「司法」の問題は、ふつうに暮らしている限り、私には親身に考えることがむずかしい。自分が裁かれるということを考えて行動しないからである。罪を犯さない限り、裁かれない。簡単に言えば、何か盗んだり誰かを殺したりしなければ、逮捕されたり、裁判にかけられることもない。親から言い聞かされたことを守っていれば、縁のない世界である。他人が裁かれるのを見ても、自分のことではないので、親身に考えることができない。重大犯罪が起きたときは、それなりの関心をもって裁判の行方を見守るが、それにしたって自分が同じことをして同じ判決を受けるかもしれないという感じではない。簡単に言いなおすと、ぴんとこない。
そんな私に、改正草案の狙いの何がわかるだろうか。わからないままに書いてみる。
(現行憲法)
第六章 司法
第76条
1 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
(改正草案)
第六章 司法
第76条(裁判所と司法権)
1 全て司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、設置することができない。行政機関は、最終的な上訴審として裁判を行うことができない。
3 全て裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。
仮名遣いをのぞけば、2項の「終審」が「最終的な上訴審」と書き換えられている。なぜ? ともに最高裁での裁判を意味すると思うが、なぜ「上訴審」に書き換えるのか。「上訴審」でなければ行政機関は裁判をおこなうことができるという制度にするための「伏線」なのだろうか。
(現行憲法)
第77条
1 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
(改正草案)
第77条(最高裁判所の規則制定権)
1 最高裁判所は、裁判に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2 検察官、弁護士その他の裁判に関わる者は、最高裁判所の定める規則に従わなければならない。
3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
第2項。「検察官」が「検察官、弁護士その他の裁判に関わる者」と拡大されている。最高裁が弁護士に注文をつけることができるようになる。弁護士が「新証拠」を見つけ出してきても、検察官が証拠として認めることを拒否しているから、証拠として採用できない、というようなことが起きるかもしれない。
現行憲法が「検察官」としか言っていないのは、裁判というものが基本的に検察官が持ち出すものであり、弁護士側が提起することではないからだろう。提訴されたひとを守るのが弁護士である。提訴されない限り、(裁判がはじまらない限り)、弁護士が必要になるということは、ふつうの人間にはありえない(と、思う)。提訴されていないのに弁護士を必要とするひとは、提訴される可能性をもったひとである。そこから考えても、検察官と弁護士を「同列」にしてしまうことには、なにか、重大な問題があると思う。改憲草案は、弁護士の活動を規制したいのだろう。弁護士が独自の活動をすることを規制したいのだろう。
この問題は、実際に、弁護士がどういう活動をしているのかわからない私には、どんな問題があるのか、具体的にはさっぱりわからない。弁護士が、この問題について、どういう批判をしているのか、それを知りたい。
(現行憲法)
第78条
裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
(改正草案)
第78条(裁判官の身分保障)
裁判官は、次条第三項に規定する場合及び心身の故障のために職務を執ることができないと裁判により決定された場合を除いては、第六十四条第一項の規定による裁判によらなければ罷免されない。行政機関は、裁判官の懲戒処分を行うことができない。
「公の弾劾(裁判)」をわざわざ「第六十四条第一項の規定による裁判」と書き直しているのはなぜなのか。「第六十四条第一項」には「公」ということばがない。「非公開」で裁判をすることを狙っているのだろうか。
後段の、現行憲法の「裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない」を、改正草案では文章の上下を入れ換えて「行政機関は、裁判官の懲戒処分を行うことができない」としている。
これは、単なる「表現」の問題ではない。「意味」が同じになるから、それでいい、という問題ではない。改憲草案では、このテーマと主語の混同というか、入れ替えのようなことが起きている。「テーマを見えにくくする文体」が採用されている。「これを保障する」の「これを」を削除するようなものである。
第78条のテーマは「裁判官の身分保障」である。現行憲法はそのテーマを意識しているから「裁判官の懲戒処分は」と書き出す。ところが改憲草案は「行政機関は」と書き出す。テーマは二の次になり、「主語」が突然あらわれる。その「主語」は「主役」ではない。第78条の「主役」は裁判官である。「主役」がわきに押しやられ、行政機関が「主役」のようにふるまう。これが、改憲草案の狙いである。
改憲草案の「主役」は「行政機関(政府)」である。これは、一貫している。第9条でも国民をおしのけて、突然「内閣総理大臣」が「主語」として登場している。政府が国民、国会、司法を支配するための改憲草案であることが、ここからも証明できる。もし「裁判官の身分保障」がテーマであるのならば、わざわざ文章の前後を入れ換える必要はない。同じことを言うのなら改正しなくてすむ。改正しているからには、そこに狙いがあるのだ。
ことばには、いろいろな「意味」がある。「論理」がある。「運動/活動」としての「論理」もあれば、「主語」としての「論理」もある。一冊の本がある。AからBに所有権が移る。AがBにやった。BがAからもらった。「主語」がかわると動詞がかわるときがある。「本」を主語にすると本がAのものではなくBのものになった、という形にもなる。どの文章を書くかということの「奥」には意識の違いがある。「意味」とは客観的な意味のほかに主観的な意味がある。憲法にも「主観的意味」がある。改憲草案は「憲法は国が国民を支配するためのもの」という「主観的意味」で貫かれている。これは現行憲法の「憲法は国民が国の動きを拘束するためのもの」という「国民主体の意味(国民の主観的意味」と正反対のものである。
改正草案の狙いは、「国民主権」の否定である。それが「文体」としてあらわれている。「意味」と同時に「文体」に注目しないといけないのだ。「文体」そのものに「重要な意味」があるのだ。