詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

過ぎ去った

2018-10-19 22:42:24 | 


過ぎ去った(ペドロの写真に寄せて)

過ぎ去った
怒りが
過ぎ去った
嫉妬が
過ぎ去った
嵐と太陽が

壊れた
愛が
壊れた
憎しみが
壊れた
窓も椅子も

消え去った
欲望が
消え去った
悲しみが

けれど
残っている
きみの指に触れた、あの
時が


se pasó (a la foto de Pedro).

se pasó
la ira
se pasó
el celo
se pasaron
lluvia y sol

se rompió
el amor
se rompió
el odio
se rompieron
las ventanas y sillas

se desvaneció
el deseo
se desvaneció
la tristeza

pero
permanece
tiempo
cuando toqué tus dedos.....

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(103)

2018-10-19 00:22:49 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
103  何十年ぶり

 この詩も「記憶」を書いている。

今朝 何十年ぶりに きみの噂を聞いた
全くの孤独のうちに死んでいた という
あんなにも熱く 睦言や抱擁を交わしたきみ
それなのに むごたらしく裏切ったきみ

 「噂を聞いた」と書くが、噂はそっけない。むしろ、噂を聞いて「思い出したこと」が書かれている。
 それは噂のなかには含まれないものである。
 噂よりも、思い出の方が重要なのだ。思い出がなければ、噂を聞いても、それは耳を素通りしていく。しかし、思い出は通りすぎたりはしない。「肉体」をひっかきまわす。「肉体」をあのときへと連れて行く。
 それは「裏切り」よりもむごたらしく、同時に甘く、切ない。思い出はいつも矛盾している。整理できない。

あの悦ばしかった夜夜 苦しかった日日が
何十年ぶりに 急に近いものになった

 「悦ばしい」と「苦しい」が結びつくときよりも、「遠い」と「近い」が結びつくときの方が、矛盾として大きいかもしれない。「悦ばしい」「苦しい」は「主観」なのに、「遠い」「近い」は「客観」である。「遠い」「近い」は「客観」としてあらわすことができる。この詩では「何十年」というあいまいなことばでしか書かれていないが、「年月」の長さは客観化できる。それなのに、その「客観」を「主観」が否定し、「遠い」を「近い」にしてしまう。主観は、そのようにして「事実」になる。

 後半は、この美しい「事実」を、まったく違うことばでかき消してしまう。
 後半に、高橋のいまの「事実」があるのかもしれないが、せっかく近づいてきた「過去」を抱きしめないのはなぜなのだろう。
「主観」を知られたくない、という思いが高橋にあるのかもしれない。それは大事な大事な宝なのである。


 










つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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