詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金野孝子「待ちながら」

2021-10-12 10:15:15 | 詩(雑誌・同人誌)

金野孝子「待ちながら」(「ミて」156、2021年9月30日発行)

 読み始めてすぐにそこに書かれていることばに引きつけられ、一回読んだだけで意味は完全にわかる(わかったつもりになる)のに、繰り返し繰り返し読んでしまう詩がある。金野孝子「待ちながら」が、そういう作品。一読して、こういう世界を知っていると思う。ここには知らないことではなく知っていることが書かれている。しかし、その知っていることを何度も何度も確かめたいのだ。ほんとうは何も知らない、ということを確かめるために。知っているといえることなど、この世界にはないのだと確かめるために。

〈帰る〉
この言葉をわすれたのだろうか
三・一一に まっ黒い波と
行ったままのKちゃん
もう 十年が経った

あの日の幾日か前
その洋品店は
いつものように平和だった
「このブラウス着てみで」
「派手だよ もう傘寿だもの」
「大丈夫だぁふたりィ百歳(ひゃぐ))で
生でるべし」

袖を通しながら
姿見に歳をわすれたひととき
ふたりの弾む話に
遠くはないけれど未来があった

ああ 会いたい
そうだ あの日のお店を覗こう
それは 洋服ダンスから
俄かに 私を招くブラウスたち
彼女の笑顔で 彼女の声で

〈Kちゃーん どごさいるのォー
はやぐ帰ってきてェー
これがらさァ
あんだァ着せでけだ服ばり着て
待ってるがらねァー〉

彼女につつまれながら
〈帰る〉日を
今日も わたしは待つ

 「待つ」は金野に限らず、震災で被害を受けた多くのひとに共通する動詞だろう。わすれたわけではない。でも、わすれたように過ごしてしまうときがある。そして、ふたたび思い出す。ああ、十年もたったのだ、という別の「感情」とともに。
 この書き出しで、私は、私の「帰る」という動詞、「わすれる」という動詞が微妙に違っていることに気づかされたのだ。私は東北大震災を「帰るという言葉をわすれる」という形で受け止めたことがなかった、その二つのことばのつながりにむけて想像力を働かせたことがなかった。しかし、それは存在する。まず、それを知らされる。
 私は傍観者にすぎない。だかち、ここでは「ああ」というような嘆息が漏れる。でも、それだけなら何度も何度も繰り返し読まないだろう。
 私をほんとうにとらえているのは、どのことばだろう。「帰る」「わすれる」よりも、もっと強烈に響いてくる「ことば」があるのだ。

遠くはないけれど未来があった

 この「未来」とは「百歳」のことである。傘寿のふたりが「百歳」のことを語っている。他人から見れば、八十八歳の老人が百歳を話題にして「未来」があるというなんて、こっけいなことかもしれない。そして、それがこっけいであることを、やはりふたりは知っている。知っているけれど、それを「未来」と呼ぶ。そのとき「未来」には、何か、いままで私がつかってきたことなのない「独自の意味」が含まれる。その「独自性」に私はひきつけられる。ここに書かれている「未来」、しかも「遠くはない/未来」というものがある。この「遠くはない」がまた複雑である。二人にとって百歳まで生きたとしても、その十二年間は「短い」。「長い=遠い」ではない。それでも、「未来」なのだ。そして、それは誰にでもあるのだ。
 「未来」とは「遠い彼方」ではない。
 「未来」とは「あす」でもあるのだ。「いま」とつづいている。その感覚。大震災によって「未来」が奪われたのではなく「いま」が奪われた。それは十二年先ではなく、あすが奪われることだったのだ。そしてそれは「つづいている時間」の「つづいている」が奪われることだったのだ。「つづいている」が「未来」なのだ。
 別のことばで言いなおしてみる。この「未来」の前に「わすれる」ということばがある。「歳をわすれたひととき」。「歳をわすれる」は「いまをわすれる」である。「いま」が無意識の内に「あす」へとつながっている。「いま」の自然な充実が、そのまま「あす」になつがる。この楽しい気持ちの「つづき」。
 この「つづき」の感覚。
 それは「未来」とだけつながるのではない。
 金野は友人と派手なブラウスでつづいている。つながっている。それはある日とつながっている。つながっているからこそ、そのブラウスを着れば、またつながれるという思いがあふれてくる。
 「待つ」という動詞が後半に繰り返される。「待つ」は「わすれない」でもある。このとき、「未来」のように自然にあふれている金野の充実。悲しみを充実といってしまうのはいけないのかもしれないけれど、ここには、ああ、生きているというのはいいなあという感じがある。感じがつづいている。
 「待つ」は「つづける」ことでもあるのだ、と書き続けると、おわりがなくなる。

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年8、9月合併号を発売中です。
200ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2002171">https://www.seichoku.com/item/DS2002171</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする