詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『白い闇』雨沢泰の訳文

2021-10-23 17:08:59 | 詩集

『白い闇』雨沢泰の訳文

 

 雨沢泰訳『白い闇』(NHK出版、2001年2月25日第1刷発行)の「まずさ」について何回か書いてきたが、また気づいたことがあるので書くことにする。私はNHKのラジオ講座入門編をまだ卒業できない程度の能力しかないが、そういう人間が見てもおかしい、という部分がある。

 きょう触れるのは、この小説の最初のクライマックスの伏線になる部分。主人公の女が鋏について思いめぐらしている。鋏は凶器(武器)になる。ただし、それは目が見える人間がつかったときである。目が見えない人間が鋏をふりまわしたら危険は危険であるけれど、確実な武器としての効力を発揮できるとは限らない。鋏をつかうには、視力があることが大前提である。狙いを定めなければ、武器にはならないかもしれない。

 状況としては、主人公たちが収容されている精神病院で、泥棒グループが結成された。ボスはピストルを持っている。目が見えなくても、発砲すれば、誰かが死ぬ可能性がある。この泥棒組織からどうやって身を守るか。さらに食料を支配されている状況をどう変えていくか、ということを考えている。

 鋏をつかえば何かできるのではないか。主人公の女は、そう考えている。

 その部分は、こうである。

 

no podrá hacer él, lo podría hacer yo

 

 「poder (できる)」という動詞が、二種類に活用されている。「podrá 」は「未来形」、「podría」は「過去未来形」と奇妙な呼ばれ方をすることもある形。スペイン語には「直接法」「接続法」と呼ばれる「表現形式」があるが、問題の「podría」は「可能法」とでも呼んだ方がいいのかもしれない。「直接法」「接続法」の「あいだ」の「動き」をあらわすものと考えると分かりやすいと思う。

 この部分を、雨沢は、

 

彼にできないことが、私にはできる

 

 と訳している。(167ページ)

 

 「私にはできる」と断定しては、意味が違ってくる。彼は目が見えない。だから、できない。もしかしたら「できる」かもしれないが、できないと考えるのが自然。ところが、私は「できる」ではなく「できるかもしれない」なのである。やろうと思えば、できる。しかし、それを実行するかどうかはわからない。五分五分といっていいかどうかわからないが、彼女は、そのことで悩んでいる。やるとしたら彼女しかできない。しかし、それをやるには大変な決断がいる。するかどうか、わからない。

 この逡巡を明確にするために、スペイン語の文章は、動詞の形をかえてあらわしている。このわざわざ動詞の形を変えて言っている部分を訳出するときは、日本語の方もやはり違った形にしないと意味が通じない。

 私なら、

 

彼にできないことが、私にはできるかもしれない

 

 と「かもしれない」をつけくわえる。まだ実行する意志が固まっていない。そういうときにつかう「かもしれない」。

 彼女は鋏を武器にして、目の見えない泥棒集団のボスを殺害することができるかもしれない。けれど、それには強い決意がいる。どうしていいか、わからない。その思いが「podría」という動詞の形にあらわれている。

 そういう苦悩があるからこそ、それにつづいて描かれる若い盲目の恋人のセックス描写が実に美しく見える。女は、二人の行為を感動してみてしまう。共感してみてしまう、といえばいいのか。知らずに涙が流れる。最近読んだセックス描写のなかで、私は、これほど美しいことばを読んだことがない。いろいろセックス描写を思い出そうとするが、このサラマーゴの文章を超えるものを思い出すことができない。

 単に、物語を彩るためにセックス描写を交えているのではないのだ。そこには必然がある。そして、その必然を支えるためには、どうしても「できる」ではなくて、その「できる」に逡巡、人間の悩みをこめた形にしないといけない。

 書き出しの訳文についてでも触れたが、雨沢は「語学」はできるかもしれないが、「文学」をまったく理解していないのだ。スペイン語の初級学習者が思うのだから、きっと専門家はもっと厳しく見ていると思う。

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