暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(港の人、2018年10月17日発行)
詩集を読んでいて、ある一行のために、そのあとの詩を読めなくなるときがある。
暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』の「月と乗客」。そのなかに、
という行がある。たとえば、この行が、そのあとの詩を読めなくさせる。印象が強烈で、次の詩は読めども読めども、頭に入ってこない。
こういう行に出会ったとき、あ、この行を中心に詩集を読んでみたいと思う。この行が詩集の「キーライン」にならないだろうか、と「予測」してしまう。私のなかで、一種の「偏見」というか、偏った見方ができてしまう。それが邪魔するのである。
で、私は、詩集を少しだけ読んで、やめた。
まず、この行について書いてしまおう。
宮沢賢治を思い出す。しかし、思い出すといっても、宮沢賢治に類似した行(ことば)があるかどうか、私にはわからない。私は宮沢賢治の熱心な読者ではないからだ。かつて読んだことがあるというだけだ。でも感じるのだ。あ、宮沢賢治だ、と。
どこにか。
「散らばりました」、「散らばる」という動詞に、宮沢賢治を感じる。
たとえば、この行が、
私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね
あるいは
私の輪郭がいま、半分ほどは空気に溶けましたね
なら、私は宮沢賢治を思い出さない。もっと違う詩人を思い出す。連想する。たとえば萩原朔太郎。「ゆるゆる」とみさかいなく動いていく感じ。
なぜ「散らばる」が宮沢賢治なのか。「散らばる」には「硬質」な印象がある。硬い。硬いものは「散らばる」とき砕ける。砕けながら、きらきらと広がる。硬いのに、流動というか、自在に変化する。硬いまま、動いていく。「きらきら」と思わず書いてしまうのは、「散らばる」とき、私は「反射」を見ているからだ。
これが、私の感覚では、宮沢賢治である。
で。
かなり書いていることが入り乱れるのだが、実は「輪郭が溶ける」という表現を暁方は、この詩で書いている。
は、「輪郭が溶ける」を言いなおしたものなのだ。
だからこそ、私は、驚き、立ち止まり、この行しか読めなくなる。
最初から引用し直そう。
最初は「人(私)」の輪郭ではなく、蛍光灯の輪郭なのだが、それが「私の輪郭」と言いなおされたとき「散らばる」。
これは、すごいなあ。
「蛍光灯のじりじりした(光)」というのも宮沢賢治っぽいが、それは宮沢賢治っぽいにすぎない。そのまえの「しかくくストロボのように動きまわり」も、「しかくく(硬質、硬いもの)」が「動き回る(流動する)」が宮沢賢治っぽい。そういう宮沢賢治っぽいものを通りすぎて、宮沢賢治を超えてしまう。
宮沢賢治っぽい、ではなくて、宮沢賢治そのものが、そこで動いている。宮沢賢治が書いたなら、きっとこうなるだろう、という感じで、そこにことばが動いている。暁方は、宮沢賢治になってしまっている。いや、宮沢賢治を、いま、ここに「生み出している」という感じ。宮沢賢治になって、生まれてきていると言いなおすこともできる。
心底だれかを好きになって、そのひとになってしまう。そのひとを超えて、存在しなかったそのひとを生み出していく。
誰かを愛するとは、自分がどうなってもかまわないと覚悟して、そのひとについていくことだが、ついていっているうちに逆に、そのひとをリードして、そのひとが到達したことのないところまでそのひとを連れて行く。未知の世界に、そのひとを生み出してしまう。
うーん。
詩は続いている。
ちょっと「童話」風に終わる。そのなかに「高密度」ということばがある。
私が感じたのは、暁方の「肉体」のなかで、宮沢賢治が「高密度」になりすぎて、砕け散り(散らばり)、その散らばったひとつひとつの「断片」が、ひとつずつ新しい宮沢賢治になって成長していく(拡大している)、その「瞬間」というものかもしれない。
私の「感想」は「論理」になっていないかもしれない。
たぶん、暁方の強烈なことばの力に酔ってしまって、私は考えることができなくなっている。だから、他の詩も、きょうは読むことができない。
きょうは、この一行を読んだ。
それだけで十分な一日である。
*
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詩集を読んでいて、ある一行のために、そのあとの詩を読めなくなるときがある。
暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』の「月と乗客」。そのなかに、
私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね
という行がある。たとえば、この行が、そのあとの詩を読めなくさせる。印象が強烈で、次の詩は読めども読めども、頭に入ってこない。
