詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「還元」にだまされるな

2018-10-20 09:59:54 | 自民党憲法改正草案を読む
「還元」にだまされるな
             自民党憲法改正草案を読む/番外242(情報の読み方)

 2018年10月19日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面。

消費増税 全商品で2%還元 検討/経産・財務省 中小店で決済分

 これだけ読むと、消費者に配慮しているように見えるが、どうかなあ。対象者は「現金をつかわないキャッシュレス決済を利用した人」だけだ。さらに「還元対策のポイント」を読むと、最後にこう書いてある。

実施期間は2019年10月から最大1年

 つまり、1年間は「還元」があるけれど、あとはしない。「最大1年」だから、「半年」かもしれないし、「1か月」かもしれない。改憲論議とおなじで、最後まで読まない人には、「よいこと」だけがおこなわれるように見える。
 それに、この「還元」の仕組みが奇怪である。

キャッシュレス決済をした消費者に、増税分と同じ2%のポイントをカード会社を通じて付与し、次回以降の買い物で使える仕組みづくりを進めている。

 「仕組みづくりを進めている」と既定事実になっているのもすごいが、なんといっても不気味なのは、近所の果物屋でキャッシュレスでリンゴを買う。そういう「こまかな日常」まで政府に監視されてしまう。どこの商店を利用したかをチェックすれば、個人の行動範囲までわかってしまう。商店が還元するのではなく、国が還元するのだから、金の流れは国が把握する。「だれそれはうどんは食べるが、そばは食べない。カツ丼を食べるときはかならずビールを飲む」というようなことも監視されるかもしれない。レシート(金の明細)は細分化されているからね。還元された2%で何を買ったかまで、そのうちに細かく解析されるということも監視されるようになるかもしれない。2%還元を名目にした、監視システムの始まりだ。
 1年後には還元がなくなるから、監視もなくなる、と言えるかどうか。これも微妙だなあ。いちどつくってしまったシステムを簡単に放棄するはずがない。だいたい、もし期限が1年間だとして、そのシステムをつくり、運用するのにかかる費用は? その計算は、だれかがきちんとするのかな? 国の(安倍の)利益にならないことを、安倍がわざわざやるかな?
 商店にとってはどうなのかなあ。キャッシュレス化してしまえば(そして、そのシステムを利用すれば)、日々の会計は簡単になるだろうなあ。でも、同時に、すべてをシステムをつくった人(国)に監視されることになる。売り上げが完全に把握されてしまう。確定申告なんかしなくても、税金が計算されて、国から請求書が来るということになるだろうなあ。
 これは国の機関で働く人(公務員)の仕事を確保することであり、同時に税金をしっかり課税するということだね。商店の「節税」がとても難しくなるぞ。まあ、私は商店を経営しているわけではないから、あれこれ気にする必要がないのかもしれないが、監視が強くなることだけはたしかだろうなあ。
 国にそんなことを調べている余裕はない、というかもしれないけれど。どうだろう。調べようとすればいつでも調べられるというシステムが存在することが問題なのだ。そして、そういうシステムがあるかぎり、システム自体を監視する「公務員」が必要になる。国は、国に忠実な人間を確保(雇用)するために、そのシステムをさらに拡大するということも考えられる。
 いまはネットで買い物をすると関連商品を紹介するメールが届いたりするが、これが中小の小売店まで拡大されるなあ。そんなことをしていたら「利益」が出ないと思うかもしれないが、そういうことをしないと淘汰されて、「利益」がでないどころのさわぎではない。システムというのは、いつでも「暴走」することしかしらないものだ。国は(安倍は)、商店さえも選別する。気に食わない商店を排除する方向に動き始めた、ということだな。「あんな商店つぶしてしまえ、自民党に献金する大企業だけにしてしまえ」という作戦かもしれない。

