詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎『名井島』(2)

2018-10-18 09:44:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
時里二郎『名井島』(2)(思潮社、2018年09月25日発行)

 「夏庭2」の最後の部分。「この稿は、わたしの語ったことを庭師がタイピングしたものである。」ということばがある。

 わたしの話したように、庭師は写しとっていないかもしれない。しかし仮に、
庭師がわたしの語った内容とはまるきり違ったことを口述筆記として記したと
しても、わたしは庭師の書き得たことばの方に、より近いわたしがいると思っ
ている。

 「わたし」は「わたし」よりも、「他者(庭師)」のことばのなかにいる。「他者」が判断した「わたし」の方が「わたし」に近い。鏡の中の「わたし」の方が「わたし」に近いというのに似ている。
 昔、巨人の原辰徳が「この鏡、よく映るなあ」と言ったとか。「実物」よりも「鏡」の方がいい男だ、という意味である。「理想(?)」の姿を映しだす鏡くらいの意味だろうか。
 これに似た感覚だろうか。いや、逆かな?
 「わたし」が思っている「わたし」よりも、「他者」が思っている「わたし」の方が、「わたし」の主観が入らないだけに、「わたし」という客観に近い。
 だが、客観が正しい、主観が間違っている、とは簡単には言い切れない。
 「より近いわたしがいると思っている。」と書いてある。「思う」は主観であって、客観ではないからだ。

 こういうことを書いていると「うるさい」。
 「うるさい」のだけれど、これを「うるさい」ではなく、「精密」、ゆえに「精緻」、ゆえに「静謐」という感じにしてしまうのが、時里の「文体」である。
 その特徴は、

わたしの話したように、庭師は写しとっていないかもしれない。

 に端的にあらわれている。「ない」という「否定」がことばを押さえつける。「写しとっていない」「かもしれない」。「ない」は繰り返される。あらゆるところに「ない」が潜んでいて、ことばの暴走を阻むのだ。
 「この稿は、わたしの語ったことを庭師がタイピングしたものである。」と書き始めた直前の段落でも、そのことばは、こう引き継がれる。

                                本当は
庭師の書き上げたものをわたしが目を通して、わたしの文章として認証すると
いう手続きが必要であろうが、それはやらない。

 「やらない」ということば、「ない」と断定することで、それまでの「事実(?)」を否定してしまう。
 「否定」のあとに何が残るか。
 「ことば」が残る。ことばが「動いた」という「痕跡」がのこる。「動き」は消えることで、そこに存在する。「ない」が「ある」に変わるのだ。
 この瞬間、私たちの読んでいるのは、詩なのか、哲学なのかという疑問がふっと浮かぶ。

 だから。

 ほんとうは、ここから「さわがしくなる」というのが理想なのだが、あまりさわがしくならない。「知的」なことばの運動に対してきちんと向き合うというのはなかなか面倒なので、面倒になる前に、読者がことばを動かすのをやめてしまうんだろうなあ。「精緻、静謐な文体」と批評することで、感想を中断してしまうんだろうなあ。
 「より近いわたしがいると思っている。」の「思っている」という工程は、「ない」が「ある」と断定できる根拠になるのか。「思っている」だけ(主観)なのではないかと、さらに踏み込むということはしなくなってしまうんだろうなあ。
 という私も、半分以上、「中断」に足を踏み入れているんだけれど。






















*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(102)

2018-10-18 08:43:43 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
102  記憶こそ

どうして抱かなかったのだろう ほんの少し勇気を出して
ベッドに腰掛けたぼくに腿を接して きみが腰掛けたのに
けれど 抱かなかったことで きみはその時の年齢のまま
そして きみと並んだぼくの年齢も きみのそれにあやかる

 詩はあと二行続いているが、ここまでで十分だと思う。
 いや、最初の三行だけの方が魅力的だったかもしれない。

 三、四行目は、「けれど」「そして」と動いていく。それは「事実」の描写だけれど、同時に「論理」を誘っている。
 あとの二行は、「論理」にしたがって「結論」を出す。「結論」を「こそ」ということばで強調しているのだが、「結論」の強調はつまらない。
 思い出すことができるなら、それは抱く、抱かないとは関係なく、「肉体」に刻み込まれているのだから、セックスではないのか、と私は思う。
 もしかすると、抱くことよりも抱かないことの方が勇気がいるかもしれない。
 そのとき、こころが、いつもより激しく動いていたのではないか。
 肉体が動けば、肉体がこころよりも優先される。こころは一瞬、忘れ去られる。でも、高橋はそのとき、こころの動きの方を大事にしたのではないのか。ためらう瞬間の苦しみを大事にしたのではない。--私は、そんなことを想像する。
 きっと葛藤があったのだと思う。
 それは「結論」とは関係なく、いつでも美しい。
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