詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本純子『きつねうどんをたべるとき』

2018-10-12 12:09:59 | 詩集
山本純子『きつねうどんをたべるとき』(ふらんす堂、2018年10月08日発行)

 山本純子『きつねうどんをたべるとき』に「いいことがあったとき」という楽しい詩がある。その感想はすでに書いたことがある(と思う)ので、違うことを書く。
 今回の詩集を読みながら、「長いなあ」と感じた。
 たとえば「あのひと」。

あのひと
こどものころ
たべてたんじゃない
あのビスケット

ヒツジとか
ラクダとか
いろいろ あったでしょ

ライオンたべるとき
えいっ って
わざと はをたてなかった?

あのひと きっと
こどものころ
ナマケモノばっかり
えらんで たべてたのよ

という
あのひと とは
わたしのことです

 三連目、ライオンを食べる描写が楽しい。だから、詩はここでおわってもいいんじゃないかなあ、と私は思う。
 そのあとナマケモノが出てくる。あ、そうか。ライオンを食べるとき、「えいっ」という気持ちで食べるのを見ながら、ナマケモノの気持ちでそれを見ていたのか。
 ここで終わるのも、それなりにおもしろいなあ。
 ところが、詩はさらにつづいていく。

たしかに わたしは
砂漠で荷を負う
ラクダより
密林の樹に
ぶらさがっている
ナマケモノの方が好きです

ただ
あのビスケットに
ナマケモノは入っていませんでした

入っていなかった
ナマケモノを
ずっと口の中で
かまずに なめていると
あのころも 今も
知らないうちに
日が暮れているのです

 きちんと「結末」が語られる。「ずっと口の中で/かまずに なめていると」はライオンを食べたときのこと思い出させて、詩の「きまり」をまもっている。「ずっと」という副詞がとても効果的だと思う。
 でも、「理屈」になってしまっているなあ、と感じる。
 最後の「余韻」のつくり方に感動する人もいると思うけれど、私は「定型」だなあ、と感じてしまう。
 「とびばこよりも」という詩を引用する。

とびばこ
よりも
馬とびがすき

だれか
馬とびしませんか

さきに
馬になってくれたら
わたしが
つぎに馬になります

じゃあ もうすこし
ひくくなってね
と いろんなひとに
こえかけて

とびつとばれつ
とびつとばれつ
とんでいったら
もう
そつぎょうのひに
なりました

 この詩、私が好きなのは、どこだと思いますか? ここで終わればいいのに、と途中で思ったと思いますか? それとも、この詩はここで終わり? オチ(つづき)はないの? どう思います?

 でも、まあ、山本は気づいているのかもしれない。「きつねうどんをたべるとき」。

きつねうどんをたべるとき
きつねのことをかんがえる
たぬきとばけくらべをして
けっきょくどうなったのか
はなしのとちゅうでいつも
ねむってしまってしらない

きつねうどんをたべるとき
きつねがまんまとかったか
きくためにおばあちゃんと
ふとんにはいるところから
やってみなくちゃとどうも
ねぎがはにはさまるのです

 この詩の終わりに書いてあるが、どうも「ねぎがはにはさまった」感じがしてしまう。この「違和感」が「肉体」を感じさせておもしろいといえばおもしろいが、さて、私はきつねうどんを食べたかったのかなあ(きつねうどんううまかったのかなあ)、それともきつねうどんを食べたときに感じる別なことを実感したかったのかなあ、と少し立ち止まってしまう。立ち止まることが「現代詩」だとしても、自然に生まれた詩ではなく、作られた詩かもしれないなあ、と疑問にも思うのである。
 この作品の二行目に「かんがえる」という動詞が出てくる。「考える」ことで持続する詩、「考え」が答えに達するまでつづく詩なんだなあ。「つづく」から「長く」感じるのだと思う。
 私は、以前の「声が響く」詩の方が好きだなあ。










*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(96)

2018-10-12 09:27:42 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
96 二十一世紀のロレンツォ風

 「ロレンツォ」は何を意味しているのだろうか。

反自然という自然も 超自然の贈りものには違いないからには
すなおに受けとって娯しむのに なんの憚ることがあろうか

 「反自然」なものであるらしい。しかし、これを「超自然」と定義し直している。そしてそれを「娯しむ」という動詞で引き継いでいる。「娯しむ」というのは、どういう動詞だろうか。「憚ることがあろうか」と言いなおしているのは、「自然」の見方からすれば「憚る」べきたのしみということになる。
 たのしんではいけないものがある。しかし、そういう「禁止」は意味がない。なぜなら、それは「超自然」、つまり「掟(禁止/してはならない)」をも超えたものだからである。「掟」を超えることによってはじめて手に入る何か。「掟」を超える特権を持つものだけに許される何か。
 それをたのしむとき、たのしむ人は「超自然」になる。「超人間」になる。人間を「超える」のだ。

してはならない唯一のことは 折角の贈りものを突き返すこと
限りある時間に与えられたものを娯しみ尽くせと 作られた私たちだ

 主語は「私」ではない。「私たち」。複数である。しかし、無数の「複数」ではない。「私と相手」。二人で「娯しむ」。ふたりだけの、いわば秘密を「娯しみ尽くす」。
 「尽くす」と「超える」がひとつになる。
 これは、矛盾である。「尽くす」というのはなくなるということ。なくなってしまえば「超える」ということもなくなる。
 しかし、矛盾だからこそ、真実でもある。矛盾としてしか言い表せないことがある。矛盾が存在する。それこそが「超自然」ということだ。
 「尽くす」は「我をなくす」ということ。「我を忘れる」ということ。そこには「我」などない。あるのはただ「たのしさ」というあまりにも人間的な何かだけがある。






つい昨日のこと 私のギリシア
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