詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造「悲しき歩道に面している」

2018-10-09 11:46:59 | 詩(雑誌・同人誌)
細田傳造「悲しき歩道に面している」(「ウルトラ・バズル」30、2018年09月30日発行)

 細田傳造「悲しき歩道に面している」は「犬三題」のなかの一篇。

歩道に面している
早朝から深夜まで
きれまなくヒトが通る
病み上がりが通る
巡礼が通る
空き巣狙いが通る
健康狂ジョガーが通る

 これは人間が見ても、そう描写することができる。「犬三題」と書かれているにもかかわらず、私は人間の目で細田のことばを追っている。
 途中で、こんなふうに変わる。

悲しい習性
つながれているのでエスケープできない
犬舎は歩道に面している
きれまなく雑種が通る
あれはコッカースパニエルの混ざり
あれはハスキーのアホ
あれは狆と珍島犬のハーフ
去勢済雄犬が通る
生涯雌主従が通る
御婦人を曳いて前をいくメリーちゃんに
ううっと唸ってやる
屹度なった目で御婦人がこっちを見る
美形である

 途中まではやはり人間が見た世界とも読むことができる。しかし、「ううっと唸ってやる」は人間ではない。それまでは「見る」存在であったものが、突然「うなる」という動詞とともに人間ではなくなる。
 書かれていない「見る」、そして「外形から判断する」というのは人間にも犬にも共通する「肉体」の動きである。(犬がほんとうはどう「肉体」を動かし、「見る」ことによって他者を判断、識別しているかは、もちろんはっきりとはわからないけれど。)
 「肉体」、つまり「動詞」をしっかり動かすことで、細田は完全に犬になる。人間と違った動き、しかし人間にもわかる動きで、私を犬にしてしまう。
 そのあとで「屹度なった目で御婦人がこっちを見る」と人間の姿を、それまで隠し続けてきた「見る」という動詞で明確にする。
 犬が「通るヒト」を「見る」なら、また細田も「通るヒト」を見ていた。「見る」という「動詞」のなかで、細田は細田の意識を犬に代弁させていた。それを「うなる」という動詞で、突然、逆転させる。犬の「見る」を人間の「見る」に変更する。しかも、このとき「御婦人」という、細田ではない人間の目を利用している。
 この絶妙な転換によって、「見る」という動詞が人間全部に通じること、また犬にも通じることを、「いのち」全部に通じる「事件」にしてしまう。「事実」にしてしまう。

美形である

 この判断は、犬のものとして書かれているが、当然、細田の、男の視線も入っている。だから、それからあとは、もうごちゃごちゃである。犬と書かれていても人間に見えるし、人間が登場しても犬に見える。
 犬ならば……。

美形である
楡の木の下で待てのちほど参る
犬語でメリーと御婦人両者に告げる
ハウス! 吾輩のご主人が叫ぶ
嫉妬深い老人だ
ふたりして去りゆく二匹のメスの残臭を
いつまでも追う
ふたりとも臭覚力は4・0だ
犬舎は悲しき歩道に面している

 ああ、犬ならば「メスの残臭を/いつまでも追う」ことができるのに、と思う。しかし、それは夢だ。ことばにしないことには存在しない何かだ。だから詩が書かれなければならない。
 なんとなんと「悲しい習性」ではないか。人間は、こんなにも悲しく、こんなにも温かく、なつかしい。
 「歩道に面している」「犬舎は歩道に面している」「犬舎は悲しき歩道に面している」と静かにくりかえしながら「悲しき」を浮かび上がらせるのも、押しつけがましくなくてとてもいい。
 ことしいちばんの傑作である。









*

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アジュモニの家
細田 傳造
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(93)

2018-10-09 08:32:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
93 ギリシア人

 この詩では、これまで書いてきたギリシアとは違うギリシアがあらわれる。

彼らは森を伐った 船をつくり 櫂を削った

 これは「侵略」のためである。詩の後半。

文明の始まりはいつも同じ 血腥く後ろめたい
冒険と呼ぶ実は殺戮 植民と言い換えた侵略
彼らの名はギリシア人 私たち人間すべての代名詞

 私がおもしろいと感じるのは、高橋が「彼ら」という代名詞をつかっていることである。「ギリシア人」と先に書いてしまえばいいのに(タイトルにはそう書いてあるのだが)、距離をとって「彼ら」と呼ぶ。「間接的」に表現している。「抽象化」と言ってもいいかもしれない。あるいは「論理の対象化」と言う方がより正確だろうか。
 ギリシア人の行動を「論理」にした上で、「私たち」と結びつけ、さらに「人間」という具合に「対象(テーマ?)」を拡大していく。そのとき、そこに「私たち」ということばはあるが「私」は欠落している。「私」のことなど考えていない。
 この詩は、ある意味では高橋の詩の特徴を語っているかもしれない。
 「私」は登場するが、それは「私たち」の方に隠れていく。「人間」の方に隠れていく。これを「人間」そのものを描いている、「永遠」と交渉しているととらえることもできる。また「ことばの肉体」そのものを動かし「論理(真理/永遠)」にたどりつく運動を展開していると言いなおすこともできる。しかし、逆に、対象との直接交渉、肉体のぶつかりあい、セックスの奥を突き破っていのちを発見するということを回避している、ことばのなかで高橋の肉体そのものを保護している、と批判することもできる。
 「私たち」とか「人間すべて」ではなく、高橋個人の「肉体」に触れたい、と私は思う。「ことばの肉体」は、どこか「死の匂い」がつきまとう。完結してしまい、あふれていくもの、突き破っていくものがない。
 ギリシアは侵略した。その「衝動」はどこから来たのか。それは「彼ら」と「対象化」して呼ぶ限り、高橋自身の問題にはならない。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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ルツィヤ・ストイェビッチ監督「ラ・チャナ(La Chana) 」(★★★★)

