詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

是永駿『穏やかな剥離』

2018-10-07 20:03:03 | 詩集
是永駿『穏やかな剥離』(書肆山田、2018年09月20日発行)

 是永駿『穏やかな剥離』を読んでいると、奇妙な気持ちになる。ことばがいつの間にか「違う世界」へ入って行ってしまう。この「違う世界」を「詩の世界」と呼ぶことができるかもしれないけれど、そういうことは後回しにしよう。
 「白い兎」はキツネか山犬になって白い兎を狙うという夢から書き起こされる。兎と「異種交配」をする。セックスをする。それを月の女神に見てもらう、というとても変な(?)作品、現実からかけはなれた作品だが、その世界がさらに一転する。セックスを見ている女神が、

裳裾を閃かせてくるりと舞う
すると
視界が一閃して
シリウス・アルファ星の平原に
降り立つことができるのだ

 なんだろう、これは。メルヘン? よくわからない。よくわからないのだけれど、ことばに余分なものがないので、なんとなく読まされてしまう。
 なんだかわからないけれど、ことばが「つづいていく」、その「つづき方」にだまされている感じがする。接続と切断(飛躍)の関係が、どうもわからない。
 なんなんだろうなあ、と思いながら読んでいく。そうすると「穏やかな剥離」にこんな一連が出てくる。

あの入り江の路をきみが歩く
白いスニーカーが砂地に印す浅い足跡
その足跡から沸き立つ
星のさんざめき
入り江に懸かる遥かな銀河

 「白い兎」と同じように、突然「宇宙」が出現するのだけれど、この一連には「接続」と「飛躍/切断」を特徴づけることばが出てくる。キーワードが出てくる。

その足跡から沸き立つ

 この「その」だ。私は、思わず傍線を引いた。「その」に気づいた瞬間に、是永の詩がわかった。言い換えると、「誤読」することができた。
 「足跡」と前の行に書いたあと、「その足跡」と言いなおしている。言いなおさないことには、ことばがつづかないのだ。「その足跡」と「足跡」をそっくり引き継ぐ形を装いながら、「足跡」をまったく別なものへの「架け橋(飛躍台)」にしている。方向転換をしている。それはたまたま「足跡」だったが、足跡でなくてもいい。たとえば、白いスニーカーが踏み壊した貝殻であってもいい。「その貝殻から」沸き立つという具合に、ことばをつづけていくことができる。重要なのは、「その」である。直前の何かを明確に指示し、浮き上がらせる。独立させる。そして、その「独立」をバネに、それまでとは違う世界へことばを動かすのだ。
 「白い兎」にもどってみる。

裳裾を閃かせてくるりと舞う
すると
視界が一閃して
シリウス・アルファ星の平原に
降り立つことができるのだ

 「閃かせる」ということばが先にあり、そのあと「一閃して」ということばがある。「閃」という文字が「足跡」のように繰り返されている。「足跡」とは違って、別なことばになっているが、そこには「閃」が共通している。「その」を補って読み直すと、

裳裾を閃かせてくるりと舞う
すると
「その閃きといっしょに」視界が一閃して
シリウス・アルファ星の平原に
降り立つことができるのだ

 ということになる。「裳裾の閃き」が別の世界の「閃き」へと、ことばを橋渡す。前のことばを次のことばに引き渡しながら、同時にそのことばを土台にしてことばが別の方向へ動いている。「その」だけではないが、「意識の指示詞」とでもいうべきものが是永のことばのなかに隠れているのだ。
 「視界」という作品では「あの」ということばが出てくる。「その」に比べると、「あの」はもう少し離れたところにあるものを指示するのにつかわれる。実際、そういうつかわれ方をしている。

風が吹き
木の葉が揺れ
木々の上に青空の腰が撓うたびに
木々の梢がスパークして
青い空に砕ける叫びをあげる
木々に化身したヒトが
両手の指先から放電しつつ
四肢を震わせている
声にならない叫び声が梢に焼き付けられる
あの木々に化身したヒトの群れ
あの声にならない叫び
あの焼かれ黒く変色していく梢
あの指先から放電しつつ
四肢を捩り震わせているもの

 この詩に「その」を補うと、こういう感じになる。

風が吹き
木の葉が揺れ
「その」木々の上に青空の腰が撓うたびに
「その」木々の梢がスパークして
「その」青い空に砕ける叫びをあげる
「その」、木々に化身したヒトが「あげるその叫びの姿というのは」
「そのヒトの」両手の指先から放電しつつ
「そのヒトの」四肢を震わせている
「そのヒトの」声にならない「その」叫び声が「あの」梢に焼き付けられる
あの木々に化身した「その」ヒトの群れ
あの声にならない「その」叫び
あの焼かれ黒く変色していく「その」梢
あの指先から放電しつつ
四肢を捩り震わせているもの

