詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

書かれていることよりも、書かれていないことの方が大事

2018-10-08 21:49:22 | 自民党憲法改正草案を読む
書かれていることよりも、書かれていないことの方が大事
             自民党憲法改正草案を読む/番外236(情報の読み方)

 2018年10月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の社会面。

専門学校35校 全員外国人/本社調べ 文科省 実態調査へ/就労目的の学生増加か

 という見出しで、記事が書かれている。
 専門学校は日本の若者の就業教育を目的に認可されたもの。そこに外国人が多数入学している。
 たとえ日本の若者のための学校であっても、外国人がほんとうにそこで教育を受けているなら問題がないのではないか。
 問題は別のところにある。三番目の見出しになっている「就労目的の学生増加か」である。
 記事には、こう書いてある。

実際は就労目的で、学校に在籍して留学の在留資格を更新したい外国人も増えているとされる。

 「増えているとされる」と「伝聞調」で書かれている。具体的には調査していないようである。あるいは、その調査を後日記事にするために、あえてぼかして書いているのかもしれない。
 でも、ほんとうに大事なのは、この部分ではないのか。
 外国人が日本で勉強するのは悪いことではない。その外国人が、勉強の合間にアルバイトをすることも、その人がそうしたいのなら別にかまわないだろう。
 問題は逆だろうと思う。
 日本は労働力が不足している。外国人に帰国されたら困る。だから専門学校に入学させて、あたかも勉強しているかのように偽装しているのではないのか。
 外国人が何人入学しているかではなく、その外国人がどういう生活をしているか、それを調べなければ、いま日本で起きていることがわからないのではないか。安倍政権が、外国人に対してとっている政策の問題点が見えないのではないか。
 どこの国の人であっても、実際に生活し始めれば、恋愛というものが生まれる。結婚し、家族になり、さらに子どもも産まれる。あるいは、「学生」であっても家族を呼び寄せ、暮らし始める。子どもも生まれる、ということはありうる。生まれた子どもは、まわりが日本語を話しているのだから、日本語を話す。暮らしが長くなれば、日本語しか話せないという子どもも出てくる。そういうことに対して、日本はどういう「対策」をとっているか。外国人が家族生活をささえ、子どもの教育をささえる体制をとっているか。
 家族や子どもの教育問題が起きないように、一定期間がすぎれば外国人を追い返すシステムを作っていないか。外国人労働者を安い賃金で使い捨てにする。そのために「専門学校」を利用している。それを政府が、裏に隠れてささえているのではないのか。

 経営難で留学生頼み

 という見出しで、関連記事が書かれている。

 近畿地方にあるIT系専門学校は、 300人を超える学生の大半が、アジア圏出身の若者だ。20年以上前は、地元の高校生らが中心だったが、次第に学生が集まらなくなった。外国人に活路を求めるようになったのは10年ほど前という。

 変な話である。日本の「少子化」はわかりきっている。若者が減っているのだから、入学する日本人学生も減るに決まっている。
 それでも閉校もせずに学校運営をつづけているのは何のためか。
 だれかが、外国人を専門学校にいれて、「留学資格」で在留していることにしようと思いついたからではないのか。こういうことは、日本にやってきた外国人が思いつくというよりも、外国人を搾取しようとしている「経営者」が思いつくことだろう。そういう経営者と専門学校の経営者が手を組んだのだ。
 そして、その専門学校という存在が文科省の認可が必要だというのならば、そういうシステムを文科省も見逃すことにしたということだろう。こういうことは文科省だけではできないだろう。
 最初はそれでうまくいった。ところが人手不足がさらに進み、外国人を在留させないといけなくなった。ところが在留させるのにふさわしい「機関」がない。「無資格在留者」が増えてしまった。安倍政権の「失政」が、一般の国民にもわかるようになってしまった。
 それで慌てているのだ。

 ほかの都市は知らないが、いま、私の街ではどこのコンビニへ行っても外国人の店員がいる。外国人がいないとコンビニさえもやっていけない。それくらい人手不足になっている。
 そこで働いている外国人は、どう生活しているのか。給料はいくらなのか。全国調査よりも、身近な外国人に密着取材する方が、現実の問題が明確になるはずだ。
 いま起きているは、労働問題であり、少子化の問題なのだ。そして、この問題は、教育とは切り離して考えることができない。もし日本で働く外国人が増え続け、子どもたちが生まれたとき、その子どもたちの教育をどうするか。大学や高校の「教育費無償化」以上に問題になる。安倍の「差別主義」が隠している問題が一気に噴き出てくる。















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
ttps://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山田一子『龍の還る日』

2018-10-08 20:10:31 | 詩集
山田一子『龍の還る日』(七月堂、2018年09月01日発行)