2018-10-09 06:34:38 | 映画

ルツィヤ・ストイェビッチ監督「ラ・チャナ(La Chana) 」(★★★★)

監督 ルツィヤ・ストイェビッチ 出演 ラ・チャナ、アントニオ・カナーレス、カリメ・アマジャ

 フラメンコを私は見たことがない。しかし、このフラメンコ・ダンサーには衝撃を受ける。映画のなかで、ラ・チャナから踊りを習っている女性が「あなたのリズムは当時のものとは思えない」ということばが出てくる。これに対して彼女は「私のリズムだもの、当然だわ」と答えている。時代を超えている。いつでも「いま」なのだ。
 象徴的なのが、自宅で椅子に座って踊るシーン。おそらく音楽はない。彼女の「肉体」のなかにあるリズムに身を任せて踊る。それにクラシック音楽が重なる。(何かは書かない。)彼女がその曲に合わせて踊っているというよりも、彼女の踊りとリズムに合わせてピアノが音を奏でている。彼女の踊りに、音楽そのものが誘われて、ピアノの音が踊っている感じなのだ。あまりの美しさに、息を呑む。
 ラ・チャナは、リズムさえしっかりしていれば踊れると言う。リズムを「コンパス」と言っていた。「指針」(導く力)のことだろうか。その導く力にしたがって、彼女は「肉体」の奥へ奥へと入っていく。「肉体」の奥の「扉」を開け放つ。「肉体」の奥へ入りことが、「肉体」の奥にあるもの、「魂」を解き放つ。生きる欲望。生きる喜び、と私は言いなおしたい。それが彼女の「肉体」を突き破るようにしてあふれてくる。足でつくりだすリズムが、まるで炎のようだ。足先から火がつき、からだ全体が燃える。「肉体」の内部にあったものが、燃えながら新しい「色」、誰も知らない「色」で世界を染め上げていく。
 踊り終わると、何もない。観客の拍手も聞こえない。自分自身の、苦しい息の音しか聞こえない。
 ああ、すごい。
 踊りのシーンでは、過去の映像がつかわれている。画質が粗い。テレビから取ったものは、映像の乱れもある。しかし、そういうものをおしのけて、彼女の踊りがあふれてくる。
 いま、フラメンコダンサーがどんな踊りを踊っているのか知らないが、彼女の踊りはいまでも「前衛」だろうと思う。つまり「永遠」をつかんでいると思う。
 ドキュメンタリーなので、つらい過去も語られる。しかし、同時に、穏やかな日常も描かれている。時代を生き抜いた人間だけがつかみとることのできる「至福」がある。

(以下のスペイン語はグーグル翻訳)

Nunca he visto el flamenco. Sin embargo, esta bailaora de flamenco se escandaliza. En la película, a una mujer que aprende baile de La Chana se le ocurre la palabra "Tu ritmo es improbable en ese momento". Al contrario, ella responde: "Es mi ritmo, por supuesto". Más allá de la era. Es "ahora" en cualquier momento.
Lo simbólico es la escena en la que te sientas en tu silla y bailas en casa. Probablemente no hay música. Baila contigo mismo en el ritmo de su "cuerpo". Y la música clásica se superpone. (No escribo su title). En lugar de hacer que ella baile la canción, el piano toca los sonidos de acuerdo con su baile y ritmo. En su baile, la música en sí está invitada y el sonido del piano está bailando. Demasiada belleza, me quedo sin aliento.
La Chana dice que si tienes un ritmo firme puedes bailar. El ritmo se decía que era "compas". ¿Es una "guía" (el poder de guiar)? De acuerdo con el poder de guiar, ella profundiza en el "cuerpo" hacia atrás. Abra la "puerta" detrás del "cuerpo". Entrando en la parte posterior de "cuerpo", desatando "alma", lo que está detrás de "cuerpo". Deseo de vivir. Quiero reformular que me complace vivir. Se desborda a medida que perfora su "cuerpo". El ritmo que lo hace con los pies es como una llama. Desde el antepié, el fuego está encendido, todo el cuerpo arde. Los que estaban dentro del "cuerpo" teñirán el mundo con un nuevo "color" mientras se quema, el "color" desconocido.
Cuando el baile termina, no hay nada. Ni siquiera puedo escuchar a las audiencias aplaudidas. Sólo puedo escuchar mi propio sonido de respiración.
Muy impresionante.
En la escena del baile, se utilizan imágenes pasadas. La calidad de la imagen es basta. El sacado de la televisión también tiene perturbación de la imagen. Sin embargo, al deshacerse de esas cosas, su baile se desborda.
No sé qué tipo de baile baila la bailarina de flamenco, pero creo que su baile sigue siendo "jardines de vanguardia". En otras palabras, creo que estoy captando la "eternidad".
Ya que es un documental, también se cuenta el doloroso pasado. Sin embargo, al mismo tiempo, también se dibuja la vida cotidiana tranquila. Hay "dicha" que solo los humanos que sobreviven a los tiempos pueden captar.











https://www.youtube.com/watch?v=MEcM30ccpCo&feature=youtu.be
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