 途中で、木とヒトが交錯し、また「その」と「あの」が交錯し、その交錯を整理するために「あの」と切断され、同時に「あの」のなかに「その」を引き寄せる。「あの」と「その」が交錯しながら、世界を強固にする。
 この指示詞の交錯、あるいは省略は、「無意識」である。つまり、是永の「肉体」そのものである。キーワードとは「肉体」にしみついたことばである。「肉体」になってしまっているから、ふつうは省略したまま隠されている。どうしても、それを「意識」にまで引き上げないとことばが動いていかないときだけ、ことばにされる。
 「その足跡」のように。
 「その」を省略し、「足跡から」と書くと「足跡」があまりにも重なりすぎて、ことばがぎくしゃくする。「そこから」と「足跡」を省略してしまうと、なんだか漠然としてしまい、「詩(ことば)」の強固さがなくなる。だから「その足跡」と書かざるを得なかったのだ。「無意識」が「ことば」になって表に出てくるしかなかったのだ。
 是永のことばの飛躍が激しいと感じたら、どこかに「その」を補って読み直してみると、ことばがスムーズに(論理的に?)動いていることがわかる。また「その」とか「あの」とかが出てきたら、そこには「接続/切断(飛躍)」があると意識すると、是永の意識の動きが鮮明に見えてくる。
 こういう「文体」は是永が翻訳をやっていることと関係しているかもしれない。翻訳は単にことばを訳すことではなく、テキストのことばとことばの関係を明確にしていくことである。書かれていない「その」「あの」「この」という指示詞を補いながら、ことばの「意味(指示内容)」を絞り込むことだからである。翻訳によって鍛えられた意識の動きが詩に影響しているのか、もともと是永の意識の動きがそういうものだから翻訳という仕事を引き寄せたのか。わからないが、これは「翻訳家の文体」だな、と思った。







*

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穏やかな剥離
クリエーター情報なし
書肆山田
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なぜ外国人の本を引用する?

2018-10-07 16:03:09 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ外国人の本を引用する?
             自民党憲法改正草案を読む/番外235(情報の読み方)

 2018年10月07日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面。「地球を読む」に慶応大学の細谷雄一が寄稿している。「民主政の危機/偏った民意が招く独裁」という見出しがついている。
 世界の民主主義国家に「巨大かつ重大な変化」が生じている、と書いたあと、そのことに注目している本が2冊刊行されたと紹介する。一冊はハーバード大教授二人による「民主主義の死に方」(新潮社)、もう一冊はケンブリッジ大教授の「民主政の終わり方」(邦訳未刊行)。

 米国にトランプ政権が誕生し、中国やロシアのような権威主義体制の国家が影響力を強めている。こうした中で、独裁主義的な指導者が民主主義のルールを拒否、対立相手やメディアの否定、暴力の許容などの行動に走ることで、民主政に不可欠な条件が浸食され、政治が堕落する様子を両書は見事に描写している。

 その詳細は、わからないが、疑問に思うことがある。
 細谷の紹介している二冊には「日本」のことが書かれているのか。どうも、そうとは思えない。トランプ政権の誕生やイギリスのEU離脱を中心に社会を分析しているのだと思う。
 そういう本を紹介することはそれなりに意味があるのだろうが、そんなことをするよりも日本の「政治状況」を細谷自身のことばで分析すべきだろう。
 「民主政の終わり方」は「邦訳未刊行」。細谷は、英語で読んでいる、ということだろう。ふつうの日本人よりも先に、その情報(?)を知っている。だから、細谷の「論」は正しい、というつもりなのかもしれないが、外国人が外国の政治状況を分析したからといって、それがいったい何になるのだ。単にそれを紹介するだけではなく、その「手法」で日本の政治状況を分析すると、どうなるか。それを細谷のことばで書かないと意味がないだろう。
 「外国人(ハーバード大教授、ケッブリッジ大教授)」が言っているのだから、それは「正しい」というのは、単なる「権威主義」である。外国人の正しい主張を知っているから、細谷の書いていることは正しい、というのは「トラの威を借るなんとか」である。何の意味もない。

 細谷は、途中にナチス政権のことを書いている。(細谷の文章は、1面から2面につづいている。)その2面の見出しには

日独の「崩壊」経験 生かせ

 とある。ナチスはワイマール憲法を改正し、戦争に突入した。そのことを反省せよ、ということのようだが、日本の憲法を改正しようとしている自民党のことには触れていない。麻生は、政権運営にあたって「ナチスを参考にしたらどうか」と言っている。安倍はそれにしたがって、やっている。そのことを無視して、ヒトラーのナチスのことを紹介している。
 日本の状況をぜんぜん見ていない。