こういう行に出会ったとき、あ、この行を中心に詩集を読んでみたいと思う。この行が詩集の「キーライン」にならないだろうか、と「予測」してしまう。私のなかで、一種の「偏見」というか、偏った見方ができてしまう。それが邪魔するのである。
で、私は、詩集を少しだけ読んで、やめた。
まず、この行について書いてしまおう。
私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね
宮沢賢治を思い出す。しかし、思い出すといっても、宮沢賢治に類似した行(ことば)があるかどうか、私にはわからない。私は宮沢賢治の熱心な読者ではないからだ。かつて読んだことがあるというだけだ。でも感じるのだ。あ、宮沢賢治だ、と。
どこにか。
「散らばりました」、「散らばる」という動詞に、宮沢賢治を感じる。
たとえば、この行が、
私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね
あるいは
私の輪郭がいま、半分ほどは空気に溶けましたね
なら、私は宮沢賢治を思い出さない。もっと違う詩人を思い出す。連想する。たとえば萩原朔太郎。「ゆるゆる」とみさかいなく動いていく感じ。
なぜ「散らばる」が宮沢賢治なのか。「散らばる」には「硬質」な印象がある。硬い。硬いものは「散らばる」とき砕ける。砕けながら、きらきらと広がる。硬いのに、流動というか、自在に変化する。硬いまま、動いていく。「きらきら」と思わず書いてしまうのは、「散らばる」とき、私は「反射」を見ているからだ。
これが、私の感覚では、宮沢賢治である。
で。
かなり書いていることが入り乱れるのだが、実は「輪郭が溶ける」という表現を暁方は、この詩で書いている。
私の輪郭がいま、半分ほどは空気に散らばりましたね
は、「輪郭が溶ける」を言いなおしたものなのだ。
だからこそ、私は、驚き、立ち止まり、この行しか読めなくなる。
最初から引用し直そう。
ビリジアンを刷きつけた山肌が
暮れかかり
より一層、迫ってくると
月明かりでざわつく樹冠のからす
いよいよ大きな
熟れた虹雲があたり全部を呼吸する
紙っぺらになったひとびとは
急行列車のあかるい窓を
しかくくストロボのように動きまわり
ぎこちない仕草で座ったり立ったり
車内では蛍光灯のじりじりした
輪郭が滴って溶けている
けれどもひとびとは
乗客のなかに引きこもっているから
けして
私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね
などと思いもよらない
最初は「人(私)」の輪郭ではなく、蛍光灯の輪郭なのだが、それが「私の輪郭」と言いなおされたとき「散らばる」。
これは、すごいなあ。
「蛍光灯のじりじりした(光)」というのも宮沢賢治っぽいが、それは宮沢賢治っぽいにすぎない。そのまえの「しかくくストロボのように動きまわり」も、「しかくく(硬質、硬いもの)」が「動き回る(流動する)」が宮沢賢治っぽい。そういう宮沢賢治っぽいものを通りすぎて、宮沢賢治を超えてしまう。
宮沢賢治っぽい、ではなくて、宮沢賢治そのものが、そこで動いている。宮沢賢治が書いたなら、きっとこうなるだろう、という感じで、そこにことばが動いている。暁方は、宮沢賢治になってしまっている。いや、宮沢賢治を、いま、ここに「生み出している」という感じ。宮沢賢治になって、生まれてきていると言いなおすこともできる。
心底だれかを好きになって、そのひとになってしまう。そのひとを超えて、存在しなかったそのひとを生み出していく。
誰かを愛するとは、自分がどうなってもかまわないと覚悟して、そのひとについていくことだが、ついていっているうちに逆に、そのひとをリードして、そのひとが到達したことのないところまでそのひとを連れて行く。未知の世界に、そのひとを生み出してしまう。
うーん。
詩は続いている。
(そして山々は一層よるのなか
電車と窓とお月様だけが
切り取られたあやうい
まっきいろな
狭小時間の高密度な額縁だなんてこと
まさか月も乗客も
わかっているまい)
ちょっと「童話」風に終わる。そのなかに「高密度」ということばがある。
私が感じたのは、暁方の「肉体」のなかで、宮沢賢治が「高密度」になりすぎて、砕け散り(散らばり)、その散らばったひとつひとつの「断片」が、ひとつずつ新しい宮沢賢治になって成長していく(拡大している)、その「瞬間」というものかもしれない。
私の「感想」は「論理」になっていないかもしれない。
たぶん、暁方の強烈なことばの力に酔ってしまって、私は考えることができなくなっている。だから、他の詩も、きょうは読むことができない。
きょうは、この一行を読んだ。
それだけで十分な一日である。
紫雲天気、嗅ぎ回る 岩手歩行詩篇 | |
クリエーター情報なし | |
港の人 |
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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