青柳俊哉「石」、池田清子「ピカソ」、徳永孝「カーテン」(2021年10月04日、朝日カルチャーセンター福岡)
カルチャー講座受講生の作品。
ピカソ 池田清子
「本作品は 実在する人物も登場するが
すべては自由に脚色されたフィクションである
アーティストや遺族及び関係団体と本作品は無関係である」と
映画「モディリアーニ 真実の愛」
の タイトルの後にテロップが流れる
しかし 私は
映画の中の真実を信じてしまうのだ
すでに成功し富も名声もあるピカソが
まだ売れないモディリアーニの才能をうらやみ、やっかみ
彼を挑発して落としめプライドを傷つけるのだ
ピカソが嫌いになってしまった
老いた 神 ルノワールの所へ連れて行くのは
ピカソなりの叱咤だったかもしれない
モディリアーニが亡くなった後には
人間らしい表情も見せる
しかし、
ヒールのピカソ役があまりにもうまくて
フィクションだとわかっていても
私は、やっぱり今でも ピカソが嫌いだ
書き出しの「本作品は……」というのは、映画の最初に流れるテロップ。こういう「他人のことば」が詩のなかに必要か。意見が分かれるかもしれない。池田のこの作品の場合は、必要だろう。二連目に書いてあるように、池田は「映画の中の真実を信じてしまうのだ」。
この「真実」ということばのつかい方は、かなり微妙である。映画に描かれていることが、池田にとって「真実」になった、ということだ。
ひとはどんな「事実」も「事実」そのものとして客観的に受け止めるわけではない。「事実」を「真実」として受け止めるか、「虚偽」として排除するかは、ひとそれぞれによって違う。だからこそ、映画にしてもさまざまな描き方が可能ということだろう。
池田は、私が「虚偽」と呼んだものを「フィクション」ということばで語っている。最初のテロップにも登場することばだ。「事実」を真実にかえる力が「フィクション」である。
そうであるなら、その「フィクション」の力を詩に活用する工夫もしてみるのも、ことばの世界を広げることになるかもしれない。
*
カーテン 徳永孝
カーテンのくまさん
ダンスダンスダンス
1ぴき 2ひき
3・4 5ひき
6ぴき 7ひき
8ぴき 9ひき
10ぴきのくまさん
みんなでダンス
ダンスダンスダンス
えーっと次は何びき目だっけ?
そう!
11 ひき 12 ひき
13ぴき 14ひき
15 16 17ひき
18ひき 19 ひき
もう数えるのあきた
たくさんのくまさん
みんなでダンス
ダンスダンスダンス
徳永の詩では「事実」と「フィクション」はどういう関係にある。クマの描かれたカーテン。何匹もいる。それを子どもたちが数えている。数えることを覚え始めたころの子どもである。十まではわりと簡単。しかし、その先は? すこしむずかしく感じる子どももいる。そういう子は、どうするか。必死になってついていくということがある。また「もうあきた」と数えることをやめてしまう子もいる。もちろんほんとうにあきた子もいる。その「事実」をどうやって「フィクション」で整理し、わかりやすくするか。同時に楽しい感じにことばを動かすか。
単純に「1ぴき 2ひき」とつづけていくだけではなく「3・4 5ひき」と「ひき」を省略したり、「11 ひき 12 ひき」のように数字と「ひき」のあいだに「あき」をつけることで読み方(数え方)のリズムに変化を出している。これは「事実」かもしれないし、「脚色(フィクション)」かもしれない。しかし、「フィクション」であることが気にならない「フィクション」である。
「脚色」によって、現実がより鮮やかになっている。「脚色」することで楽しさが倍増していると言える。
*
石 青柳俊哉
冬ざれの野に隕石がふる
かくされた世界の符号のように
石の階段がうねるように上り 最上部の塔のうえの
時計がとまる 針先は円形の文字盤の上方
水のように朱色がながれる空を指す
ひそかにひらく雲間の月かげから
枯葉や蝶の羽が石の頬や手にふりかかる
それらを身に敷く石にとって 生はすべてが
落下するこの世界で 凍てついていくいとしいものの
たえまなく上昇を強いるものへの
円的な運動である 氷結する針先の
肌触り 閉じていく石の温もり
青柳の作品は、ことばによる「フィクション」のなかにこそ、「事実の動き=真実」があるということを目指して書かれている。「かくされた世界」ということばが出てくるが、ことばは「かくされた」ものを明らかにする。そのかくされたものというのは、ことばにしないかぎり「見えない」(存在しない)もののことである。たとえば意識。精神。だれにでも意識、精神はあるが、それは「ことば」にして語られないかぎり、他人には存在しているかどうかわからない。他人には伝わらない。
高みから落ちてきた隕石。それは落ちてきたことを知らない人間には石にしかすぎない。しかし、隕石に「意識」があるとすれば、たとえばどんな「意識」だろう。「落下してきた」ものは再び「飛翔する」ことを夢見ているかもしれない。落下し、上昇する。それを繰り返すと「往復」ではなく「円環」になるときがあるかもしれない。時計のように、何もかもが「円環」する。そういう思想を「フィクション」を利用しながら語っていると読んでみるのはどうだろうか。
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