 おしまいの方には、こんな文章がある。

 日本の安倍首相とドイツのメルケル首相は、先進7か国(G7)の指導者の中で、最も長く首脳の地位にとどまり、最も安定した政治基盤を誇っている。
 日本とドイツは、20世紀の歴史の中で民主政の瓦解に直面し、第2次大戦後にこれを復興させた。現在の日独両国の安定は、民主政の崩壊がもたらす深刻な問題を他の国々よりも熟知しているかもしれない。

 驚いてしまう。
 ドイツはヒトラーの政治を厳しく批判している。つまり、ヒトラーを否定し、その歴史を踏まえて政治を行っている。ところが安倍・麻生は、そのヒトラーに学んで、「こっそり」と政治を動かそうとしている。
 メルケルは極右勢力の台頭と向き合いながら、世界的課題である「移民」の問題にとりくんでいる。安倍は極右勢力を利用することで「移民」を排除しようとしている。そのうえで、労働力不足を解消するために外国人を安い賃金で「使い捨て」にするため方策を進めようとしている。
 メルケルがやっていることと、安倍のやっていることは、合致しない。「復興」と細谷は書いているが、「経済」だけが「国家」ではない。そのうえ、日本の「経済」なんて、「みかけ」にすぎない。株がいくら上がろうが、企業と株保有者の問題に過ぎない。経済全体の問題ではない。円安だから株が上がっているに過ぎない。
 かつて円は1ドル80円の時代があった。それが今では 110円を超えている。30円以上安くなっている。逆に30円値上がりして1ドル50円だったら、私たちの暮らしはどうなっていたか。輸入品はどんどん値下がりする。海外旅行も、いまの料金で2回以上行けることになる。円高がともなわなければ、経済が復興したとは言えない。日本が豊かになったとは言えない。
 脱線した。
 日本国内で繰り返されている安倍批判、安倍は「討論をしない」(民主主義の根幹の否定である)、討論に必要な資料を捏造し、不都合な資料を隠蔽・廃棄する(議論の根底になるものを提示しない)、反論を述べる人を「こんなひとたち」とひとくくりに否定し、排除する。さらには差別を助長する人を批判しようとしない、性暴力をふるう人をかばう、ということをやっている。
 それこそ最初に引用した、

独裁主義的な指導者が民主主義のルールを拒否、対立相手やメディアの否定、暴力の許容などの行動に走ることで、民主政に不可欠な条件が浸食され、政治が堕落する

 ということが日本で起きている。
 こういうことに目を向けず、外国人の書いた文章だけを尊重し、それを知っているから私の論は正しい、というような「学者のひとりよがり」にはあきれかえってしまう。外国の人の書いたものを読んでいるからといって、それを読んだ人が「えらい」わけではない。
 細谷のような人間(権威主義者)が、民主主義をぶちこわすである。「権威」を自慢するだけで、自分のことば、今起きていることを自分はどう読み解き、判断しているのかを語らない人間の意見は有害である。












#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(91)

2018-10-07 09:43:44 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
91 そここそが

ほんとうは 彼らは死んでなんかいない
死んでいるのは かえってきみのほう
そのことに気づいたら そこがどこであれ
そこからこそ きみは生きはじめる
そこがエレウシス 特別のどこでもなく

 「エレウシス」という固有名詞が出てくる。「エレウシスの秘儀」ということばがある。私は、そのことばを聞いたことがあるだけで、具体的には知らない。「ほんとうは 彼らは死んでなんかいない」ということばがあるから、死と密接な関係がある「秘儀」なのかもしれない。「秘儀」というのは、全般的にそうなのかもしれない。

 わからないことは、そのままにしておいて。

 私は「そこがエレウシス 特別のどこでもなく」という行に注目する「エレウシス」は固有名詞。固有名詞は「個別の存在」(特別なもの)を指し示す。それなのに高橋は「特別」を否定する。
 「特別」であることを否定された固有名詞とはなんだろう。
 「普遍」だ。あるいは「永遠」だ。
 死んでいるのはきみ、死んでいると気づいてから生き始める。この動きのターニングポイントは「気づき」である。
 「気づく」ことが「普遍(永遠)」の始まりなのだ。
 こう読めば、これはギリシア哲学である。ギリシアは「気づき」、「想起する」。「想起」を生活のことばにしていく、その集中力が哲学をつくる。

 「90 冥界と楽土」の詩と同様、わからないのだけれど、まだギリシアを感じることができる。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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