 山田一子『龍の還る日』に「夏の洗濯」という詩がある。

暑さの限りを鳴き切って果てる蝉
と 同じように過ごした季節の終わりに
成果と少しの後悔を
渦巻く水に放り込んだのだった
右巻きに試行 左巻きに錯誤
現時点の解釈と鑑賞
これからの傾向と対策
進路選択の面談室に西日は容赦なく射して
ホコリ舞う控室で順番を待つとき
名残の夏はまだ迷っていた

 「洗濯」と「選択」。音が同じだが意味が違う。その「違い」を利用して、「選択」を「洗濯」という比喩の中で動かしている。
 詩のひとつの「定型」である。
 私は、こういう詩は苦手である。「意味」が強すぎる。詩は「意味」ではなく、そこにある「もの」そのものだと思う。ことばが「意味」を剥がして「もの(無意味/意味以前)」になるとき、そこに詩が動いていると感じる。
 もし「意味」を詩にするのなら、「洗濯」と「選択」だけではなく、「試行」や「錯誤」の同音異議のことばも探してきてほしい。それができないなら「選択」を「洗濯」などと言い換えたりせずに、「選択」そのものをもっときちんと書いてもらいたい。

 私が好きなのは、「新しい友だち Ⅰ」の次の部分。

向うからくる
「やぁ」と手を挙げるでもなく
満面の笑みでもなく
ただ柔らかな表情で近づき
ある距離でぴたり 止まる
この日はそれくらいの距離で話す
それがここちよいと
私も思っていた

 「ある距離」「それくらいの距離」が具体的には何メートルかわからない。けれどそれを「ある」「それくらい」と言いなおす。あいまいだけれど、その「あいまいさ」がおもしろい。読者にまかされている。このとき、具体的な距離はもちろんわからないのだけれど、山田には「ある距離」「これくらいの距離」とわかっている、ということがわかる。それが気持ちがいい。

この前の続きから
というわけでなく話し始めても
この前まで話してきたことは覚えているから
初めて会った前の時間まで
もしも話題がとんだとしても
だいじょうぶ ついていけるし
まるでその頃から知り合いだったように
相槌も打てる

 この連もいいなあ。「この前」「その頃」は、話している二人にしかわからない。けれど、二人がそれを「わかる」ということが、わかる。
 どうしてだろう。
 誰でもそれぞれが「この前」と「その頃」を「肉体」のなかに持っているからだ。
 具体的には「この前」「その頃」は、「いつ」かはわからない。状況次第で(話している内容次第で)、それは変わってしまう。変わっても「この前」「その頃」は変わらない。「この」「その」と呼ぶしかない何か。それを私たちは、いつでも持っている。そういうことを、「無意味」の強さで教えてくれる。
 好きだなあ。








*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074343


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(92)

2018-10-08 09:27:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
92 認識

 書き出しの「六」の定義がおもしろい。
自らでしか割り切れない数 五でも 七でもなく
二でも 三でも そくざに割り切れる 親しい数 六

 これは高橋が考え出した定義か、それともギリシア人が考え出した定義か。「割り切れる」を「親しい」と言いなおすのは、高橋か、ギリシア人か。
 この「六」は「六オボロス」へとつながり、「死の川」の渡し賃となる。死を考える(連想させる)数。それを「親しい」と呼ぶのは、誰なのだろう。
 「二」と「三」は、それでは、どう言いなおされるだろうか。

それでも 生きたからには 死んだからには 誰でもが
そこへ赴かないというわけにはいかない ギリシア人は
そのことを知っていた 悲観でも 楽観でもなく
いわば 体温も 体重もない 掛け値なしの 認識

 「生きた(生)」「死んだ(死)」と「悲観」「楽観」。対比されるものの、どちらが「二」であり、どちらが「三」か。それは正反対のものだが「数」にしてしまうと、入れ替え可能である。どちらが「二」であり、どちらが「三」でもかまわない。
 この徹底した「論理(認識)」は、たしかにギリシア人のものだろうと思う。
 「生きたからには 死んだからには」の「からには」に、「論理」を一点に集中させていく「力」を感じる。この集中力がギリシアだなあ、と私は感じる。

 世界に存在するのは「生」でも「死」でもない。「論理」である。すべてを「論理」にしてしまう「認識」。
 「地獄」も「極楽」も、単なる関係でしかない。
 しかし、「認識」に「体温も 体重もない」というのはほんとうか。
 私はむしろ「体温も 体重も」も感じる。「生きたからには 死んだからには」の「からには」に、体温も体重も、「肉体」のすべてを集中させていく力(意思)を感じる。

 脱線するが……。
 プラトンの対話篇を読むと、ソクラテスの「肉体」が迫ってくる。他の人物は「ことば」だけなのだが、ソクラテスには「肉体」を感じる。プラトンがプラトン自身を対話篇に登場させなかったのは、プラトンが「肉体」ではなく「ことば」の人だったからかもしれない、と私は想像するのである。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする