詩はいつの時代も「未知」である。「物語(枠組み)」からはみだしている。
 「物語(枠組み)」を壊して動いていくのが詩である、と定義することもできる。
 そうであるなら「物語(枠組み)」という視点から批評することは、詩の否定であり、批評にはなり得ないだろう。それでは詩を「物語」のなかに封印してしまうことになる。北川がどういうことばの動きを「批評」と定義しているか、今回のインタビューからはつかみきれないが、私は、納得がゆかない。
 批評もまた、あらゆる「物語」からことばを解放するものでないといけない。詩以上に「物語」から自由でないといけない。「既成の枠組み」を壊していくものだけが「芸術」というものだろう。
 また、批評がどうであれ、詩は勝手に生きていく。最果タヒの詩は映画にもなれば、ベストセラーにもなっている。批評が「不在」なのではなく、批評が詩に追いついていっていないだけだと私は思っている。いつだって批評というのは、詩を追いかけるだけのものだけれど。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(90)

2018-10-06 08:55:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
90 冥界と楽土

天国の豪奢も 地獄の酸鼻も 彼らが声高に歌うことはなかった

 と、この詩は始まる。
 私が読んだ古典は限られている。私は「天国の豪奢も 地獄の酸鼻も」読んだ記憶がない。
 ギリシア人にとっては「現実(いま)」だけが存在するのかもしれない。
 「いま」と「論理」。あるいは「いま」を明確に知るための「集中力」がギリシアの特徴で、「あの世」には関心がないのかもしれない。
 もっともこれは、私が「あの世」に関心がないから、ギリシア人の書いた「あの世」を読みとばしているのかもしれない。

ときに声低く語ったのは 無色の冥界 そして 音のない楽土
生前と死後を天秤に掛けて 嚇かすことは本意ではなかった

 高橋のことばを読んでも、私は何も思い出せない。
 そして、「無色」と書いたのなら、どうして「無音」ではなく「音のない」ということばになるのかなあ、と思ったりする。「音のない」と書くのなら「色のない」と書いた方が「対句」になると思うのだが、という変なことを考えたりする。
 その一方で「生前」と「死後」というのは、きっちりとした「対句」だなあ。

 「きっちりとした対句」と書いたが、私は、この二つのことばの向き合い方に、奇妙なものを感じる。私の「実感」が、ぜんぜん動かない。
 私は「生前」ということばをつかうとき、「死後」を思い浮かべたことがない。
 「死後」ではなく、「死」を思うときに「生前」ということばが出てくる。「死んで、その人がいまここにいない」と感じるときに、「生前」、生きていた以前は、という具合にその人を思う。死んだそのあと、その人がどうしているか、考えたことがない。
 「死後」というのは、他人に対しては思わない。自分が死んだら、そのあとどうなるか、と考えないでもないが、人が死んだら、その人がどうなるか、私は考えたことがない。他人について考えるときは、いつも「生きている他人」だ。

 うーん。詩の感想にならない。高橋自身が「冥界と楽土」をどうとらえているか、それがわからない。




つい昨日のこと 私のギリシア
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