詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana(14) Joaquinの繊細な音楽

2018-10-16 22:47:30 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」


きょう紹介するJoaquinの作品。
とても美しい。
悔しいことに、私はこの美しさを表現するためのスペイン語を知らない。
私が書きたいのは、「静かさ」についてである。

「静かさ」を表すスペイン語は、私は「silencio」しか知らない。
しかし、日本には「静かさ」を表すことばがたくさんある。
「静寂」「静閑」「静謐」さらに「しずか」というひらがな表記もある。
「ひそやか」ということばもある。
「沈黙」ということばもある。

この作品を見たとき、私が感じるのは、どの「静かさ」だろうか。
うまく言い表すことができない。
「静」という文字を含んだ「静影」ということばを、ふと思いつく。
それがいちばん近い。
でも、「静影」を表すスペイン語があるのだろうか。
わからない。
だから、違うことばで感想を書くしかない。

いま、ここで踊っているのはなんだろう。
光だろうか、風だろうか。
鉄の彫刻なのに、鉄ではないものを、私は先に感じる。
これは鉄の「静影」なのだ。
鉄が影になって踊っている。
音楽に合わせてではなく、自分たちで音楽を演奏しながら。
そのひそやかな音の響き。

でも、何の影に?

鉄は強い。
細い一本の線になっても、強さを保っている。
薄く引き延ばされても、強い。
曲げられても、強い。
折れることはない。
そういう「強さ」そのものの、ことばにならない何かの影である。
静かに自分を守って生きる力が、新しい形のなかで、喜びの呼吸をしている。
その呼吸が踊っている。


今度も、グーグルの翻訳に任せてみる。
スペイン語にはならないだろうけれど。

(Traduccion por google.)

Obra de Joaquín.
Es muy hermoso
Lamentablemente, no sé español para expresar esta belleza.
De lo que quiero escribir es de " silencio ".

En español por " silencio ", solo conozco "silencio".
Sin embargo, hay muchas palabras que expresan " silencio " en Japón.
「静寂」「静閑」「静謐」 También hay una notación hiragana llamada 「しずか」.
También existe la palabra 「ひそやか」.
También existe la palabra 「沈黙」.

Al ver este trabajo, la " silencio " que siento es lo que siento.
No lo puedo expresar bien.
Se me ocurrirá la palabra "sombra(影) silencio(静) " que contiene la palabra " silencio (静)".
Eso es lo más cercano.
Pero, me pregunto si hay español para "静silencio影 sombra".
No lo se
Entonces, tengo que escribir mis pensamientos con diferentes palabras.

Lo que está bailando aquí ahora.
Ya sea luz o viento.
Aunque es una escultura de hierro, siento las cosas que no son hierro primero.
Esta es la "sombra de hierro" del hierro.
Hierro bailando en la sombra.
Durante la reproducción de música, no en sintonía con la música.
El sonido de ese sonido suave.

Pero ¿qué es la sombra?

El hierro es fuerte.
Incluso si se convierte en una sola línea delgada, mantiene la fuerza.
Incluso si está ligeramente estirado, es fuerte.
Incluso si está doblado, es fuerte.
No se romperá.
Es la sombra de algo que no son palabras, de tal "fuerza" en sí misma.
El poder de vivir protegiéndote silenciosamente es respirar con alegría en una nueva forma.
Esa respiración está bailando.

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estoy loco por espana(13) Javier Messia

2018-10-16 07:39:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」


Javier Messia (en Madrid)がロンドンで展覧会を開きます。10月19日から21日。ロンドン旅行中の人はぜひお立ち寄りください。

Javier Messiaの作品を、私はたくさん見ているわけではないのが。
特徴は繰り返しである。
繰り返しは、同じものを繰り返す。
ポスターの作品は四角形を繰り返している。
同じものを繰り返すのだが、繰り返しは同時に差異を含む。
四角形は、微妙に違う四角形である。
この変化が、一回限りのリズムを生み出す。
作品の中で生まれ、消えていくオリジナルなリズム。
これに色彩の変化が加わる。
音楽の和音のように、重なりながら旋律をつくる。
目で聴く音楽。

(以下はグーグル翻訳)

No veo muchas obras de Javier Messia.
La característica es iterativa.
La repetición se repite ya que repite lo mismo.
El trabajo del cartel ha repetido cuadrados.
La repetición incluye diferencias al mismo tiempo.
Un rectángulo es un cuadrilátero ligeramente diferente.
Este cambio crea un ritmo único.
Ritmo original nacido y desaparecido en la obra.
Los cambios en el color se añaden a esto.
Como un acorde de música, haga una melodía mientras se superponen.
La música que escucho.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(100)

2018-10-16 02:48:42 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
100  贈物

好色なソクラテス いやプラトン
クセノポンですらない ただの少年愛者
二丁目アテナイの夜の迷路を ほっつき歩いて

 と詩は始まる。しかし、どこにも具体的なことは書かれていない。ソクラテス、プラトンに「好色な」という修飾語をつけても、ソクラテス、プラトンが好色な人間になるわけではない。だから、私も「好色な」人間にはなれない。「好色な」という形容詞が意識を整理するだけである。高橋は、「好色な」ということばをつかっていることはわかるが、どういうことを「好色」と感じているか、そのことばといっしょに「肉体」がどう動いているかわからない。
 「迷路を ほっつき歩」くこと、と言いなおしている、と高橋は言うだろう。しかし、これでは「迷路」の構造がわからない。扉は右にあるのか、左にあるのか。あるいは階段を上るのか、降りるのか。人とすれちがうとき、誰かが壁に背中をくっつけて道を譲るのか。逆に、すれ違いざまに体に触れるのか。それを楽しむために、わざと「ほっつき歩く」のか。そのとき、高橋自信の「肉体」のなかで、欲望の迷路はどうかわるのか。
 そういうものを書いてもらいたい。

その彷徨から貰った知恵は 古代ギリシアの
それより はるかに深い すくなくとも
はるかに細かな陰翳に富む と自ら言い訳

 「はるかに」が二回繰り返されている。「はるかに」ということばを書きたかったのか。書くことで、高橋自身を「はるかな」ところへ運んで行きたかったのか。しかし、繰り返されることで「はるかな」は退屈な意味になってしまう。
 「細かな陰翳に富む」という表現には、どんな陰翳もない。「陰翳」ということばがあるだけだ。そのことばで高橋が具体的に何を、いま、ここに呼び出そうとしているのか。それがわからない。

 「言い訳」は、いつでも「整えて」提出される。整えられた「言い訳」など聞きたくないなあ。整えることのできない「妄想」をこそ聞きたい。「妄想」に苦しむのか、「妄想」にもだえ、喜ぶのか。どちらでもかまわない。「こんなことを妄想して生きるなんて」と高橋を批判しながら、こっそりその「妄想」をのぞき、ぞくぞく、わくわくする、という興奮を味わいたい。求めているか、拒みたいのか、どちらかわからない、というのが欲望の迷路だと思う。


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