詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンジェイ・ワイダ監督「灰とダイヤモンド」(★★★)

2018-10-03 15:54:27 | 午前十時の映画祭





監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジイジェフスカ

 ドイツ降服直後のポーランド、抵抗組織に属した一人の青年の物語。ポーランドの歴史がわからないのだが……。ドイツが降伏したからといって、すぐに「平和」がやってくるわけではない。権力闘争が始まる。それが引き金となって物語が動いていく。
 見どころは、青年と女のセックスシーンかなあ。特に目新しい(?)セックスシーンというのではないのだが、ひとはいつでもセックスをするということを教えてくれる。ひとりでは生きていけない。「大儀」を生きるわけではない。
 どうしていいかわからなくなったとき、「生きている」ということを実感させてくれるのがセックスである。いや、「生きる」という欲望を引き出してくれるのがセックスである。「愛」はあとからやってくる。
 セックスしたあとのふたりがとてもいきいきしてくるのがいいなあ。
 セックスが、ふたりを「ふつうの生き方」にひきもどしたのだ。戦争も、抵抗運動もない、ふつうの生き方。もちろん「大儀」なんかは、ない。
 廃墟か、遺体安置所(?)か、よくわからないところで、「墓碑銘」を読む。そこにタイトルになっている詩が刻まれている。「燃え尽きた灰の底に、ダイヤモンドがひそむ」というようなことが書いてある。どういう意味なのか、ぱっと聞いただけではわからない。
 でも、「燃え尽きる」は「大儀」によって「燃え尽きる」ということだけではないだろう。映画は青年の行動を中心に描かれるので、青年が「大儀」にしたがって暗殺を実行し、その結果死ぬことがあっても、その行為のあとには「ダイヤモンド」のようなものが残される、ということだけではないだろう。
 青年が死んだあとにも、青年といっしょに時間を過ごしたという記憶は女のなかに残る。輝かしい青春の記憶だ。同じように、死んでゆく青年の記憶に最後まで残るのはセックスした女のことかもしれない。
 有名な洗濯したシーツを干した場所を逃走するシーン。青年がシーツを抱きしめるが、そのとき青年が抱きしめるのは、女の幻かもしれない。青年が死んでゆくとき、女の記憶もまた血に染まる。
 戦争が終わっても、若者は傷つきつづける。
 (午前10時の映画祭、2018年10月02日、中州大洋スクリーン3)
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沖縄知事選の報道(その2)

2018-10-03 14:53:22 | 自民党憲法改正草案を読む


沖縄知事選の報道(その2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外234(情報の読み方)

 10月01日に書いたことに、一部、私の勘違いがあった。朝日新聞の最終版の見出しは、

辺野古反対 玉城氏当選/沖縄知事選
政権支援の佐喜真氏破る/「オール沖縄」翁長氏後継
政権へ不信 工事に影響も

 ではなくて、

辺野古反対 玉城氏当選/沖縄知事選
政権支援の佐喜真氏に大勝/「オール沖縄」翁長氏後継
政権へ不信 工事に影響も

 だった。コンビニで売っていたものは、途中版ということになる。
 朝日新聞は「大勝」と見出しに取っている。毎日新聞は「過去最多得票」と見出しに取っていた。(読売新聞は、見出しに取っていなかった。)
 ただ、「大勝」も「過去最多得票」も、私の印象ではあまり目立たなかった。「おっ」という驚きを読者に引き起こすところまではいかなかったと思う。
 見出しの二番手に「過去最多 39万票」と明確に示すべきだったと思う。

 なぜ、こういうことを言うか。

 たとえば衆院選、参院選で自民党が「大勝」「過去最多議席」を獲得したときは、新聞やテレビはどう報じるだろうか。「過去最多」とか「2/3確保」とか見出しに取るだろう。選挙は「勝敗」がいちばん大事だが、同時に「数字」が重要なのだ。「数字」のなかに「有権者」の「意思」がある。
 だからこそ、朝日新聞は10月02日の朝刊(西部版・14版)の30ページで、次のような見出しの記事を展開している。

過去最多得票 新知事への思い
「県民の心に翁長氏」「基地の危険残すな」

 玉城の得票沖縄知事選で過去最多だったということは、「大事件」なのだ。自民党が「単独過半数」の議席を獲得した、「2/3を獲得」というのに匹敵する。権力が暴力をふるって辺野古に基地を造っていることに対して、沖縄県民の怒りが明確に示されたのだ。今まで以上の人が、そういうことに対して「反対」と意思表示をした。その「意思表示」の「数」がどういうものであるか、それを新聞、テレビはもっと「正確」に伝える必要がある。「数字」の「意味」を分析して報道する責任がある。

 玉城が大勝(完勝)することは、各報道機関とも「事前調査(世論調査)」でわかっていたと思う。「出口調査」は事前の世論調査を裏付けるというよりも、それを上回るものだったのだろう。だからこそ、朝日新聞は午後8時には「当選確実」と報道した。
 ところがNHKは、それよりはるかに時間が経ってから報道した。私の記憶では9時半過ぎだが、正確にはわからない。もっと遅かったかもしれない。
 なぜNHKは、「速報」しなかったか。「速報」が与える「衝撃力」をおさえたかったのだ。安倍に配慮したのだ。あるいは、安倍側から何らかの圧力があったのかもしれない。
 これまでの衆院選、参院選では開票が始まると同時に、NHKは「自民〇議席、過半数超す」というような報道をしていた。どの選挙区も得票が「確定」していないのに、自民党の圧勝を伝える。これはたいへんな衝撃である。選挙区ごとに見ていけば「僅差」で勝ったところもあるかもしれないが、そういうことは「見えなくなる」。自民党が完全に支持されているという印象だけが全面に出てくる。
 この「確定得票」が出る前の「大勝」報道は、報道を見ている国民にも、野党にも衝撃である。野党の誰かが「まだ確定得票が出ていない。この段階で、コメントはできない」と言ったとすると、その人は「世論の状況」も把握せずに選挙をしていたことになる。負けて当然と言われるだろう。世論をに働きかける工夫をせずに、世論がどういうものであるかを知らずに選挙してきた、政治能力がないと判断されるだろう。
 NHKが即座に「自民〇議席、過半数超す」というような報道をするのは、ある意味では、敗北した野党に対して「敗戦の弁」を用意する準備をさせないためである。もっともらしい論理を語らせないためである。

 ここから逆に沖縄知事選を見つめればどうなるか。
 開票と同時にNHKが、「玉城圧勝、得票は過去最高の勢い」と報道すればどうなっただろうか。朝日新聞は、最初からそれを匂わせるネット報道をしていた。「いままで自民党の票が多かった郡部でも、玉城の票が上回っている」と伝えていた。郡部で玉城の票が上回れば、大票田の都市部でも玉城票が上回る。「大勝」は確定得票が出る前から、予測がつく。
 そういうことをNHKが朝日新聞と同じように速報していたら、衝撃は拡大するだろう。
 結果を聞いて、安倍は「しょうがないね」と言ったと報じられているが、この「実感」まるだしのことばが「衝撃」をあらわしている。まともな分析、評価ができないのだ。


 沖縄知事選で、玉城が勝った、佐喜真が負けた、ということは誰でもが言える。それは「単純な事実」だ。
 大事なのは、それをどう「報道するか」である。
 そこにどんな意味があるか。意味を裏付ける「証拠(事実)」は何か。それを、どう表現していくかが報道の仕事だ。
 朝日新聞は「過去最多得票」を大きな見出しで取り、01日には伝えきれなかったことを報道している。他の報道機関はどうか。
 私はテレビを年に数回しか見ないのでわからないが、NHKは、どう報道したか。
 報道される内容と同時に、報道の仕方そのものも「ニュース」として見なければならないのが現代の社会である。

 NHKに関して言えば、衆院選、参院選の報道では、第一党の自民党の紹介は長い時間をかけて報道している。しかし、野党には時間をかけない。「議席数に合わせて時間を配分している」とNHKは言うかもしれない。しかし、新聞などとは、その「配分の仕方」があまりにも違う。この「格差報道」も「ニュース」なのである。それを操ってるのはだれなのか、隠されたままである。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(87)

2018-10-03 09:23:53 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
87 理由

 高橋の詩が、前に書いた詩を引き継ぎながら動くのか。あるいは、私の感想が高橋の詩を強引に結びつけてしまうのか。

かつて若者は美しく 老人は堂堂としていた
木木は涼やかな嫋ぎを零し 水は清清とせせらいだ
--そう思いたい が それは永久の幻 見果てぬ夢

 「若者は美しく」と書きながら、それをすぐに「永久の幻 見果てぬ夢」と言いなおす。「ことば」のなかに閉じこめてしまう。幻も夢も、ことばの中にしかない。「肉体」のなにかあるときは「暗闇」であり、「ことば」として具体的に外に出てきたときに「幻」「夢」になる。ことばが幻を「永久」のものに変え、ことばが夢を「見果てぬ」ものに変える。

いつでも若者は軽薄で小狡かったし 老人は尊大でもの欲しげだった
木木は埃を被って病気だったし 水は芥でつまって動かなかった
だからこそ 美しいものは美しく 清いものは清くなければならなかった
それこそが 古代の彫像が眩しく 詩が蠱惑に満ちている理由

 芸術、ひとの作り上げたものだけが「美しい」。「事実/現実」をことばで殺し、「真実」をことばで甦らせる。そこには血の匂いがあり、苦悩があり、絶望と欲望がある。「暗闇」が噴出してきて、太陽の光の中であざやかに輝く。それが眩しければ眩しいほど、ほんとうは暗い。
 高橋は「いのち」と「死」を往復する。「文学のことば」を通って往復する。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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