 2%還元システムを利用している店では、ものを買ってはいけない。このシステムを成立させてはいけない、と私は思う。
 1年間の運用なのに、1年かけて準備するには、1年だけの運用ではない何かたくまれていると考える必要がある。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(104)

2018-10-20 08:48:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
104  目

 目は、死んだらどうなるのか。火葬されたあと、目はどうなるのか。

向いあう長箸により 熱い骨が砕かれ 挟まれあうとき
生前 存在の中心にあった目は もはやどこにもない

 この「ない」に、私は、ぞっとした。
 火葬後に骨を拾うということを、私も何度かしたことがあるが、そのとき私が見ているのは骨である。ほかのものは見ない。つまり、目がどこにあるかなど考えたことがない。だから、ぞっとした。
 このあと「かの人は目の人だった」ということばが出てくるが、「かの人」よりも、この詩を書いている高橋の方が、はるかに「目の人」なのだと思う。
 いったい、何を見ているのか。高橋にとって「目」とは何か。「かの人」に託す形で書いている。目は……。

ただし 見られるもののいのちを吸いとる 怖しい穴だった と

 高橋も、見ることで「他者」のいのちを吸い取っているのだろうと思う。
 この詩は「いくつもの夏 いくつもの若い裸の腿」という行で始まっている。いわばセックスを書いているのだが、私には高橋の書いているセックスがまったくセックスとして感じられない。高橋が「目」でとらえ、それを「ことば」にしたあとは、その「肉体」(若い裸)からは、いのちが吸い取られてしまっているのだろう。そこにあるのは、いのちを吸い取られた「脱け殻」にすぎない。いや、「脱け殻」ですらない。

穴なら死後も在り 未来も 永遠に在りつづけるだろう
在りつづけて 無をさえ 空をさえ 吸いつづけるだろう

 高橋が「目」でセックスした相手は、「無/空」なる。「無/空」と書くと、東洋の豊かな「いのち以前」を想像させるが、高橋の書いているのは豊かさとは無縁の「無/空」である。
 ギリシアの哲学者が発見した「ない」があるというときの「ない」である。

 私は高橋に一度だけあったことがある。そのときのことを思い出した。想像はしていたが、やはりぞっとした。「死のにおい」を通り越して、それが「ある」ことは理解できるが、絶対に体験できない「死」そのものが生きているという感じ。いつも「死」と交流していると感じた。高橋にとっては、「死」は「ある」ものなのだ。


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estoy loco por espana (番外14)半分の月(Joaquin Llorens Santaに)

2018-10-20 08:25:21 | estoy loco por espana


半分の月(Joaquin Llorens Santaに)

私は知っている、
きみのひざの奥に半分の月がある
ときどき君に呼びかける。
きみにしか聞こえない声で、

私は知っている、
きみのひざの奥に隠れた半分の月。
影を探して悲しむきみの騎士。
光につつまれて孤立するきみの騎士。

私は知っている、
きみのひざの奥の半分の月の痛み。
満ちることはない、
欠けることはない、
きみがきのう泣いたことを。


(この作品は「騎士」のように見える。月の光の中に立っている。そのため、顔が月の形をしている。ホアキンは、膝の中に「半月板」の痛みを抱えているので、それが月の顔になって出てくるのだ。)

(Traduccionando por google.)


Media luna (a joaquin llorens santa)

yo lo se
que hay media luna en la parte de atras de tu rodilla.
que a veces te llama la luna.
que con una voz que solo suena como tu,

yo lo se
que una media luna escondida detras de tu rodilla.
que tu caballero buscando una sombra y se aflige.
que tu caballero aislando por la luz.

yo lo se
que dolor en la parte posterior de la rodilla.
que nunca llenara.
que nunca faltara,
que lloraste ayer.


(este trabajo parece un "caballero". el da pie a la luz de la luna, la cara tiene la forma de una luna.
Joaquín tiene el dolor de "menisco" en la rodilla. pues sale la luna en su cara.)







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