詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』

2018-10-17 20:12:19 | 詩集
暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(港の人、2018年10月17日発行)

 詩集を読んでいて、ある一行のために、そのあとの詩を読めなくなるときがある。
 暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』の「月と乗客」。そのなかに、

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね

 という行がある。たとえば、この行が、そのあとの詩を読めなくさせる。印象が強烈で、次の詩は読めども読めども、頭に入ってこない。
 こういう行に出会ったとき、あ、この行を中心に詩集を読んでみたいと思う。この行が詩集の「キーライン」にならないだろうか、と「予測」してしまう。私のなかで、一種の「偏見」というか、偏った見方ができてしまう。それが邪魔するのである。
 で、私は、詩集を少しだけ読んで、やめた。
 まず、この行について書いてしまおう。

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね

 宮沢賢治を思い出す。しかし、思い出すといっても、宮沢賢治に類似した行(ことば)があるかどうか、私にはわからない。私は宮沢賢治の熱心な読者ではないからだ。かつて読んだことがあるというだけだ。でも感じるのだ。あ、宮沢賢治だ、と。
 どこにか。
 「散らばりました」、「散らばる」という動詞に、宮沢賢治を感じる。
 たとえば、この行が、

私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね

あるいは

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に溶けましたね

 なら、私は宮沢賢治を思い出さない。もっと違う詩人を思い出す。連想する。たとえば萩原朔太郎。「ゆるゆる」とみさかいなく動いていく感じ。
 なぜ「散らばる」が宮沢賢治なのか。「散らばる」には「硬質」な印象がある。硬い。硬いものは「散らばる」とき砕ける。砕けながら、きらきらと広がる。硬いのに、流動というか、自在に変化する。硬いまま、動いていく。「きらきら」と思わず書いてしまうのは、「散らばる」とき、私は「反射」を見ているからだ。
 これが、私の感覚では、宮沢賢治である。

 で。

 かなり書いていることが入り乱れるのだが、実は「輪郭が溶ける」という表現を暁方は、この詩で書いている。

私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね

 は、「輪郭が溶ける」を言いなおしたものなのだ。
 だからこそ、私は、驚き、立ち止まり、この行しか読めなくなる。
 最初から引用し直そう。

ビリジアンを刷きつけた山肌が
暮れかかり
より一層、迫ってくると
月明かりでざわつく樹冠のからす
いよいよ大きな
熟れた虹雲があたり全部を呼吸する
紙っぺらになったひとびとは
急行列車のあかるい窓を
しかくくストロボのように動きまわり
ぎこちない仕草で座ったり立ったり
車内では蛍光灯のじりじりした
輪郭が滴って溶けている
けれどもひとびとは
乗客のなかに引きこもっているから
けして
私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね
などと思いもよらない

 最初は「人(私)」の輪郭ではなく、蛍光灯の輪郭なのだが、それが「私の輪郭」と言いなおされたとき「散らばる」。
 これは、すごいなあ。
 「蛍光灯のじりじりした(光)」というのも宮沢賢治っぽいが、それは宮沢賢治っぽいにすぎない。そのまえの「しかくくストロボのように動きまわり」も、「しかくく(硬質、硬いもの)」が「動き回る(流動する)」が宮沢賢治っぽい。そういう宮沢賢治っぽいものを通りすぎて、宮沢賢治を超えてしまう。
 宮沢賢治っぽい、ではなくて、宮沢賢治そのものが、そこで動いている。宮沢賢治が書いたなら、きっとこうなるだろう、という感じで、そこにことばが動いている。暁方は、宮沢賢治になってしまっている。いや、宮沢賢治を、いま、ここに「生み出している」という感じ。宮沢賢治になって、生まれてきていると言いなおすこともできる。

 心底だれかを好きになって、そのひとになってしまう。そのひとを超えて、存在しなかったそのひとを生み出していく。
 誰かを愛するとは、自分がどうなってもかまわないと覚悟して、そのひとについていくことだが、ついていっているうちに逆に、そのひとをリードして、そのひとが到達したことのないところまでそのひとを連れて行く。未知の世界に、そのひとを生み出してしまう。

 うーん。

 詩は続いている。

(そして山々は一層よるのなか
電車と窓とお月様だけが
切り取られたあやうい
まっきいろな
狭小時間の高密度な額縁だなんてこと
まさか月も乗客も
わかっているまい)

 ちょっと「童話」風に終わる。そのなかに「高密度」ということばがある。
 私が感じたのは、暁方の「肉体」のなかで、宮沢賢治が「高密度」になりすぎて、砕け散り(散らばり)、その散らばったひとつひとつの「断片」が、ひとつずつ新しい宮沢賢治になって成長していく(拡大している)、その「瞬間」というものかもしれない。

 私の「感想」は「論理」になっていないかもしれない。
 たぶん、暁方の強烈なことばの力に酔ってしまって、私は考えることができなくなっている。だから、他の詩も、きょうは読むことができない。
 きょうは、この一行を読んだ。
 それだけで十分な一日である。







紫雲天気、嗅ぎ回る 岩手歩行詩篇
クリエーター情報なし
港の人



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(101)

2018-10-17 07:51:24 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
101  記憶とまぼろし

いったい いくたびの抑えた息づかい 睦言が
指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたことか
いまでは それらの顔も名も 思い出せない

 でも、「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」は覚えている。「肉体」の不思議さ。「肉体」は味わったことを忘れることができない。顔も名前も思い出せないからこそ、逆に「肉体」が覚えていることが、高橋を突き動かす。
 と、読みたいのだが。
 高橋は、すぐに、次のように整えてしまう。

そもそも顔など名など はじめからあったのか
それ以前に 私というものも存在したのか
あったのは最初から記憶のみ その記憶が
まぼろしを拵えあげたにすぎないのではないか
誰とも知らない者の いつとも知れない時の記憶が

 「記憶」を「ことば」と読み直してみる。それも「文学のことば」と読み直してみる。存在したのは「文学のことば」だけである。もちろん「文学」だから「作者」はいる。しかし、「読み人知らず」という作品もある。いつの時代かわからないものもある。それは、人と時を超える。「ことば」が人と時を超える。たとえ有名な作者の「ことば」であったとしても、「名前」ではなく、「ことば」が。「作者」が誰であれ、「作品」が何であれ、人は感動しているとき「作者」も「作品名」も忘れる。ただ「ことば」に自分を重ねる。まるでセックスのように。そして「ことばの肉体」が動き出す。
 高橋は、ことばとセックスしていたのだ。ことばになるもの、ことばになっているものとセックスしていたのであって、「肉体」は動いていないのだ。
 「抑えた息づかい 睦言が/指と唇との愛撫が 私の上を通りすぎたこと」というのも、「文学」であり、「事実」ではない。実際に体験した、と高橋は主張するかもしれないが、それは「文学(過去)」をたどり直したということであって、「いま」を「ことばにならないことば」で切り開いたということではない、と思う。
 高橋のことばにはいつも「記憶」が、つまり「文学」が、「死」が存在する。高橋は、「いのち」とセックスするというよりも、「死」とセックスしている。冷たく、こわばったセックス。
 その「声」に私はぞっとする。

 私は矛盾した人間だから、その「ぞっ」という感じを味わいたくて、高橋の詩を読む。「嫌いだ」というのは「好きだ」ということと、どこかで結びついている。







つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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安倍4選は、あるのか、ないのか。

2018-10-17 07:12:24 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍4選は、あるのか、ないのか。
             自民党憲法改正草案を読む/番外241(情報の読み方)

 2018年10月17日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。政治面(4面)で「我が党戦略 語る」という連載が始まった。臨時国会を前にした企画だ。一貫目は、自民党幹事長・二階。見出しに、

改憲論議 謙虚な姿勢で

 と、ある。しかし、安倍のどこが謙虚なのか。
 自民党のホームページには、いまだに「改憲案4項目」が自民党のホームページにも、自民党改憲推進本部のホームページにも明示されていない。明示されているのは「2012年の自民党改憲草案」だけである。「自衛隊明記」に関しては、9条2項削除案と、残したままの案がある、というのがこれまで報道されてきたことである。自民党総裁選では、安倍が残したままの案を主張し、石破が削除案を主張した。安倍が総裁選に勝ったが、だからといって自民党の案が安倍案でかたまったわけではないだろう。かたまったというのなら、明示すべきだろう。同時に、「2012年案」と同じように、「質疑問答集」のようなものも発表し、誰もが議論できるような形すべきだろう。
 改憲、改憲と言いながら、なぜ、議論が広がるのを避けるのか。議論が広がるということは、賛成者が増えることもあるが、反対者が増えることもある。反対者が増えることを恐れているのだ。言い換えると、議論をさせないまま、自民党案を国会に提示し、あっというまに発議まで持っていこうとしているのだ。
 「議論させない」(静かな環境を守る)というのが、安倍の一貫した、唯一の「政治手法」だ。民主主義の基本だが、独裁を目指す安倍は、この「議論」が大嫌いである。「議論」する能力がないからである。だから「質問」もあらかじめ「通告」させるという手法をとっている。「質問」に対する「答え」を官僚に作文させ、ルビ付きの文章を読み上げる。それ以外のことができない。
 改憲問題について「議論させない」ために、安倍は臨時国会を前に、消費税増税について対策を発表した。目先の「割引感(?)」だけを大々的に宣伝している。キャッシュレスでの支払い、しかも半年から1年限りなのに、まるで何もかもが2%還元されるかのような大騒ぎである。この消費税問題が臨時国会で取り上げられれば、どうしても生活に密着した消費税に対する議論が多くなる。その分、改憲問題を議論を減らすことができる、という作戦である。

 ということは別にして。
 きょうの二階の発言で注目したのは、記事の最後の部分。「次のリーダーにふさわしいのは誰か」という質問に、こう答えている。

(総裁の連続4選を可能にする党則改正は)今は考えていないが、政治だから、分からない。

 「今は考えていないが」というのは、時期がくれば考えるということである。「政治だから、分からない」というのは、その可能性の方が高いということだ。3選のために党則をかえたばかりである。ふつうなら、そういうことは「党則をかえたばかりである。そういうことはありえない」と答えるだろう。そうしないのは、すでに4選に向けて動き出しているということ。動きがあるからこそ、ここで「4選はない」と断言できないのだ。そういってしまうと、隠しているものが暴れ出すのだ。
 天皇を強制生前退位させる道筋をつくった安倍は、「悠仁天皇」を誕生させるまでは、絶対に首相を辞めない。悠仁が生まれたときから、それだけを狙っている。そのために、悠仁が誕生する前後にあった「女性天皇」論議を封じ込めている。いまの「天皇-皇太子-愛子」という「天皇継承」を許さない。なんとしても「男性天皇」を貫く。男尊女卑を貫く。女性差別を貫く。「家長」がいて「家族」がある。その「理想形」が「天皇家」である。「家長」は男でなければならない。そして、その「理想形」を政治に当てはめたのが「安倍独裁」である。「天皇継承」で女性を排除し、男性天皇を守ることは、そのまま安倍の独裁を守ることなのだ。そのために天皇を利用しようとしている。4 選へ向けて、安倍の「天皇利用」は加速する。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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私が見たものは (ホアキンの作品に寄せて)

2018-10-17 00:27:15 | 


私が見たものは (ホアキンの作品に寄せて)

私が最初に見たものは風、
鉄ではなくて。
私が次に見たのは光、
鉄ではなくて。
それから私は影を見た、
鉄ではなくて。

何を見たんだろう、
私が私に問いかけたとき、
耳が目覚める。

私の耳は聞いた、
静かな息を。
のびあがって息を吸う。
たわみながら息を吐く。
ふれあって息を止める。
その静かな音。

息を合わせる。
息がいっしょに動く。
その確かな音。

私は何を聞いたんだろう。
誰の呼吸を聞いたんだろう。
私の体は、その息に誘われて動き出す。
ああ、私は何をしているのか。

そのとき初めて気づくのだった。
鉄の彫刻が踊っている。
まるで光のように軽く、
まるで風のように明るく、
まるで影のように静かに、

(Traduccion por google.)

Lo que vi (a la obra de Joaquín)

Lo primero que vi es el viento.
No es hierro.
Lo que vi a continuación es la luz,
No es hierro.
Entonces vi una sombra,
No es hierro.

Me pregunto que vi
Cuando me pregunté,
El oído se despierta.

Mis oídos escucharon,
Un respiro tranquilo.
Voló y respira.
Respira mientras te doblas.
Toca y aguanta la respiración.
Su sonido tranquilo.

Para inhalar.
Mi aliento se mueve
Ese cierto sonido.

Me pregunto lo que oí.
Me pregunto quién oyó respirar.
Mis cuerpos se mueven por invitación por su aliento.
Oh qué hago?

En ese momento se notó por primera vez.
Las esculturas de hierro están bailando.
Es tan ligero como la luz,
Es tan brillante como el viento,
Es tan tranquilamente como una sombra,
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