詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『赤牛と質量』

2018-10-31 23:32:37 | 詩集
小池昌代『赤牛と質量』(思潮社、2018年10月25日発行)

 小池昌代『赤牛と質量』。「ジュリオ・ホセ・サネトモ」の終わりの方に、こういう行が出てくる。

心はちぎれ 海にくだけ
そのかけらが
韓国・ポエトリーフェスティバルの夜のテーブルのうえ
言葉で十全には通じ合えないわたしたちを
音楽のようにとりまいている
わずかにわかりあえた瞬間にだけ
指先に触れた ごつい荒縄
潮をかぶった
綱手
かなしも

 詩とは「わずかにわかりあえた」もののことだろうと思う。いつでも「すべて」をわかりあえるわけではない。けれどある瞬間、それは「指先に触れ」る。私のことばで言いなおすと「肉体」に触れる。それは、もちろん「誤解」を含めてのことである。「誤解」をふくむものだからこそ「わずかにわかりあえた」と言うしかない。
 私がいまこう書いていることも、私がかってに「触れた」と感じ、「わかった」と感じていることであって、この文章を読んで、小池が「わかりあえた」と言ってくれる保証はどこにもない。
 でも、それでいいのだと私は思っている。
 「釣りをした一日」の書き出し。

生涯に二度
釣りをした
二度目は 一月 厳冬の
格別美しくもない川のほとり
男二人と女一人
早朝に作った 三人分のお弁当の
おにぎりにまぶした金ごまがナマだった

 まだ小池は若いから、釣りが本当に「生涯に二度」かどうかはわからない。これまでに二度、という意味だろう。でも、「生涯に二度」と書くと、世界が完結するからおもしろい。その完結のなかから「おにぎりにまぶした金ごまがナマだった」が、無意味そのものとして飛び出してくる。
 私はそれに「触れて」しまう。「おにぎりにまぶした金ごまがナマだった」という「事実」は、この詩の展開 (ストーリー) に影響を与えるわけではない。おにぎりの具がサケであっても、展開はかわらない。しかし、だからこそ、その「無意味さ」が「事実」としてくっきりと存在し続ける。「無意味な事実」こそが詩である。つまり、ストーリーに組み込まれずに、いま、ここに、たしかに存在するものとなる。
そうした一行は、また別な形をとることがある。「しくじりの恋」の書き出し。

路上に舞い降り
群れる雀のなかの
ただ一羽の雀をよりわけられない
そのように
人間のなかの
ただ一人の人間を
よりわけられない巨大な眼
そこに映る人間世界を想像する
朝の電車に揺られながら

「巨大な眼」で終わらずに、「そこに映る人間世界」と想像を広げていく。これは「ことば」があってはじめて可能な事柄である。ことばがつくりだす「事実」と言ってもいい。いままで存在しなかったものが、ことばといっしょに、そこに存在し始める。その存在に「触れる」と同時に、「存在し始める」ということに「触れる」。
 そのことばがこれから何になるのか、わからないまま、突然、いま、ここに「実在」しはじめる。こういうことを「実存」というのかな?
「けんちん汁を食べてってください」の最後も美しい。

けんちん汁が差し出された
新幹線の先端のような表情で
ふうふう 食べた おいしかった
あっけないほど 早く食べ終えた
浮生という言葉が李渉の漢詩にある
はかない生という意味だそうだ
その字義どおり
生は浮いている
けんちん汁を待っているあいだ
わたしは何者でもなく この世に在った
在ったというより浮いていたのだ
心の上半分が 浮世の水面に
あれを幸福と呼ぶのだろうと思う

 ことばを「統一」させようとしていない。ふっと動く、その瞬間を待って、それが壊れないようにしてつかまえている。
 余裕のある詩集だ。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(115)

2018-10-31 08:00:27 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
115  アマーストのサッポーに

 この作品には「白熱した魂を見たい?--E・ディキンスンに」という「副題」のようなものが書かれている。ディキンスンに捧げられた詩である。高橋は、ディキンスンを「アマーストのサッポー」と呼んでいる。
 高橋はディキンスンの墓を尋ねる。でも「そこにあなたはいなかった」。ディキンスンは、では、どこにいるか。詩のなかにいる。

それらの詩が書かれたのがあなたの庭なら そここそがあなたの永遠の栖み家
私は八日の間 その庭に毎日遊んで 庭の記憶でいっぱいになって帰ってきた
帰ってきて 私の庭に椅子を出して くりかえしあなたの詩篇を復唱した
いまではたぶん私の庭があなたの墓 遠いあなたの庭と一つづきの

 ディキンスンの庭と高橋の庭が「一つづきになる」。「一つになる」のではなく、「つづき」。
 これは、これまで読んできたモーツァルト、キイツ、シェリー、ポーについても言えることだ。高橋は彼らと「一つ」になることはない。あくまで「つづく」(つながる)のだ。そして、その「つづき」(つながり)のなかに、いくつものギリシアが浮かび上がる。その彼ら独自のギリシアと高橋は「遊ぶ」。そこにある「違い」と喜ぶ。
 「違い」があるということは、ギリシアが「ほんもの」だからである。どんなものでも、それに対する「思い」というものは、どこかしら「違い」を含んでいる。もし、「思い」が完全に一致するなら、それは「ほんもの」がもたらす思いではなく、「嘘」が「思い」を統一しているからだ。
 「新約聖書」はキリストの目撃証言集とでも言うべきものだが、同じキリストを見ているのに、少しずつ「違う」ところがある。これはある意味では、実際にキリストがいたということを証明する。もしまったく違いがなかったら、それは最初からつくられた「嘘」である。ことばは、それぞれがつかうから、どうしても違ってくる。同じものがコピーされるとしたら、「嘘」だからである。
 「新約聖書」がキリストと「一つつづき」であるように、高橋が取り上げた詩人たちはギリシアと「一つづき」なのである。その「一つつづき」のなかに高橋は分け入っていく。「一つつづき」になろうとしている。

 高橋の書くギリシアは、彼らの描くギリシアと違ったものを含んでいる。だからこそ、ギリシアは確実に存在する。










つい昨日のこと 私のギリシア
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